第7話 襲撃前夜

# 第七章 襲撃前夜


 白金冴の執務室は、この街の誰もが見上げる高層ビルの最上階に位置していた。床から天井まで広がるガラス窓からは、眼下に広がる街並みが一望できる。夕暮れの光が白いレザーのソファに斜めに差し込み、磨き上げられた黒檀のデスクを琥珀色に染めていた。冴はそのデスクに肘をつき、細長い指で携帯端末の画面を滑らせていた。爪の先まで完璧に手入れされた指先が、画面に触れるたびに小さく光を反射する。

 画面には、商店街の航空写真が表示されていた。赤い線で囲まれた区画のうち、すでに買収済みの土地は緑色に塗りつぶされている。だが、その中心に、まるで目障りな汚れのように一軒だけ、白いままの区画があった。

「まんぷく亭、か」

 冴は低く呟いた。その声には、苛立ちというよりも、興味を失いつつある獲物を眺めるような冷めた響きがあった。

 交渉開始から三週間。何度使者を送っても、あの無口な親父は首を縦に振らない。金額を吊り上げても、移転先の条件を改善しても、反応は変わらなかった。ただ黙って首を横に振るだけだ。

 他の店は皆、最初は渋りながらも最終的には折れた。理由は簡単だ。交渉が長引くにつれて、周囲の環境が少しずつ悪化していくからだ。ゴミが散乱し、深夜に奇妙な音がし、店の前に不審者が立ち止まるようになる。警察に通報しても、なぜか動きが鈍い。そうした「偶然の積み重ね」が、やがて彼らの心を折るのだ。

 だが、弁当屋だけは違った。何があっても変わらず営業を続け、変わらず客が訪れ、変わらず笑顔で弁当を売っている。まるで、何も起きていないかのように。

 冴は口の端を歪めた。笑顔というには冷たすぎる表情だった。

「時間の無駄だな」

 彼は端末を置くと、デスクの引き出しから銀色のタバコケースを取り出した。蓋を開け、一本抜き取り、金色のライターで火をつける。紫煙が細く立ち上り、夕日に溶けていった。

 ニコチンが肺に染み込むと、冴の思考は鋭さを増した。あの弁当屋に対して、これ以上時間をかける価値はない。交渉は既に失敗だ。ならば、次の手を打つべきだ。より効率的で、より確実な手を。

 冴はインターコムのボタンを押した。

「篠宮を呼べ」

 短く命じると、受話器を置いた。タバコを灰皿に押し付け、もう一度窓の外を見やる。商店街は、夕暮れの中で小さく、脆く見えた。


   *


 科学情報部の研究室は、本社ビルの地下三階に位置していた。エレベーターを降りると、消毒液の刺激的な匂いが鼻をつく。白い壁、白い床、白い天井。ここは病院のように清潔で、墓場のように静かだった。

 篠宮零の研究室は、廊下の奥にあった。扉には「立入禁止」の赤い札が掛けられている。冴がノックもせずに扉を開けると、室内には薬品の匂いと、かすかに生臭い何かの臭いが混ざり合っていた。

 部屋の中央には大きな金属製のテーブルが置かれ、その上には様々な実験器具が雑然と並んでいた。試験管、ビーカー、顕微鏡、そして、半透明の液体で満たされたガラスのケースがいくつも積み重なっている。ケースの中では、何かが蠢いていた。

 篠宮零は、テーブルの前に立っていた。汚れた白衣を羽織り、長い黒髪を無造作に一本に束ねた姿は、まるで廃墟に咲く一輪の花のように、不健康で、それゆえに美しかった。彼は金属製のピンセットで、ガラスケースの中から何かをつまみ上げようとしていた。

「邪魔をするな」

 篠宮は振り返りもせずに言った。その声は若々しいが、どこか機械的で冷たかった。

「今、いいところなんだ。こいつの脳を開いて、扁桃体の反応を確かめたいんだよ。恐怖を感じると攻撃性が増すようにプログラムしたんだが、どうもうまくいかなくてね」

 冴は眉一つ動かさず、篠宮の横に歩み寄った。ガラスケースの中には、犬に似た生物がいた。いや、似ているというには不自然すぎる。体長は中型犬ほどだが、皮膚は黒ずみ、ところどころ鱗のような組織が浮き出ている。顎は異様に発達し、牙が唇からはみ出していた。目は濁った黄色で、瞳孔が縦に裂けている。

