第6話 『脳が溶ける色彩(いろ)の味、脳髄を焼く情報の奔流』
脳内を侵す極彩色にあてられ、もう一口。
咀嚼する。
けれど……やっぱり、何の味もしない。
私の口内にあるはずの魚肉は、舌に触れた瞬間、砂のように崩れ去り、虚無へと溶けた。
味がない。香りがない。温度さえもない。
たった今見えた、あの溢れんばかりの極彩色との落差に、余計にこの無味乾燥さが耐えられなくなる。
ただそこにあったはずの『存在』が体内へと消失していく喪失感だけが、喉を滑り落ちていく。
切り身の魚、カルパッチョも。皿の底に敷かれている灰色のムースなのか、ゼリー寄せなのかも。
口に含めば、砂を噛むような退屈と孤独のざらつきだけを残して消える。
「……ふふ、味がしませんか? 色が、見えませんか?」
紗雪が、ノイズ混じりの声で囁く。
私が顔を上げると、ダイニングルームの景色がさらに一変していた。
先ほどまで毒々しく明滅していたネオンカラーが、急速に彩度を失っていく。
剥がれ落ちる、極彩色のペンキ。その下から現れたのは、死んだ灰色。古いモノクロ映画から明度の差すら奪い去ったような、完全なる虚無。
テーブルも、皿も、私の手さえも。全てが鈍色に塗りつぶされていく。
「あぁ、可哀想なお客様。……世界から『色』が奪われていく恐怖。それが、この物語のエッセンスですわ」
紗雪の肌もまた、灰色に染まっていた。
けれど、その翡翠色の瞳だけが――いや、瞳の中に流れる文字列だけが、バグった電子掲示板のように激しく明滅している。
『返して』『行っちゃダメ』『色を』『危ないよ』『誰か』。
彼女の眼球の中で、誰かの悲痛な叫びが文字となって渦巻いている。
紗雪は虚空を掴むように手を伸ばし、自身の喉を掻きむしるような仕草をした。
「てけ、り……りぃ……。色が、ないの。私の色が……! ちょうだい、私に色を頂戴! あなたの色を、私に頂戴!」
彼女の輪郭がぶれる。
ドールとしての美しい造形が崩れ、灰色のノイズとなって霧散しようとしている。
「お客様。……そのままではいけません」
綾霞の冷徹な声が、灰色の静寂を切り裂いた。
彼女はビデオカメラのレンズを、私の口元へとズームさせる。
その薄赤色の瞳は、ファインダー越しに冷ややかな興奮を宿していた。
「失われたものを埋めるには、刺激が必要です。……さあ、その瓶の中身を。あなたの世界を塗り替える『劇薬』を、ほんの少し」
私の手の中にある、多面体の瓶。
灰色に沈んだ部屋の中で、それだけがまだ、目が痛くなるほどの色彩を保っていた。
瓶の中で、極彩色の液体が生き物のように暴れまわっている。
うぞり、うぞる。
ガラスの壁を内側から叩き、外へ出せと叫んでいるよう。
「あぁ……けれど、ゆめゆめお気を付けを! あと少し、あと少し。その先に待ち受けるのは……あは、あはははは」
紗雪が手を後ろに回し、いたずらな微笑みを浮かべ私を見つめる。
私は震える手で、瓶を傾ける。
――ドロリ。
こぼれ落ちたのは、ドレッシング? いいえ。それは、融解した宝石であり、すり潰されたナニカであり、濃縮された宇宙の星雲だった。
灰色の皿の上に、極彩色の汚泥が垂れ落ちる。
美しい警告色が、味気ない灰色の世界に、失われかけていた私の感覚に、危険な『食欲(好奇心)』を呼び覚ます。
――ジュウウウッ!!
爆発的な音が響いた。
液体が皿に触れた瞬間、化学反応などという生易しいものではない、現実の浸食が始まる。
灰色の魚肉が、原色の血管を浮き上がらせて脈打ち、肥大化する。
赤、青、黄、紫……無数の色が混ざり合い、融け合う。
この世の食材に存在するはずのない色までもが、皿の上で狂ったように踊り狂う。
腐敗しかけの甘い芳香が入り混じった、脳髄を溶かすような匂いが立ち上った。
「ああ……! 見えますか、この素晴らしい色! この、冒涜的な輝き!」
紗雪が歓喜の声を上げる。
彼女の、灰色に沈んだメイド服から覗く灰色の肌に、今度は血管のようにネオンカラーのラインが走り、ひび割れていく。
美しかった球体関節もひび割れ、動きがぎこちなくなっていく。
ひび割れた体中の裂け目から、眩い光が溢れ出した。
「食べて! 早く食べて! 私の身体を、この『色』で満たして! そうすれば……ママも、私も、ずっと一緒!」
くるくる、くるくる。
まわるまわる、鈍色のスカートを翻して。
私の背後に回った彼女。
私に覆いかぶさり、強引にフォークを再び握らせる。
「さあ、この狂乱のまま、次のお話を。『邪神百合配信』二口目。……失われた色を求めて、少女が何をしでかしたのか。その『代償』をご賞味ください」
綾霞の冷徹な声が、そっと差し込まれる。
背中に当たる柔らかな感触に酔いしれる間もなく。その力は、華奢な人形少女のものとは思えないほど強く。
私の手首が悲鳴を上げる。
私は抗えず、極彩色に脈打つ魚肉を口へと運ぶ。
舌に乗せた瞬間、味覚が爆発した。
甘い、辛い、苦い、酸っぱい――そんな単純な言葉では形容できない。
まるでそういう、味覚という名前を借りた、『情報』の奔流。
何億もの色彩データが、視神経を逆流して脳を焼き尽くす。
灰色の絶望が、一瞬にして狂乱の極彩色へと反転する。
◇ ◇ ◇
『……う、あぁ……』
私の意識が飛び火する。
そこは、またしてもあの洞窟、ダンジョンの中。
苦い。痛い。極彩色の夢は一転、腐った虹色の悪夢へと変わる。
探索され尽くしているはずのダンジョンの中、とんでもない幸運な新発見と思った、極彩色をくれる亀裂を通り抜けた先。
そこは、全ての色を奪うなにかが潜む、危険地帯だった。
目の前で、大切な私の召喚獣、スライム?
