第7話 『契約の味、あるいは邪神の祝詞』
視界が明滅する。
私の目の前で、世界がバグを起こしている。
壁のシミが虹色に発光し、床の木目が無数の文字列となって流れていく。
――『逃げて』『かわいい』『後ろ』『色を返して』
耳鳴りが止まない。
それは、誰かの悲鳴のようでもあり、熱狂的な歓声のようでもある。
紗雪、紗雪はどこ? 私を後ろから抱きしめてくれていたはずの紗雪。
くるくる、まわる。楽しそうにまわる、紗雪。
ふわふわふわり、長い灰銀色の髪がたなびく。
ああ、こんな滅茶苦茶な世界の中で、なんて可憐、なんて綺麗。
延々と続く文字の声。
しかし、再びすべてが灰色に……いけない、だめ、私は瓶に縋りつく。
ドロリ、ドロリ。
止まらない、やめられない。
色が褪せ、灰色に沈むたび、極彩色に彩りなおす。
そんな私の横からそっと、手が伸ばされる。
盛り付けられる黒い粒。漆黒のキャビアを盛り付ける、綾霞の手。
「どうぞ。……これは、深淵より来たりし『種子』。あなたの中で芽吹くのを待っております」
私はスプーンで黒い粒を掬う。
見た目は高級食材だが、鼻を近づけると、インクと腐葉土が混ざったような匂いがする。
口に含む。
プチッ、プチプチッ。
粒を噛み砕いた瞬間、口の中で弾けるのは、想像していたような魚卵の塩気ではない。
常識を蹂躙する濃厚なミルクの香り。幼心へと還る母性の味。
そして、舌の上で膨れ上がる爆発的な色彩。
咀嚼するたびに、皿の上の黒い粒までもが見るも鮮やかな『異界の花々』へと変貌し、皿の上を一瞬にして極彩色の花園へと書き換えていく。
私の口腔内が、花粉と蜜で満たされる。
むせ返るような甘さと、吐き気を催すような濃厚さ。
それが食道を通って胃に落ちると、内側から何かが根を張っていく感覚がした。
私は、皿の上の『何か』をフォークで突き刺す。先ほどまで魚肉だと思っていたそれは、今や不定形のゼリー状の物質へと変貌していた。
咲き乱れる色とりどりの花と共にフォークで刺すと、ぷるん、と震え、傷口から極彩色の液体が滲み出してくる。
まるで生きているかのように。
あるいは、死に損なった何かの肉片のように。
「さあ、召し上がれ。……それが『契約』の味です」
紗雪が背後から囁く。
その声は、もはやノイズ混じりではなく、鼓膜を直接震わせるような甘ったるい響きを帯びていた。
くるくる舞い踊る心躍る目の保養の代わりに、彼女の体温が、背中に再び張り付く。
熱い。火傷しそうなほどの熱量が、メイド風ドレス越しに伝わってくる。
「あなたはもう、ただの『お客様』としてのあなたではなくなります。……わたくしたちに何かを齎す(もたらす)、あなた。何かを求める、あなた」
彼女の指が、私の腕を撫でる。
その感触は、柔らかい人間の指ではなく、吸盤を持った触手のようにも感じられた。
私は、極彩色の塊を口へと運ぶ。
――ドロリ。
舌の上で、それは瞬時に液体へと戻った。
甘い。
脳が痺れる、極彩色の味が広がる。
歓喜。随喜、法悦に包まれる。
禁断の果実の蜜の味。
だが、その後味には、決定的な異物感が残る。
それは、人間が摂取してはいけないもの。魂の形を変えてしまう劇薬。
「……いあ……いあ……」
綾霞が、再びカメラを構えたまま、低い声で詠唱を始める。
その言葉は、私の知っているどの言語とも違う。けれど、魂の奥底がその意味を理解してしまう、『呼び声』。
次元の壁を越え、この館に『何か』を招き入れるための祝詞。
「『邪神百合配信』、三口目。……名状しがたき解説者が語る、破滅への序曲」
綾霞の薄赤色の瞳が、爛々と輝く。
彼女のペンダントの黒蝶真珠が、一斉に瞬きをした。
ギョロリ、ギョロリ。
無数の視線が、私を射抜く。
「あなたはもう、引き返せません。その舌で、その喉で、契約を受け入れてしまったのですから」
飲み込んだ液体が、胃の中で熱を持ち始める。
私の血管の中を、極彩色の何かが駆け巡り、全身を侵食していく感覚。
指先が震える。
