第13話 『Interlude – 幕間 #3 “氷点下の厨房、あるいは凍てつく愛の予感”』

 ……ごちそうさまでした。

 私の口から、自然と感謝の言葉が漏れた。


 満たされている。胃袋だけでなく、身体の隅々まで、重たい愛の質量で満たされている。

 それは決して不快な重さではない。

 けれど、一度沈んでしまえば二度と浮き上がれない、底なし沼のような充足感だ。

 胃の腑には、溶けた黄金が重く沈殿し、内側から私の肉体を焼き続けている。


「お粗末様でございました」

 綾霞が、純白のエプロンを整え直し、静かに告げる。


 その薄赤色の瞳は、再び、私の『何か』を見極めるように細められている。


「ですが、まだまだ終わりではありません。……いえ、むしろ今ようやく、宴は序盤を終えようとしているところです」


 彼女は厨房の方へ視線を向ける。

 重厚な扉の向こうから、先ほどまでの荒々しい黄金の熱気とは違う気配が漂い始めていた。


 それは、静かで、透き通るような冷気。

 まるで、真冬の朝の空気のように、鋭く澄んでいる。


「濃厚なスープの後は、繊細な火入れを施した魚料理。……凍てつく心と、咲き誇る才能の物語をご用意いたしましょう」


 綾霞が厨房へと戻っていく。

 扉が開いた瞬間、そこから吹き出した冷気が、ダイニングの空気を一変させた。


 テーブルの上の水差しが、カチンと音を立てて凍りつく。

 窓ガラスに、氷の華が咲き始めた。


「次なるメニューは『魚料理(ポワソン)』。……無能と蔑まれた姫君が、氷の魔導師の心を溶かす。愛と覚悟の一皿でございます」

 ギィ、と扉が開く。

 ヒュオォォォッ、猛吹雪のような冷気が吹き荒れ、私の火照った肌に触れて、ジュッと音を立てて蒸発した。

 そういって、彼女の姿は扉の向こうへと消えて行った。



 ◇  ◇  ◇



 厨房の中は、冷凍庫のように冷え切っていた。

 棚に並んだ感情の瓶詰めたちも、表面に霜が降りている。


『憧憬』『劣等感』『覚悟』……。

 ラベルの文字も白く凍りつき、読み取るのが難しい。


 綾霞は、氷でできた調理台の上に、一匹の魚を乗せた。

 それは『白身魚』の形をしているが、鱗の一枚一枚が、薄い氷の花びらでできている。


「……下処理が肝心ですね」

 彼女は、切っ先が鋭く尖ったフィレナイフを手に取る。

 その刃もまた、氷のように冷たく研ぎ澄まされている。


 ザクッ。

 ナイフを入れると、魚からは血ではなく凍てつく『拒絶の言葉』が冷気となって溢れ出した。

『近寄らないで』『貴女は毒だ』心を凍てつかせ、愛する者を遠ざけることでしか守れなかった、不器用な魔導師の悲鳴。


「冷たいままでは、誰も見向きもしない。……けれど、その芯には、誰よりも熱い『情熱』が隠されている」

 綾霞は魚の腹を開き、そこから真っ赤な『心臓』を取り出した。


 凍てつく魚体の中で、それだけが唯一、火傷しそうなほどに熱く脈打っている。

 氷壁の奥に隠されていた、すれ違いの恋慕の情動。


「これを、氷の衣で包み込み、蒸し上げる。……相反する熱と冷気が混ざり合う瞬間こそが、この料理の真髄」

 彼女は手際よく調理を進める。

 その指先が触れるたび、食材たちは美しく、そして残酷に形を変えていく。



 ◇  ◇  ◇



 ダイニングルームでは、私が深く息を吐く。呼気が白く濁る。


 館の空気が、少しずつ、けれど確実に冷え込んでいるのを感じる。

 先ほどまでの黄金の温もりが、急速に奪われていく喪失感。


「……寒くはありませんか?」

 紗雪が、私の手を握りしめる。

「あっ……熱い」

 彼女が目を丸くする。


 私の体温は今、竜のスープの影響で異常な高熱を発していた。


「まるで暖炉のようですわ。……冷え切ったこの部屋で、あなた様だけが燃えている」

 その翡翠色の瞳が、心配そうに、けれどどこか期待に満ちた色で私を見つめていた。


 不思議なことに、極寒の冷気の中にいるはずなのに、心地よさすら感じている。

 胃の奥から、熱がじくじくと滲み出してくる。

 体は冷気に対抗するように、程よい火照りを生み出し、むしろ紗雪に熱を分け与えているよう。


「次は、とても綺麗なお料理ですわ。……氷の中で咲く花のように、美しくて、儚くて。そして、あなたの心を、芯から溶かしてしまうような」


 私は頷くことしかできない。

 氷に侵食されていく屋敷の中にあって、心の奥底で、新たな物語への渇望が熱く渦巻いているのだから。

 そう、たとえこの身が『何故か』極点よりも寒いこの空間に何ら痛痒を感じていないとしても。


 熱すぎる愛(スープ)で焼かれた身体が、鎮火剤としての氷を求めて疼いている。

 同時に、さらなる温もり(愛)もまた、渇望している。

 凍えるほどの寒さの中でこそ、人は温もりを求める。その理に相違はないのだから。

 物語がもたらす『熱』を、私の魂が欲していた。



(To be continued ... 12/14 Poisson)

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