第5話 弁当屋の秘密
# 第五章 弁当屋の秘密
シャッターを下ろす音が、商店街の静寂に溶けていった。藤堂巌の手が、最後のロックをかける。カチリという小さな音。それが、合図だった。
「……下に降りよう」
巌の声は、昼間よりも少しだけ明瞭だった。いや、違う。声ではない。頭の中に直接響いてくる、奇妙な感覚。藤堂星菜は慣れた様子で頷いた。
「うん。今日のは、ちょっとひどかったね」
千代がエプロンを外しながら、ため息をついた。
「まったくだよ。あの男の頭の中、聞こえてきたよ。『学のない老夫婦』だとさ。笑わせるじゃないか」
「まあまあ」輝が苦笑した。「地球人の認識なんて、そんなものさ。僕たちの本当の姿を知ったら、腰を抜かすだろうけど」
足元で、ポチが小さく吠えた。ワン。その声には、どこか人間臭い皮肉が込められているように聞こえた。
厨房の奥、業務用冷蔵庫の裏側。千代がその扉を開け、中の棚を押した。ガコン、という重い音とともに、床が開く。
階段が現れた。
金属製の、やけに頑丈そうな階段だ。手すりには微かに光る青いラインが走っており、それが暗闇の中で淡く輝いている。踏み込むと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。地下特有の湿気ではない。もっと清潔で、管理された空気。まるで病院か、研究施設のような匂いがした。
一行は黙って階段を下りていく。
十段、二十段、三十段。
地下はどこまでも深かった。
やがて、視界が開けた。
そこは、弁当屋の地下とは思えない光景だった。
広大な空間。天井は見上げるほど高く、そこには無数の照明が星のように散らばっている。壁一面には巨大なモニターが並び、リアルタイムで地球の各地域の映像が映し出されていた。ニューヨークの夜景、ロンドンの朝、東京の昼下がり。それらが同時に、まるで窓のように存在している。
中央には円形のコンソールがあった。その周囲を取り囲むように、数え切れないほどのボタンとスイッチが配置されている。それぞれが異なる色で光り、脈打つように明滅を繰り返していた。赤、青、緑、黄色、紫。まるで生き物のように、基地全体が呼吸しているかのようだった。
床は透明な素材で作られており、その下には複雑な配線が走っているのが見えた。光のパルスが、神経伝達のように床下を駆け巡っている。歩くたびに、足元が柔らかく光った。
空気には微かな振動があった。機械の動作音ではない。もっと繊細で、耳ではなく皮膚で感じ取るような、低い周波数の波動。それが基地全体に満ちており、まるで巨大な生命体の内部にいるような錯覚を覚える。
壁際には、見たこともない形状の機械が並んでいた。球体のもの、立方体のもの、不定形のもの。それぞれが独自の光を放ち、何らかの目的のために稼働している。ある機械からは淡い緑色の霧が立ち上り、別の機械は規則的に小さな音を発していた。ピ、ピ、ピ、ピ。その音は心臓の鼓動に似ていた。
これが、まんぷく亭の真の姿だった。
地球征服のための諜報活動拠点。惑星間通信設備を備えた、宇宙ステーション級の秘密基地。
星菜は中央のコンソールに手を置いた。その瞬間、彼女の髪が動いた。
いや、髪ではない。
触手だ。
彼女の長い黒髪が、まるで意思を持つかのようにうねり、広がっていく。それぞれの先端が微かに発光し、空気中で優雅に波打った。数は二十本を超える。それらは髪の毛と完全に同化しており、普段は人間の髪と見分けがつかない。だが今、その正体を隠す必要はなかった。
触手の一本が、コンソールのパネルに触れた。瞬時に、目の前のモニターに情報が展開される。
「白金グループの動向、表示」
星菜の声に応じて、画面が切り替わった。企業の組織図、財務状況、進行中のプロジェクト一覧。それらが次々と表示され、3D映像として空中に浮かび上がる。
「地上げ計画、進行率87パーセント」画面が赤く点滅した。「残存対象、まんぷく亭のみ」
