第5話 紅葉の声
十一月の終わり、山の空気はもう冬の匂いを含んでいた。
朝の冷気が頬を刺し、吐く息が白くなる。
それでも、私はその山道を歩いていた。
落ち葉を踏むたび、かさり、かさりと音がして、
まるで誰かがすぐ後ろを歩いているような気がした。
「…ユウくん、元気にしてるかな」
思わず口からこぼれた名前に、自分で驚いた。
もう半年も会っていないのに、まだこんなふうに思い出すなんて。
でも、今日ここに来たのは、たぶん、そういうことなんだろう。
ユウと初めて来たのも、この山だった。
高校二年の秋、文化祭の代休に、ふたりでこっそり抜け出して。
紅葉がちょうど見頃で、山全体が燃えるような赤に染まっていた。
「すごいな、まるで世界が燃えてるみたいだ」
ユウはそう言って、私の手を握った。
その手の温かさを、私は今でも覚えている。
でも、あの手は、もう私のものじゃない。
大学に入って、環境が変わって、
お互いに忙しくなって、すれ違いが増えて、
気づいたら、連絡も減っていた。
最後のメッセージは、たった一言。
「ごめん、もう無理かも」
それだけだった。
私は何も返せなかった。
返したくなかったのかもしれない。
でも、心のどこかで、まだ終わっていないと思っていた。
だから、今日、ここに来た。
あの日と同じ山、同じ季節、同じ紅葉の中で、
何かが変わるかもしれないって、そんな期待を抱いて。
「…バカみたいだな、私」
そう呟いたときだった。
遠くから、鹿の鳴き声が聞こえた。
ひときわ高く、寂しげな声。
紅葉の中に響くその声は、まるで心の奥をなぞるようだった。
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき」
高校の古典の授業で習った和歌が、ふいに頭をよぎる。
あのときは、ただの古い詩だと思っていた。
でも今は、わかる気がする。
この季節の、色づいた葉の下で、
ひとりきりで聞く鹿の声が、どうしてこんなにも胸に響くのか。
「…やっぱり、来てよかった」
私はベンチに腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出した。
ユウの名前をタップする。
最後のメッセージが、まだそこにあった。
指が震える。
でも、今なら、言える気がした。
「元気? 久しぶり。今、あの山に来てるよ。紅葉、すごくきれい」
送信ボタンを押すと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
返事が来るかどうかは、わからない。
でも、今の私は、あのときの私とは違う。
あの紅葉の中で、確かに何かが変わった。
風が吹いて、赤い葉が舞い上がる。
その中に、あの日のユウの笑顔が見えた気がした。
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