殺意変換「ラスト・コンバーター」 ~俺の性欲はSランクのプレッシャーとなって世界を威圧する~

鳴里

プロローグ

女騎士、セフィリア・アークライトは絶望していた。

 王国騎士団の精鋭である自分が、まさか森の斥候任務中に毒を受けて動けなくなるとは。

 痺れて動かない手足。迫りくるのは、消化液を持つアシッド・スライム。

 このままでは、身体を溶かされ、無惨な肉塊に変えられてしまう。


(お父様、お母様……申し訳ありません……私はここで……)


 騎士としての誇りも、乙女としての尊厳も、何もかもが粘液に穢されようとしていたその時だった。


 ――ゾワリ。


 全身の産毛が逆立つような、異様な寒気が背筋を駆け抜けた。

 スライムの毒による麻痺ではない。これは、生物としての根源的な恐怖だ。

 森の空気が、一瞬で凍りついたようだった。

 風が止み、鳥たちのさえずりが消え、虫の羽音さえも途絶える。


「……な、に……?」


 セフィリアは震える首を巡らせ、茂みの奥を見た。

 そして、見てしまった。


 闇だ。

 人の形をした、濃密な《死》が、そこにあった。


 男だった。見慣れない服を着ているが、そんなことはどうでもいい。

 問題は、その男が纏っているオーラだ。

 視界が歪むほどの、どす黒く濁った紫色の瘴気。

 肌を刺すような、ねっとりと絡みつく殺意。


(ひッ……!?)


 セフィリアは呼吸を忘れた。

 歴戦の騎士団長ですら、これほどのプレッシャーを放つことはない。

 まるで数万の人間を惨殺し、その血肉を啜ってきた悪鬼羅刹のような気配。

 男の目は、狂気じみた光を宿して見開かれ、口元はニチャアと残虐な笑みに歪んでいる。


 男の視線が、セフィリアを、そして彼女に張り付くスライムを射抜いた。

 その視線に含まれる感情は、慈悲など欠片もない、純粋な《渇望》と《略奪》の意思。


『――そこを代われ(=貴様を殺して、その女のすべてを我が物にする)』


 声に出さずとも、その暴虐な殺意は雄弁に語っていた。

 男が地面を蹴る。


 速い。

 ただ走っているだけなのに、まるで死神が鎌を振り上げて突進してくるような圧迫感。


「あ……が……ッ」


 セフィリアよりも先に反応したのは、本能のみで生きる魔物の方だった。

 スライムの体が、恐怖に波打つ。

 絶対的強者。捕食者の中の捕食者。

 関われば、核すら残さず消滅させられる。

 単細胞生物の原始的な生存本能が、限界を超えたストレス信号を発した。


 パンッ!!


 乾いた音が響く。

 男が到達するよりも早く、スライムは自らの恐怖に耐えきれず、内側から破裂して弾け飛んだのだ。

 酸の液が周囲に飛び散るが、男の周囲にある不可視の壁に弾かれ、彼には一滴も触れない。


 男が、立ち止まる。

 セフィリアの目の前、わずか数メートルの距離。

 逆光を背負い、黒い影となったその男は、ゆっくりとセフィリアを見下ろした。


(こ、殺される……!)


 スライムに溶かされるよりも恐ろしい結末が、脳裏をよぎる。

 魂ごと喰われる。この男は、そういう存在だ。


 魔物を気迫だけで爆散させた男は、微動だにせずセフィリアを見下ろしている。  その表情は、感情の一切を排した「無」。

 いや、極限まで張り詰めた殺気を内包し、あえて表に出さない達人のそれだ。


(値を踏んでいる……)


 セフィリアは直感した。

 この男は、私を殺すべきか、それとも玩具として生かしておくべきか、冷徹に計算しているのだ。

 呼吸さえしていない。

 心音ひとつ聞こえない静寂。

 自然体に見えて、一片の隙もない立ち姿。

 先ほどまでの荒れ狂う殺気が嘘のように消え失せ、今は底なしの沼のような静けさが周囲を支配している。

 これが、「明鏡止水」の境地というやつか。


 男の視線が、セフィリアの胸元、そして太ももを舐めるように動いた。


 いやらしい視線ではない。

 肉体の構造、急所、血管の位置を正確に把握しようとする、解剖学的な視線だ。


「ひぅッ……!」


 視線だけで、肌を切られたような錯覚。

 心臓を鷲掴みにされたような圧迫感に、セフィリアの限界が来た。

 抵抗など無意味だ。この男の前では、剣を抜くことさえ許されないだろう。

 ならば、せめて苦しまずに。


 セフィリアは震える手で地面に手をつき、額を擦り付けた。

 王国の騎士としてあるまじき、完全なる服従の姿勢、ドゲザ出迎えうつ。


「お、お助け……ください……ッ!」


 喉から絞り出した声は、涙で濡れていた。


「命だけは……どうか、命だけはご慈悲を……! なんでも、なんでも致します……! ですから、どうかその『死の気配』を収めてください……!」


そして彼女は、意識を手放した―――

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