 冴はそれを一瞥すると、無感動な声で言った。

「脳を開くのは後にしろ。仕事だ」

 篠宮の手が止まった。彼はゆっくりとピンセットを置き、初めて冴の方を向いた。その顔には、興奮と好奇心が入り混じった表情が浮かんでいた。

「仕事? また誰かを潰すのか?」

「そうだ」

 冴は篠宮の表情の変化を無視して続けた。

「例の弁当屋だ。交渉が長引きすぎている。もう少し、物理的な説得力が必要だ」

「ほう」

 篠宮の口元がゆっくりと歪んだ。それは笑顔というよりも、獲物を見つけた肉食獣のような表情だった。

「実験のチャンスか。それはいい。何を使う? 溶解スライムは商店街の他の店で使って効果実証済みだ。あれは優秀だったな。壁を溶かし、配管を腐らせ、店を内側から崩壊させる。しかも証拠が残らない。警察は老朽化による事故と判断した」

 冴は頷いた。彼の記憶の中で、あの時の報告書が鮮明に蘇る。ある雑貨店が、ある日突然、床が抜けて営業不能になった。店主は泣きながら保険会社と揉めていたが、結局建物の老朽化が原因と判断され、補償金も雀の涙だった。その店は、一週間後に冴の会社に土地を売った。

「溶解スライムもいいが、今回はもう少し派手にいこうと思っている」

 冴はそう言うと、篠宮の目をまっすぐに見た。

「人が死んでもかまわない」

 篠宮の目が、一瞬だけ大きく見開かれた。そしてすぐに、子供のような無邪気な笑みが彼の顔に広がった。

「そうか。それなら、こいつらの出番だな」

 篠宮はガラスケースを軽く叩いた。中の生物が反応し、低い唸り声を上げた。

「生物兵器K-9。野良犬に擬態するように設計されている。外見はほぼ完璧だ。少し近づけば違和感があるが、遠目には本物と区別がつかない」

 冴は興味深そうにケースを覗き込んだ。確かに、遠くから見れば野良犬に見えなくもない。だが近くで見ると、その異様さは隠しようがなかった。

「能力は?」

「まず、排泄物だ」

 篠宮は嬉々として説明を始めた。

「こいつの糞尿には神経毒が含まれている。皮膚に触れれば、即座に神経系統が麻痺する。量が多ければ、呼吸が止まる。死ぬ。しかも悪臭が凄まじい。半径五十メートルは近づけなくなるだろう」

「もう一つは?」

「顎の力だ。こいつの噛む力は、成人男性の骨を簡単に砕く。しかも一度噛みつけば、絶対に離さない。脳に直接電気信号を送らない限り、顎は開かない。つまり、一度噛まれたら最後だ」

 篠宮はそう言うと、白衣のポケットから小さなリモコンのようなものを取り出した。

「これで制御する。行動範囲の指定、攻撃対象の設定、全てここから操作できる。便利だろう?」

 冴は無表情のまま頷いた。

「何匹いる?」

「現在完成しているのは十二匹。全て稼働可能だ」

「全部使え」

 篠宮は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを深めた。

「全部か。贅沢だな。だが、それだけの価値がある実験になるだろう。データが取れる。特に、集団行動のパターンと、複数の個体が同時に攻撃対象を襲った時の効率性を測定したかったんだ」

