第1話:最強の下心
目が覚めると、そこは森だった。
俺、
(き、来た……! これは間違いなく異世界転生……!!)
三十四歳、独身。彼女いない歴=年齢。死因は確か、あふれかえったアダルトグッズの山が崩落してきての下敷き圧死。
あまりにも情けない最期だったが、神様は慈悲深かったらしい。俺の肉体は若返り、何やら力がみなぎっているのを感じる。
「ふ、ふふ……。この漲るパワー、まさかチート能力か? 鑑定とか魔法とか使えるのか?」
俺はニチャアと口元を歪め、周囲を見渡した。
木漏れ日が差し込む美しい森。マイナスイオンたっぷりだ。だが、そんな自然環境よりも俺が求めているのは――
「キャアアアアアッ!!」
絹を裂くような悲鳴。
俺の耳がピクリと動く。女性の声だ。しかも、かなり若い。
俺は反射的に茂みをかき分けた。
そこには、俺が夢にまで見た光景が広がっていた。
開けた草地の上、一人の少女がへたり込んでいる。
年齢は十六、七歳ほどだろうか。銀色の長い髪は乱れ、身にまとった白銀の軽鎧はあちこちが破損している。
そして、彼女の目前には、半透明のゲル状の魔物
――スライムが迫っていた。
「くっ……離れ……いやぁ!」
スライムの触手が、彼女の白い太ももにピタリと張り付く。
粘液が糸を引き、鎧の隙間から素肌を蹂躙しようと蠢く。
(……ッ!!)
その瞬間、俺の脳内で何かが弾けた。
義憤ではない。正義感でもない。
――――――エッッッッッッッッッロ!!!!
時が止まった気がした。
なんだあの質感。鎧の隙間を攻めるとか、あのスライム、さては「わかっている」個体か? いや、感心している場合じゃない。
スライムごときにあの極上の太ももを好きにさせるなど、断じて許されない。そこを退け。代われ。いや、代わってくださいお願いします。
(落ち着け、義男。冷静になれ)
俺は深呼吸……はできなかった。興奮で鼻息が荒くなる。
シチュエーションは完璧だ。
今ここで俺が助けに入れば、間違いなく好感度はマックス。吊り橋効果で即カップル成立、あわよくばそのまま宿屋へゴールイン。
俺の頭の中で、ピンク色の未来予想図が完成した。
「待ってろよ天使ちゃん! 今すぐ助けて、そのあとたっぷりお礼(意味深)をさせてやるからな……!」
俺は地面を蹴った。
速い。驚くほど速い。
全身の血液が沸騰し、あり余るリビドーが四肢に力を与える。
欲望。
純度100%の、どす黒く、ねっとりとした下心。
「あわよくば付き合いたい」
「いや、あわよくば触りたい」
「むしろ今すぐ匂いを嗅ぎたい」
そんな浅ましい願望をガソリンにして、俺は爆走した。
異変に気づいたのは、走り出してから数秒後だった。
(……ん? なんか静かすぎないか?)
さっきまで聞こえていた小鳥のさえずりが、ピタリと止んでいる。
風が止まり、森全体が真空パックされたように重苦しい。
まるで、世界の彩度が一段階落ちたような錯覚。
(これが……「覇気」ってやつか!?)
俺はニヤリと笑った(つもりだった)。
俺から溢れ出る勇者のオーラに、森の動物たちが畏怖しているのだ。間違いない。
気分が高揚してきた。
少女とスライムの距離はあと数メートル。俺はさらに加速する。
少女がこちらを見た。
その顔が、驚愕に見開かれる。
当然だ。颯爽と現れた救世主(イケメン)に心を奪われたに違いない。
俺は彼女を安心させるため、最大限の「男らしい真剣な眼差し」を向けた。
心の中では「その太ももの粘液、俺が拭いてあげますね(舌で)」と叫びながら。
その時だった。
パンッ!!
乾いた破裂音が響いた。
俺が殴るよりも早く、少女に張り付いていたスライムが弾け飛んだのだ。
「え?」
俺は急ブレーキをかけて立ち止まる。
飛び散ったスライムの体液は、なぜか俺の身体を避けるように地面に落ちた。
少女の太ももからも、スライムが綺麗に消滅している。
(な、なんだ? 自爆した?)