千代が舌打ちした。
「やっぱりね。私たち以外、全部片づいちゃってるよ」
彼女がコンソールの別のボタンを押すと、巨大なホログラム地図が現れた。商店街の立体模型だ。それぞれの建物に色がついている。青は買収済み、黄色は交渉中、赤は未交渉。
まんぷく亭だけが、赤く光っていた。
千代の指が地図の上を滑る。その動きに合わせて、情報が次々と表示された。
「山田さんの自転車屋、先月移転。佐々木さんの雑貨屋、今週移転完了。角の喫茶店、二週間前に閉店。魚屋の大将、先々月には引っ越しちゃった」
「みんな、行っちゃったんだね」星菜が小さく呟いた。
その声には、寂しさが滲んでいた。彼女は地球に来てから、この商店街の人々と親しくしてきた。朝の挨拶、世間話、ときには愚痴を聞くこともあった。それが、日常だった。温かくて、何気なくて、かけがえのない日常。
だが、その日常が崩れようとしている。
輝がコンソールの前に立った。彼の顔が、ゆっくりと変化していく。
甘いマスクが歪み、溶けるように形を変えた。額の中央、そこに巨大な目が開く。
一つ目。
人間の目の三倍はあろうかという、大きな瞳。虹彩は金色で、瞳孔は縦に細長い。まるで爬虫類のような、だが同時に深い知性を感じさせる目だった。その目が一度瞬きをすると、周囲の情報が全て彼の網膜に焼き付けられた。
「視力7.0、暗視モード」輝が呟いた。「周囲200メートル以内、生命反応なし。盗聴器、なし。監視カメラ、なし。安全確認完了」
彼の目は、普通の人間には見えないものを見る。赤外線、紫外線、電磁波。あらゆる波長を捉え、分析し、脅威を判別する。それが一等恒星国第三王子、一ノ瀬輝の能力だった。
巌が深呼吸をした。
その瞬間、空気が震えた。
いや、空気ではない。全員の頭の中が、だ。
『状況を整理しよう』
巌の声が、直接脳内に響いた。テレパシー。惑星ムーバの住人にとって、それは呼吸と同じくらい自然なコミュニケーション手段だった。言葉よりも正確で、誤解の余地がない。感情も、意図も、全てがダイレクトに伝わる。
『白金グループは、この一帯を買収し、大型カジノ施設を建設する計画だ』
巌の思念が、情報となって全員の脳に流れ込んだ。それは言葉というよりも、映像に近い。森下との会話、交渉の内容、提示された条件、そして彼の内心。全てが、一瞬で共有された。
『彼らは、私たちを単なる障害物としか見ていない』
「ひどいもんだね」千代が苦々しく言った。「地球に来て二十年、毎日毎日、一生懸命弁当を作ってきたってのに」
彼女の手が、コンソールのパネルを撫でた。その手つきには、愛情が込められている。この基地を管理し、メンテナンスし、進化させ続けてきたのは千代だ。彼女にとって、この基地は単なる道具ではない。相棒であり、我が子のようなものだった。
「引っ越しなんかしたら、この子たちを全部移設しなきゃいけない」千代が続けた。「どれだけ大変か、あの連中にはわからないだろうね」
星菜の触手が、怒りでわなないた。それらは空中で激しく波打ち、近くの計器に触れそうになった。
「落ち着いて、星菜」輝が素早く声をかけた。「計器を壊したら、千代さんに怒られるよ」
「わかってる、わかってるけど!」
星菜の声は震えていた。怒りと、悲しみと、無力感が混ざり合っている。
「私、この街が好きなの。お客さんたちが好き。毎日来てくれる田中さんも、鈴木さんも、木村さんも。みんな、笑顔で『いつもの』って言ってくれる。それが嬉しくて、幸せで」
触手が、力なく垂れ下がった。
「なのに、どうして。どうしてこんなことに」
ポチが、星菜の足元に寄り添った。その小さな体を、彼女の足に押し付ける。慰めているのだ。一見ただの柴犬に見えるポチは、実は高度な知性を持つ宇宙生物だ。感情を理解し、共感し、時にはチームの心の支えとなる。
ワン、とポチが鳴いた。その声は、いつもより低く、優しかった。