 冴は篠宮の興奮を無視して続けた。

「警察には既に手を回してある。もし死者が出ても、熊の仕業ということにする。この時期、山から降りてくることもある。不自然ではない」

「完璧だな」

 篠宮は満足そうに頷いた。そして、まるで子供がおもちゃを見せびらかすように、もう一つのガラスケースを指差した。

「せっかくだから、他の成果も見ていくか? 最近いいデータが取れたんだ」

 冴は時計を見た。まだ時間はある。

「手短に頼む」

 篠宮は嬉しそうに別のケースを開けた。中には、魚のような生物が泳いでいた。だが、その体には無数の針のような突起が生えており、鰭は鋭利な刃物のように尖っていた。

「人造魚F-3。外国の海に放流した。こいつは在来種を片っ端から捕食する。しかも繁殖力が異常に高い。一匹が一ヶ月で百匹に増える。今、あの海域の生態系は崩壊寸前だ」

 篠宮は楽しそうに続けた。

「面白いのはここからだ。現地政府は慌てて対策を始めたが、こいつには普通の駆除方法が通用しない。毒も効かないし、網で捕まえようとすると鰭で網を切り裂く。で、どうすると思う?」

 冴は答えず、ただ篠宮を見た。

「うちの会社が、特別な駆除薬を売るんだよ」

 篠宮は高笑いした。その笑い声は研究室の白い壁に反響し、まるで複数の人間が笑っているかのように聞こえた。

「問題を作って、解決策を売る。完璧なビジネスモデルだろう? しかもその駆除薬、実は完全には効かない。魚の個体数を減らすことはできるが、絶滅はさせない。つまり、永遠に薬が売れ続けるわけだ」

 冴は小さく頷いた。確かに、利益は莫大だった。前四半期の海外事業部の売上は、この一件だけで三十パーセント増加している。

「他には?」

「ああ、これもいい」

 篠宮は別のケースを指差した。中には、団子虫のような生物がうごめいていた。だが普通の団子虫よりもはるかに大きく、体長は人間の手のひらほどもあった。

「疫病ダンゴムシD-7。体内に複数のウイルスを保有している。こいつが這った場所には、病原体が残る。水源に放てば、周辺住民が次々に病気になる」

「実用段階か?」

「ああ。既に海外の戦地で使用されている。敵対勢力の支配地域に放って、住民を弱らせる。効果は抜群だ。しかも誰も、団子虫が原因だとは思わない」

 篠宮は満足そうに白衣の裾を翻した。その動きで、床に何かが落ちた。黒い、小さな塊だった。冴はそれを一瞥したが、何も言わなかった。おそらく、実験動物の死骸の一部だろう。

「いい仕事をしているな」

 冴は言った。感情のこもらない声だったが、それでも篠宮には十分な賛辞だった。

「当然だ。俺の研究は、この会社の利益の四十パーセントを生み出している。お前も認めているだろう?」

「ああ」

 冴は頷いた。事実、篠宮の研究がなければ、白金グループはここまで成長していなかった。生物兵器という言葉は聞こえが悪いが、それは見方の問題だ。害虫駆除、環境改善、医療研究。名目はいくらでもつけられる。そして実際に、莫大な利益を生んでいる。

「では、弁当屋への配備はいつ行う?」

 篠宮は壁の時計を見た。

「今夜中に準備できる。明日の夜には配置完了だ」

「早いな」

「当たり前だ。こいつらは俺の最高傑作の一つなんだ。いつでも実戦投入できるように、常に準備している」

 篠宮はそう言うと、再びガラスケースの前に戻った。その背中越しに、冴に向かって言った。

「一つ確認しておくが、本当に人が死んでもいいんだな?」

「ああ」

 冴は即答した。

「弁当屋の人間でも、通行人でも、誰でもいい。死者が出れば、周辺住民は恐怖する。恐怖すれば、あの地域には近づかなくなる。そうなれば、弁当屋も諦めるだろう」

「なるほど。合理的だ」

 篠宮は振り返り、冴を見た。その目には、狂気と興奮が渦巻いていた。

「だが、もし諦めなかったら?」

「その時は、直接攻撃する」

 冴は淡々と答えた。

「生物兵器に弁当屋を襲わせろ。店ごと潰す」

「了解した」

 篠宮は嬉しそうに笑った。その笑顔は、まるで最高のプレゼントをもらった子供のようだった。

「いい実験になるぞ。楽しみだ」


   *


 その夜、冴は自宅のペントハウスで一人、ワインを飲んでいた。グラスの中で、深紅の液体がゆっくりと揺れる。窓の外には、夜景が広がっていた。無数の光が、まるで地上に散りばめられた宝石のように輝いている。