……え? これ違わない? 本当にスライムであってる?
思わず現実の私の意識が一瞬、冷静になりかける。
スライムもどきの何か。もっとはるかに悍ましい、この世に在っては絶対にいけないモノ。
黒い宝石のような目玉が無数に浮かぶ、粘り気のある黒いゼリー体。
鈍色の世界にあって『黒』をくれる、かわいい? 召喚獣『ポチ』が色を失い、崩れ落ちていく。
あぁ、それは私の世界からまた色が失われたことを意味していた。
喪失。
全てがまた、平坦な灰色に沈んでしまう。
嫌、いや、いやいやいや。それは嫌。
彩りが、灰色の砂となって消えていく。絶望が喉を塞ぐ。
嫌だ、返して。私の色を奪わないで。
貪欲に、わずかな色すら奪い取っていくなにかに、成す術もない。
その時、鋭い痛みが走った。
自分の太ももを引き裂く感触。
滲みだす液体。
それは――鮮烈な『赤』。
あはっ……赤い、私の血、赤いよ!
灰色の世界で唯一、自分の中から溢れ出した鮮血の色。
その赤が、灰色を塗りつぶしていく快感。痛みなんてどうでもいい。この赤こそが救いだ。
灰色だけの世界なんて、もう耐えられない。
どんどん広がれ、私の赤! 灰色を塗りつぶせ!
私の指先が、灰色の中で鮮明な『赤い』水たまりに触れる。
その奥底に、見たこともない別の『色』が滲んでいるのが見えた。
生命が溢れ出すような、温かくてねっとりとした、母胎の温もりのような色。
「あっちに行きたい……」
私は、その色に向かって手を伸ばす。指先で、召喚陣が輝いた。
血の赤に導かれるように、唇が勝手に祝詞を紡ぐ。
「いあ……いぁ……」
召喚の言葉と共に、料理の奥底から、ドロリとした、あらゆる色が混ぜ合わされたが故の漆黒が溢れ出してくる。
それは羊水のように温かく、私を内側から満たしていった。
◇ ◇ ◇
「……記録(REC.)、記録(REC.)、記録(REC.)。素晴らしい表情です」
綾霞が満足げに呟く。
私の視界はもう、正常ではない。
綾霞の姿が、無数の幾何学模様に分解され、また再構築されるのを繰り返している。
館の壁が呼吸するように脈動し、床が液状化して足元をすくう。
私は激しく咳き込む。
口の端から、極彩色の唾液が糸を引いて垂れた。
床に落ちた滴が、ジュッと音を立てて絨毯を焦がし、そこから毒々しい色の花を咲かせる。
この料理は、毒だ。
けれど、もう止まらない。身体が、魂が、この劇薬なしではいられなくなっている。止まれるはずがない。
「あはっ、あははは! 綺麗、綺麗よお客様! あなたの中身が、私の中身が、どんどん書き換えられていくわ! 感じる。感じるのぉ!!」
紗雪が私の首に腕を回し、頬ずりをする。
その肌は熱く、電子機器の排熱のように火照っていた。
彼女の背後で、影が大きく膨れ上がる。それは不定形の、無数の触手を持った何かの姿。
「契約成立、ですね。……これでもう、あなたは住人(リスナー)です」
綾霞がカメラを下ろし、にこりと笑った。
彼女の胸元にいつしか飾られていたペンダント。
びっしりと並んだ『黒蝶真珠』がギョロリと動いたのを、私は幻覚の中で見た。
【本日のメニュー:Hors-d'oeuvre】
『邪神百合配信』 ~極彩色ダンジョン風、不定形な邪神娘のカルパッチョ~
第2章 『私の“色”を返して』
https://kakuyomu.jp/works/822139840224583947/episodes/822139840275828189
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