輝が一つ目を細めた。
「僕も、引っ越したくない」
彼の声は静かだったが、強い意志が込められていた。
「ここで、料理を作るのが好きだ。地球の食材は多様で、調理法は無限にある。宇宙のニュートリションプレートなんかとは比べ物にならない。毎日新しい発見があって、学ぶことがあって、それを客に出すと喜んでくれる」
一つ目が、ゆっくりと瞬きをした。
「故郷に帰るつもりはない。少なくとも、今は」
『私も同じだ』
巌のテレパシーが、温かく響いた。
『地球は、良いところだ。ここで暮らすことに、何の不満もない』
千代が腕を組んだ。
「じゃあ、決まりだね。引っ越しなんかしない。この場所を守る」
「でも、どうやって?」星菜が尋ねた。「相手は大企業だよ。お金も、権力も、全部向こうが上。私たちができることなんて……」
「あるさ」
千代がニヤリと笑った。その笑みには、いたずらっぽさと、同時に恐ろしいほどの自信が宿っていた。
「私たちは宇宙人だよ。地球人なんかよりずっと、ずーっと進んだ技術を持ってる。この基地を見なよ。地球の科学じゃ、あと百年経っても作れやしない」
彼女がパネルをタッチすると、壁から新たな機械が現れた。銀色の筐体に、無数の発光ダイオードが埋め込まれている。それが起動すると、空中に立体映像が浮かび上がった。
武器のリストだった。
「レーザー光線銃、携帯型プラズマキャノン、重力制御フィールド発生装置、分子分解ビーム……」千代が指を滑らせながら読み上げていく。「どれも地球の軍隊じゃ太刀打ちできない代物さ」
「でも」輝が眉をひそめた。「それを使ったら、僕たちの正体がバレる」
「バレてもいいじゃないか」星菜が言った。「もう、限界だよ。隠れてばかりじゃ、何も守れない」
『待て』
巌のテレパシーが、二人を制した。
『暴力は最後の手段だ。まず、平和的な解決を探ろう』
「平和的って」星菜が首を傾げた。「どうやって?」
『相手の目的を考えるんだ』
巌の思念が、分析を始めた。
『白金グループは金儲けが目的だ。ならば、僕たちと戦うより、協力した方が利益になると思わせればいい』
「無理だよ」星菜が首を振った。「あの社長、絶対に話が通じないタイプだもん」
『ならば、別の方法を』
千代が何かを思いついたように、パチンと指を鳴らした。
「そうだ。圧力をかけよう。向こうが圧力をかけてくるなら、こっちもやり返せばいい」
「どうやって?」
「簡単さ」千代がモニターを操作した。「白金グループの弱みを探して、それをネタに脅すんだよ」
画面に、企業の機密情報が次々と表示された。不正な会計処理、裏金、賄賂、違法な取引。それらが、容赦なく暴かれていく。
「これだけあれば、十分だね」千代が満足げに頷いた。「マスコミにリークすれば、あっという間に大騒ぎさ」
「でも」輝が慎重に言った。「それって、恐喝じゃないの?」
「恐喝?」千代がキョトンとした顔をした。「違うよ、これは正当防衛だよ」
「地球の法律では、それも犯罪だと思うけど」
「えー、そうなの?」
千代が心底驚いた様子で首を傾げた。地球の常識と宇宙の常識は、必ずしも一致しない。彼女にとって、情報戦は正当な戦術の一つに過ぎなかった。
『もう少し、穏便な方法はないか』
巌が苦笑混じりにテレパシーを送った。
ポチが、小さく鳴いた。
ワン。
その声には、慰めるような響きがあった。まるで「大丈夫だよ」と言っているかのように。
「ありがとう、ポチ」星菜が苦笑した。
千代がため息をついた。
「で、どうするのさ。このままじゃ、本当に引っ越さなきゃいけなくなる」
「戦うか?」星菜が触手を一本だけ立てた。「私の力なら、あの社員の一人や二人……」
『暴力は最後の手段だ』
巌のテレパシーが、きっぱりと制した。
『それに、相手は大企業だ。一人を排除しても、次が来る。その次も、そのまた次も』
「じゃあ、どうすればいいの」星菜の声が弱々しくなった。