 冴はその光景を眺めながら、弁当屋のことを考えていた。あの店は不思議だった。何があっても揺らがない。まるで、見えない何かに守られているかのように。

 だが、それも明日までだ。

 篠宮の生物兵器は、確実に仕事をする。周辺住民は恐怖し、弁当屋は孤立する。そして最終的には、土地を売るしかなくなる。

 冴はワインを一口飲んだ。舌の上で、果実の甘みと渋みが混ざり合う。

「ビジネスとは、シンプルなものだ」

 彼は独り言のように呟いた。

「障害を取り除き、利益を最大化する。それだけだ」

 グラスを置くと、冴はソファに深く身を沈めた。明日からは、また新しいプロジェクトが始まる。弁当屋の件が片付けば、次は港湾地区の開発だ。そこにも、立ち退きを拒否している住民がいる。また同じことを繰り返すだけだ。

 冴の携帯が振動した。画面を見ると、篠宮からのメッセージだった。

「配備完了。明日の夜、作戦開始」

 冴は短く返信した。

「了解」

 そして携帯を置くと、再び夜景を眺めた。あの光の中のどこかに、弁当屋がある。今頃、彼らは何も知らずに眠っているのだろう。明日、自分たちの店の周りに何が待ち受けているかも知らずに。

 冴の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。それは勝利を確信した者の笑みだった。


   *


 翌日の夕暮れ、篠宮零は黒いワゴン車の後部座席に座っていた。車は商店街から少し離れた路地に停まっている。後ろの荷台には、十二個の金属製のケースが積まれていた。ケースの中からは、時折、低い唸り声が聞こえてくる。

 篠宮は手元のタブレット端末を操作していた。画面には、商店街の地図が表示されている。弁当屋を中心に、赤い点が十二個、円を描くように配置されていた。

「完璧な包囲網だ」

 篠宮は満足そうに呟いた。隣の席には、部下の研究員が二人座っている。彼らは緊張した面持ちで、篠宮の指示を待っていた。

「では、始めよう」

 篠宮はタブレットの画面をタップした。すると、荷台のケースから機械音が響き、蓋が自動的に開いた。

 生物兵器K-9たちが、一匹ずつケースから這い出してきた。その動きは、機械的でありながら、どこか生物らしい不気味さを持っていた。暗闇の中で、彼らの目が黄色く光る。

「目標地点へ移動開始」

 篠宮が指示を出すと、K-9たちは一斉に動き出した。路地を抜け、商店街へと向かっていく。その足取りは、まるで本物の野良犬のように自然だった。

 篠宮はタブレットの画面を見つめながら、興奮を抑えきれない様子で笑った。

「さあ、実験の始まりだ。データを取るぞ。この瞬間のために、どれだけ準備したことか」

 画面上の赤い点が、ゆっくりと弁当屋へと近づいていく。それはまるで、獲物を取り囲む狼の群れのようだった。

 篠宮は、その光景を見つめながら思った。これは科学だ。実験だ。結果がどうなろうと、それは全てデータになる。そして、そのデータこそが、次の進歩を生む。

 彼の目は、子供のように輝いていた。


   *


 商店街は、いつもと変わらぬ夕暮れの風景だった。店じまいを始める店主たち、家路を急ぐ人々。まんぷく亭の前には、まだ数人の客が並んでいた。看板娘の星菜が、笑顔で弁当を手渡している。

「ありがとうございます。また明日もお待ちしていますね」

 彼女の声は、いつもと同じように明るかった。

 だが、その時。

 商店街の外れから、低い唸り声が聞こえてきた。最初は小さく、やがて徐々に大きくなっていく。

 数匹の犬のような影が、ゆっくりと弁当屋へと近づいてきた。その目は、暗闇の中で異様に光っていた。

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