第4話 白妙の
冬の朝、駅までの道を歩いていると、空気が澄んでいることに気づく。
吐いた息が白くなり、遠くの山の輪郭がくっきりと見える。
その頂には、雪がうっすらと積もっていた。
「富士山、見えるよ」
そう言ったのは、**綾瀬澪(あやせ・みお)**。
高校三年生。美術部。
彼女は、スケッチブックを抱えて、僕の隣を歩いていた。
僕――**佐野悠(さの・ゆう)**は、彼女の幼なじみ。
でも、最近になってようやく、彼女の隣にいることが自然になってきた。
「白妙の、って言葉、知ってる?」
澪がふいに言った。
「百人一首で出てくるやつだろ?富士山の雪のことを、白い布にたとえてるんだよね」
「そう。白妙の富士の高嶺に、雪は降りつつ――って歌。
田子の浦から富士を見たときの感動を詠んだんだって」
彼女はそう言って、スケッチブックを開いた。
そこには、富士山のラフスケッチが描かれていた。
まだ未完成だけど、山の線は力強く、雪の白さが丁寧に表現されていた。
「この景色、描きたくてさ。
でも、ただ綺麗なだけじゃなくて、なんか…心が洗われる感じがするんだよね」
僕は、彼女の横顔を見た。
澪の瞳は、遠くの山をまっすぐに見つめていた。
*
澪には、去年の冬に大切な人を亡くした過去がある。
それは、彼女の姉だった。
事故だった。突然だった。
それ以来、澪は絵を描けなくなっていた。
「色を塗る気になれなくてさ。
全部、白くなっちゃうの。
まるで、雪に覆われたみたいに」
そう言って、彼女は笑った。
でも、その笑顔は、どこか痛々しかった。
*
ある日、僕は彼女を田子の浦に誘った。
電車に揺られて、海沿いの駅に降り立つ。
冬の海は静かで、空は高く澄んでいた。
「ここからなら、富士山がよく見えるって聞いたんだ」
澪は、スケッチブックを開いて、鉛筆を走らせた。
その手は、少し震えていたけれど、確かに動いていた。
「白妙の、って言葉。
ただ白いだけじゃなくて、心の奥まで染みるような白さなんだよね。
姉さんが好きだった色も、こんな白だった気がする」
彼女はそう言って、筆を止めた。
そして、空を見上げた。
「雪、降ってる」
富士の高嶺に、細かい雪が舞っていた。
それは、まるで誰かが空から優しく布をかけているような、静かな光景だった。
*
帰りの電車の中で、澪は言った。
「ねえ、悠。
私、また絵を描いてもいいかな」
「もちろん。ずっと待ってたよ」
彼女は、スケッチブックを抱きしめた。
その表紙には、今日描いた富士山のラフが見えていた。
*
冬の空気は冷たいけれど、心の中には、確かにあたたかさがあった。
白妙の雪は、ただ冷たいだけじゃない。
それは、過去を包み込み、未来へと導く光でもある。
そして、富士の高嶺に雪が降り続けるように、
僕たちの時間も、静かに、でも確かに積もっていく。
*
――田子の浦に出てみれば、白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ。
その歌が描いた景色は、今も誰かの心を照らしている。
そして、澪の絵もまた、誰かの心に届く日が来るだろう。
それを信じて、僕は彼女の隣を歩き続ける。
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