第12話 『シルクの包容、あるいは永遠の鳥籠』
綾霞が取り出した、木製の小箱。
そっと手を差し入れ、ふわりと舞い落としたのは、純白のシルクで編まれた『リボン』。
繊細な網目模様を描くそれは、極限まで薄く伸ばされた高密度のミルクの結晶。
煮えたぎる黄金のスープへと静かに着水する。
瞬間、黄金色が白く濁り、とろりとしたクリーム色へと変貌していく。
しゅわぁ~……。
優しい音と共に立ち上ったのは、甘く優しいミルクの香りを含んだ蒸気。
ダイニングルームに充満し、燃え盛っていた幻覚の炎を、まるで霧が晴れるように鎮めていく。
焦げた壁紙が元に戻り、砕け散った窓ガラスが修復されていく。
外に広がる森の木々もまた、ねじくれ節くれだった姿を、白い薄衣に包まれ隠す。
濃密なミルクのようだった霧も一段薄れ、どこまでも広がる、白い紗の薄布で覆われた森が姿を現す。
時が巻き戻ったかのように。あるいは、世界そのものが『優しい嘘』で書き換えられたかのように。
「『竜ドレス』、最後の一匙。……絶対的な力による『守護』と、誰にも邪魔されない、『逃避行』という名の『勇往邁進』による仕上げでございます」
綾霞の声が、蒸気の向こうから厳かに響く。
私は、視線を手元に落とし。
すっかりと様相の変わったスープを口に運ぶ。
先ほどまでの焼けるような辛さも、喉を裂く熱さも消え失せていた。
口の中に、分厚く、柔らかな膜が張られたようだ。
あらゆる刺激、痛み、不快感が遮断される。
代わりに広がるのは、母胎の中のような絶対的な温もりと、とろりとした甘さ。
砂糖や甘味料の甘さでは決してない。複雑に引き出された、様々な素材。
極限まで濃縮された『安らぎ』と『庇護欲』が結晶化した、温かな甘露の味。
それはまるで、最高級のシルクを舌の上で転がしているような、滑らかで贅沢な食感。
喉を通るたびに、身体の芯から力が抜けていく。
ただ、このスープの中に――いや、竜の腹の中に――永遠に浸っていたいという、背徳の堕落感だけが残る。
◇ ◇ ◇
恐ろしい竜の一撃に、一巻の終わりを覚悟し、思わず目をつむる。
(死ぬ……!)
――パリン。
涼やかな音が、絶望を切り裂いた。
痛みはない。
恐る恐る目を開けると、そこには無傷の少女。
彼女が纏う純白のドレス『天使の産衣』のリボンが、意思を持ったように舞い上がり、ドラゴンの爪を虚空へと消し去っていた。
私(ラズリ)が織り上げた最強の加護。
天の魔力を編み込んだ、絶対不可侵の要塞。
ああ……よかった。
安堵と共に、温かいスープが胃の腑へと落ちていく。
それは、嵐が去った後の凪のような、重厚で絶対的な安心感。
私は少女を抱きしめる。
壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないように。
甘い花の香りと、スープの芳醇な香りが混ざり合い、脳髄を痺れさせる。
「約束するわ。……何者にもあなたを害させない」
私は誓う。
この不自由な人の身のままでも、世界を敵に回しても、貴女だけは守り抜く。
『赤き厄災』と呼ばれるドラゴンの影が怯えて去っていく。
ざまあみろ。私の愛は、星の理さえもねじ伏せる。
私は彼女の白い首筋に唇を寄せる。
所有の証を刻むように、深く、熱く。
スープの最後の一滴を飲み干すと同時に、体内で『何か』が完全に融解した。
◇ ◇ ◇
……ふぅ。
現実の私が、深く息を吐く。
空になったスープ皿の底に、自分の顔が映っている。
その瞳は、一瞬だけ――爬虫類のように縦に裂け、金色に輝いていたような気がした。
身体の芯まで熱い。
まるで私の内側に、星をも吞み込む竜が棲みついたかのように、お腹の底からポカポカと、幸せな重みが満ちていた。
「……もう、怖くありませんわ」
紗雪が、私を後ろから抱きしめる。
その身体は、もう高熱を発してはいない。
ただ、人肌のような、けれどどこか人間離れした弾力のある温もりだけを伝えてくる。
彼女の腕が、私の首にそっと回される。
それは、首輪のように優しく、けれど絶対に逃がさないという意思を込めて。
彼女は私の耳元で、子守唄のように囁く。
「世界中が敵に回っても、わたくしだけは、あなたの味方。……だから、もう何も考えず、ただわたくしに愛されていればいいのですわ」
私の視界が白く霞む。それは蒸気のせいだけではない。
意識が、幸福な微睡みの中へと沈んでいくのだ。
スープ皿の底には、もう何も残っていない。全て飲み干してしまった。
竜の愛も、執着も、そして――私を縛り付けようとする『見えない楔』も。
飢えるように『推させてくれる』存在を求める気持ちも。
『推し』の輝きに縋りつく気持ちも。
いつの間にか私の中から融けて消えていた。
ただ……代わりというように。
目の前でそっと微笑み私を見つめる、灰銀色の髪の人形少女へのとても、とても。
大きな想いがお腹の奥に、あのスープのように重く溜まっているのを感じた。
カチャン。綾霞が、空になった皿を下げる。
霧が晴れたダイニングルームには、いつもの静寂が戻っていた。
けれど、窓の外だけが違っていた。
先ほどまで蠢いていた森の木々が、今はもう、全て真っ白な布のはためきへと変わっている。
空も、地面も、すべてが白いシルクのドレープに覆われている。
世界は、私と彼女たちだけのために用意された、巨大なドレスの裾(繭)の中に閉じ込められたのだ。
【本日のメニュー:Potage Finale】
『竜ドレス』 ~天竜の溺愛をじっくり煮込んだ、黄金のコンソメスープ~
第3章 『白亜の絶望、あるいは最強の愛の証明』
https://kakuyomu.jp/works/822139840101137517/episodes/822139840189340428
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