輝が一つ目を細めた。
「社長を直接説得するとか」
「無理だね」千代が即座に首を振った。「あの手の人間は、金と権力しか信じない。話し合いなんて通じやしないよ」
「じゃあ、脅すとか」星菜が言いかけて、自分で首を振った。「ダメだね。下手に刺激したら、もっとひどいことになりそう」
沈黙が降りた。
基地の機械音だけが、規則的に響いている。ピ、ピ、ピ、ピ。それはまるで、時間が刻一刻と過ぎていくことを示すカウントダウンのようだった。
『情報を集めよう』
巌が、ようやく口を開いた。いや、テレパシーを送った。
『まず、相手のことを知る必要がある。白金グループとは何者なのか。どんな弱点があるのか。どうすれば、僕たちを諦めさせられるのか』
「そうだね」千代が頷いた。「千代の機械で、企業の情報を洗いざらい調べてみるよ」
彼女がコンソールを操作すると、画面に白金グループの情報が次々と表示された。企業規模、事業内容、過去の実績。それらが、立体映像として空中に浮かび上がる。
「うわぁ」星菜が息を呑んだ。「すごい大企業だね」
「ああ」輝が一つ目を凝らした。「不動産開発、建設、娯楽事業。それに……これは」
画面の一角に、奇妙なセクションが表示されていた。
科学情報部。
その下に、さらに細かい部署名が並んでいる。研究開発課、実験管理課、バイオテクノロジー部門。
「科学情報部?」星菜が首を傾げた。「不動産会社なのに、なんでこんな部署があるの?」
「わからない」千代が画面を拡大しようとした。「でも、情報が暗号化されてる。相当機密性が高いみたいだね」
『怪しいな』
巌のテレパシーが、警戒を帯びた。
『普通の企業が、そこまで秘密にする部署を持つものだろうか』
「もしかして」輝が慎重に言った。「僕たちみたいに、何か隠してるのかな」
「かもね」千代が苦笑した。「まあ、今はそれどころじゃないけど」
画面が切り替わり、新たな情報が表示された。
地上げの進捗状況。周辺住民の移転リスト。そして、まんぷく亭を含む一帯の再開発計画。
「カジノ……」星菜が小さく呟いた。「ここに、カジノを作るんだ」
3D映像が回転し、完成予想図が現れた。巨大な建物、きらびやかなネオン、広大な駐車場。それらが、今の商店街の風景を完全に塗り替えていた。
まんぷく亭の場所には、何もなかった。
ただの、空き地だった。
「私たち、消されるんだね」星菜が震える声で言った。「存在ごと、なかったことにされる」
千代が、星菜の肩に手を置いた。
「まだ諦めるのは早いよ」
だが、その声には、いつもの力強さが欠けていた。
『とにかく、今日のところは休もう』
巌のテレパシーが、疲れを滲ませていた。
『明日、改めて対策を考える』
「そうだね」輝が頷いた。「今は頭が回らない」
一同は、重い足取りで階段を上がり始めた。
ポチだけが、基地に残って何かを考え込んでいた。その小さな頭の中で、何かがぐるぐると回っている。だが、それを言葉にするには、まだ時間が必要だった。
夜が更けていく。
地上では、商店街が静まり返っている。シャッターが並ぶ通りに、街灯の光だけが寂しく灯っていた。
まんぷく亭の看板も、闇の中で静かに佇んでいる。
明日も、店は開く。
客が来て、弁当を買っていく。
いつもと変わらない日常が、そこにある。
だが、その日常が、いつまで続くのか。
誰にも、わからなかった。
地下の秘密基地では、モニターだけが光り続けていた。
画面には、白金グループの情報が映し出されている。
そして、その中に、まだ誰も気づいていない、重要な何かが隠されていた。
それが、やがて事態を大きく動かすことになる。
だが、それはまだ先の話だ。
今はただ、機械の音だけが、秘密基地に響いていた。
ピ、ピ、ピ、ピ。
それは、まるで時限爆弾のカウントダウンのようだった。
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