魚料理編:氷と花の共依存を食す

第14話 『氷獄のヴァプール、あるいは腐らない恋』

 カツン、カツン。

 綾霞の足音が、凍りついた床に鋭く響く。


 彼女が運んできたのは、銀色のクロッシュで覆われた皿だった。

 しかし、そこから湯気は立っていない。代わりに、クロッシュの表面が白く結露し、冷気が滝のようにテーブルへと流れ落ちている。


「お待たせいたしました。……今宵の魚料理でございます」

 綾霞が、手袋をはめた手で蓋を持ち上げる。

 ――ヒュゥゥゥ……。

 吹雪のような音がした。


 現れたのは、純白の皿の上に鎮座する、一輪の『氷の蕾』。

 白身魚の薄造りを幾重にも重ねて作られたそれは、花びらの一枚一枚までが凍りつき、ダイヤモンドのように硬質な輝きを放っている。

 付け合わせには、枯れ落ちた薔薇のような色をした、茶色いソースが添えられていた。


「美しいでしょう? ……けれど、これは『咲くことを許されない花』」

 紗雪が、私の肩越しに皿を覗き込む。

「無能と蔑まれ、触れるものすべてを腐らせてしまう姫君の、悲しい運命(さだめ)の形ですわ」


 その吐息が白い霧となって、氷の蕾に触れる。


 私はナイフを入れる。

 カッ。鋭い音と手ごたえと共に、手首に痺れが走った。

 魚肉とは思えない、氷河の万年氷を削るような絶対的な拒絶の手応え。


(入ってくるな。私に触れるな)

 食材そのものが、私を拒んでいるかのよう。

 けれど、なんとか重ねられた白身の層に少しずつ分け入り、ついに刃が中心に達した瞬間――とろりと、温かい液体が溢れ出した。


 内包されていた赤い宝珠から滴る、情熱のソース。

「『花咲姫』、一輪目……召し上がれ。冷徹な氷の檻の中で、誰よりも熱く焦がれる、恋の味を」


 私は、氷の切り身と、温かいソースを絡めて口に運ぶ。

 舌に乗せた途端、粘膜に張り付き、凍傷の痛みが走った。

『……臭う』脳内に、冷徹な声が響く。『貴女の纏う爛れた花の香気……耐えがたい』言葉の礫が、冷気となって鼓膜を刺す。視界が白く染まる。舌が張り付きそうなほどの冷気が、口内を蹂躙する。



 ◇  ◇  ◇



 白く染まった視界が開けると、私は、花が腐り落ちる温室に立っていた。

 目の前に立つのは、神が氷から削り出したような麗人。

 彼女のサファイア色の瞳が、ゴミを見るような冷たさで私を射抜く。


「……臭う」


 美しい唇から紡がれる拒絶の言葉。

 彼女の纏う冷気が、私の肌を刺す。

 痛い。

 悲しい。

 けれど、どうしようもなくゾクゾクする。


 この国最強の魔導師である彼女が、無能な私を認識し、言葉を投げかけてくれている。

 その氷のような視線に貫かれるだけで、私の身体の奥底で、暗く湿った熱が疼き出す。


 彼女の指先が、私の顎に触れる。

 愛撫ではない。急所を探るような、冷徹な捕食者の手つき。

 ひやりとする冷たさが、逆に私の肌に焼き印のような熱を残す。


(見てくださった。触れていただけた。私という『異物』を認識してくださっている)

 嫌悪でもいい。軽蔑でもいい。

 その完璧な氷の瞳に、私だけが映るのなら。


「あなたの熱が、私には毒なのです」


 拒絶されるたび、嫌われるたび、私の胸の恋慕は腐敗した花のようにドロドロと甘く熟成されていく。

 口の中に残る魚料理の後味は、涙のようにしょっぱく、そして絶望的に美味だった。



 絶対零度の拒絶。誰の侵入も許さない、孤高の魔導師の心。

 姫を愛し、それ故に拒絶する心を隠す、冷たき魔導師。



 ◇  ◇  ◇



 ゴクリ、と飲み込む。

 喉を通る冷気が、食道を凍らせていく。


 だが、その直後。

 熱いソースと混ざり合った氷が、あれほどまでに冷たく凍てついていた氷が、ドロリと溶け出した。

 冷たさと熱さが混ざり合った、生温かい液体。

 それはまるで、冷徹な魔導師が流した「動揺」の証を啜っているような、背徳的な味だった。


 凍える室温には動じなかった私の身体が、心の奥底からの冷気に震える。

 私はガチガチと歯を鳴らし、震えだす。

 寒い。

 冷たい。

 それなのに、胸の奥の一部だけが異常に熱い。

 凍りついた心臓に、必死で火をつけようとしているように。


 「……ふふ、震えていらっしゃいますの?」

 紗雪が、私の背中に密着する。

 彼女の身体は、凍える私には驚くほど熱い。

 凍えた私を温めるように、あるいは、その震えを楽しむように、強く抱きしめてくれる。


「寒さのせい、だけではありませんわよね? いえ、むしろ。えぇ、あなたの身体には確かな熱がまだ宿っている」

 彼女の指が、私の背筋を這い上がる。

「拒絶されるたびに熱くなる……あなたも、そういう壊れた愛がお好きなのかしら?」


 彼女の指が、私の心臓の上を這う。


「見えますわ。あなたの中で、氷に閉ざされていた『情熱』が、出口を求めて暴れているのが」


 綾霞が、無言で次のカトラリーを並べる。

 その銀食器には、霜が降りていた。


 皿の上には、微かな水滴を表面に宿し始めた氷の蕾が再び現れていた。


 それは咲き誇る時が待ち遠しいと、涙を抑えるように、微かに脈動していた。


「……急いでください。氷が溶け始めてしまう前に。抑えきれない熱が、全てを無為に流してしまう前に」

 私の視界が白く染まる。それは吹雪か、それとも、咲き乱れる花の幻影か。



【本日のメニュー:Poisson】

『花咲姫』 ~氷結と開花、二つの才能が織りなす白身魚のヴァプール~

 第1章 『凍てつく瞳、徒花(あだばな)の熱』

https://kakuyomu.jp/works/822139839424628161/episodes/822139839424649327

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