俺は困惑した。
最近の異世界のスライムは、興奮しすぎると破裂する生態なのだろうか。それとも、俺の接近にビビって逃走(爆散)したのか?
まあいい。結果的に彼女は助かった。
俺は気を取り直して、へたり込んでいる少女に向き直った。
「…………」
沈黙。
近くで見ると、破壊力が凄まじい。
整った顔立ち、透き通るような肌。破れた鎧から覗く鎖骨。そして、恐怖に涙を浮かべた瞳。
俺の心臓が早鐘を打つ。
(うっわ、めっちゃ可愛い……! やばい、直視できない。話しかけるのか? 俺が? この美少女に? 何て言う? 『大丈夫ですか』? いや普通すぎるか? もっとダンディに『怪我はないかい、子猫ちゃん』とか……いやそれはキモい、死ぬほどキモいぞ俺!まぁ一回死んでるんだが…)
コミュ障特有の思考ループが始まった。
俺は基本、ムッツリスケベだ。心の中ではセクハラまがいのことを叫んでいても、現実では女性の目を見て話すことすらできない。
緊張で喉が張り付き、声が出ない。
俺は必死に表情筋を操作して、なんとか「人畜無害な笑顔」を作ろうと努力した。 そして、緊張のあまり呼吸が荒くなるのを悟られないよう、息を止めて、じっと彼女を見つめた。
(落ち着け……ウオ……まずは彼女を安心させないと……イイ……俺は敵じゃないですよ……オパーイ……悪い人じゃないですよ……ムフフ)
俺は無言のまま、強張った顔で立ち尽くす。
頭の中は「おっぱい」と「太もも」と「どうしよう」の三文字がぐるぐると回っていた。
(……あれ?)
ふと、違和感に気づく。
彼女の様子がおかしい。
ガタガタと、音を立てて震えている。
顔色は紙のように白く、口元はパクパクと金魚のように動いているが、声になっていない。
瞳の焦点が合っておらず、まるでこの世の終わりを目撃したかのような表情だ。
(そっか、怖かったんだな……)
無理もない。スライムに襲われていたのだ。まだショックが抜けていないのだろう。
あるいは、俺の背後にまだ魔物がいるのか?
俺はチラリと背後を確認したが、そこには静まり返った森があるだけだ。
俺は彼女を安心させようと、一歩踏み出した。
優しく手を差し伸べようとした、その瞬間。
「ひぅッ……!」
彼女が短い悲鳴を上げて、ビクンと身体を跳ねさせた。
そして、あろうことかその場で土下座の姿勢をとったのだ。
額を地面に擦り付け、両手を震わせながら前に出す。
完全なる服従のポーズ。
「お、お助け……ください……ッ!」
「……へ?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
「命だけは……どうか、命だけはご慈悲を……! なんでも、なんでも致します……! ですから、どうかその『死の気配』を収めてください……!」
彼女の懇願する声は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
俺は自分の手を見つめ、彼女を見つめ、そして空を見上げた。
(……え、なんで?)
俺、助けたよね? スライム倒したよね?
まぁ、スライムが勝手に死んだだけなんだけど、助けた内に入るよね?
これから「ありがとう、素敵な騎士様」的な展開になるはずだよね?
なんで命乞いされてるの?
俺、いま「パンツ見えないかな」って角度調整してただけなんだけど。
(ま、まさか……俺の顔がそんなに酷いのか!?)
衝撃が脳天を貫いた。
異世界転生して若返ったと思ったのは俺の勘違いで、鏡を見たらオークだったとか、そういうオチなのか?
それとも、必死に作った笑顔が、欲望丸出しの変質者スマイルになっていたのか?
ショックのあまり、俺は立ち尽くした。
弁解しようにも、あまりの事態に喉が張り付いて声が出ない。
結果、俺は能面のような無表情で、土下座する美少女をただ黙って見下ろすことしかできなかった。
(泣かないでくれよ……俺、どうしたらいいんだよ……)
悲しみと困惑。そして「それでもこの角度からのうなじ、エロいな」という消えない下心。
それらが複雑に混ざり合い、俺のオーラは、より一層、混沌としたどす黒さを増して大気を震わせるのだった。
「ひィッ……申し訳ありません、申し訳ありません……!!」
彼女の悲鳴が、虚しく森に響き渡った。
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