視界の端に、存在しないはずの『コメント欄』が浮かび上がっては消える。
『アーカムの老教授:――直ちに接続を切れ』
『神々しい……』『尊い……』『ママみがすごい』
相反する言葉たちが、私の脳内で渦を巻く。
視界の端に、赤い文字が流れる。
『アーカムの老教授:“宇宙からの色”。生命力を啜り、全てを灰色の塵へと変える――喰われるぞ』
うるさい。邪魔しないで。
私は、警告の文字を手で払いのける幻覚を見る。
今の私に必要なのは、教授の講釈じゃない。この色だけ。灰色を塗り替えてくれる、私を私たらしめてくれる、色。
◇ ◇ ◇
皿の上の肉塊が、ドクリと跳ねた気がした。
私の唇から紡がれた
「いあ……」
という祝詞に応えるように、灰色の皿の底から、漆黒の液体が湧き出してくる。
それはソースではなかった。もっと根源的な、光さえも吸い込む闇そのもの。
けれど、ちっとも怖くない。だってそれは、羊水のように生温かく、甘い腐臭と共に私を優しく包み込んでくれるのだから。
『……ン、マ……』
脳髄に直接、濡れた声が響く。
黒い液体が凝縮し、形を成していく。
白く透き通る肌、闇夜を切り取ったような黒髪、そして――ありとあらゆる色彩を内包した極彩色の瞳。
まさに、美少女。
私の血と、絶望と、狂気から産まれた、愛しい娘(邪神)。
彼女は無邪気に笑うと、私を脅かす『灰色』を生む源に向かって。
パチン。
指を鳴らす乾いた音。
怪物の身体が内側からひしゃげ、ねじ切れ、破裂した。
飛び散る内臓? いいえ。咲き乱れるのは、毒々しいまでに鮮やかな、原色の花々。
怪物の断末魔が、極彩色の花園へと書き換えられていく冒涜的な奇跡。
たわわな果実が、つぎつぎ実る。
「おいちぃ!」
娘が、その花園から滴る『虹色の果実』をもぎ取り、口いっぱいに頬張る。
ぐちゃり、じゅるり。
咀嚼音に合わせて、私の口の中にも唾液が溢れ出す。
目の前の皿の上にあるのは、ただの魚の切り身のはず。
けれど、今の私の目には、それが『怪物から生成された命の果実』に見えていた。
「ママも、食べる?」
虹色の果汁で口元を汚した娘が、とびきりの笑顔で差し出してくる。
私は抗えない。
フォークを突き刺し、その果肉の欠片を口へと運ぶ。
――ッ!!
爆ぜた。
噛み締めた瞬間、口の中で生命が弾け飛んだ。
濃厚な花の蜜の甘さと、鉄錆の生臭さ、そして脳を痺れさせるような強烈な『色』の味。
美味しい。美味しい、美味しい!
毒を喰らっているのか、薬を飲んでいるのか。そんな事ドウデモイイ。
ただ分かるのは、この一口が、私の空っぽだった灰色の器を、暴力的なまでの色彩で満たしていくという快感だけ。
◇ ◇ ◇
「あはっ……あはははは!」
紗雪が、再び、狂ったように笑い出した。
彼女は私の肩に顎を乗せ、耳元で囁く。
「聞こえるでしょう? 彼らの声が。……見えますか? この美しい色が!」
ダイニングの床から、黒い泥のようなものが湧き出してくる。
それは触手のように蠢き、テーブルの脚を這い上がってくる。
泥の中から、極彩色の花が次々と咲き乱れた。
「さあ、最後の仕上げです。……この狂宴のフィナーレを」
綾霞が、カメラの録画を停止する。
赤いランプが消えた瞬間、館の蝋燭の灯りが一斉に吹き消された。
灰色の薄明かりが差し込む窓も闇に閉ざされる。
暗闇の中、私の目の前で、極彩色の花々だけが燐光を放っている。
そして、その奥から――『てけり、り』という鳴き声が、確かに近づいてきていた。
【本日のメニュー:Hors-d'oeuvre】
『邪神百合配信』 ~極彩色ダンジョン風、不定形な邪神娘のカルパッチョ~
第3章 『星の智慧派、あるいは名状しがたき解説者』
https://kakuyomu.jp/works/822139840224583947/episodes/822139840275853911
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