第2話:最強の殺気
「ひィッ……申し訳ありません、申し訳……あ……」
彼女の言葉が途切れた。
ガクン、と糸が切れた操り人形のように、彼女の上半身が崩れ落ちる。
その顔は泥にまみれ、白目を剥いて完全に意識を失っていた。
「……えっ?」
俺は固まった。
死んだ?
いや、胸は動いている。気絶だ。
そうか、スライムに襲われた恐怖が、緊張の糸が切れた瞬間にどっと押し寄せたのか。可哀想に。
……待てよ?
(や、やばい……これ、客観的に見てやばくないか?)
俺の背中を、冷や汗が滝のように流れる。
状況を整理しよう。
人気のない森の中。
服が破れていて、ボロボロの鎧を着た美少女が、俺の足元で気絶している。
俺は五体満足。しかも、自分では慈愛の微笑みのつもりだが、傍から見れば、彼女を見下ろしてニヤニヤしていたかもしれない。
(これ、誰かに見られたら100%通報される案件だろ!!)
異世界に警察がいるかは知らないが、騎士団とか自警団とかはいるはずだ。
もし今、彼女の仲間が駆けつけてきたら?
倒れている美少女と、立ち尽くす俺。
『貴様! 団長に何をした!』と問答無用で斬りかかられる未来しか見えない。
冤罪だ。俺はただ、彼女の太ももについたネバネバを、紳士的に処理してあげたかっただけなのに!
「に、逃げよう」
俺の決断は早かった。
三十四年の人生で培った「嫌なことから目を背けるスキル」が光速で発動する。
介抱?
無理だ。人工呼吸なんてしようものなら、目覚めた瞬間に「痴漢!」と叫ばれて社会的に死ぬ。
ここは戦略的撤退だ。人がいそうな町まで行って、匿名の手紙で「森に人が倒れてます」と通報しよう。それが一番平和的だ。
「あばよ、名も知らぬ美少女……! 次会うときは、合コンで会おうな!」
俺は脱兎のごとく駆け出した。
方向なんて分からない。とにかく、この「事案現場」から1メートルでも遠くへ離れたい一心だった。
俺は走った。
無我夢中で走った。
異世界転生の特典ボディは伊達ではなかった。息切れひとつしない。景色が後方へすっ飛んでいく。
これなら駅伝に出ても区間賞間違いなしだ。
森の中を疾走していると、時折、茂みから熊のような魔物や、巨大な狼が飛び出してきたりもした。
俺はビビりなので、そのたびに「うわあああ! 来るなぁぁぁ!!」と叫んで駆け抜けた。
不思議なことに、魔物たちは俺と目が合った瞬間に硬直し、次の瞬間には白目を剥いてバタりと倒れていった。
(ん? なんだ今の?)
俺は走りながら首を傾げる。
熊も狼も、俺の顔を見た瞬間に倒れた。
まさか、俺の背後にものすごく強い「森の主」的な何かがいて、そいつにビビって気絶したのか? だとしたら俺も危ないじゃないか!
「ひええええ! 後ろは見ないぞ! 絶対に見ないぞ!!」
俺はさらに加速した。
背後で木々が枯れたり、鳥たちがボトボト落ちてきたりする音が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。
俺の心の中は今、「せっかくの美少女イベントをふいにした悔しさ」と「あと5分早く出会っていればラッキースケベがあったかもしれないという未練」でいっぱいなのだ。背後のことなど気にしている余裕はない。
この沸々とした情熱を、どこへぶつければいいんだ!
***
どれくらい走っただろうか。
一時間か、あるいはもっとか。
ふと、周囲の雰囲気がガラリと変わっていることに気づいた。
鬱蒼とした緑の木々が消え、地面は荒涼とした岩場に変わっている。
空はどんよりとした暗雲に覆われ、紫色の雷がバリバリと鳴り響く、なんとも世紀末な空模様だ。
「……おぉ、すごい」
俺は足を止め、目の前の光景に息を飲んだ。
巨大な城だ。
とにかく黒くて、デカい。
鋭利なトゲのような塔が何本も天を突き刺し、城壁には悪趣味……じゃなくてアーティスティックなガーゴイルの像が並んでいる。
周囲には溶岩のような赤い水が流れる堀があり、唯一の入り口である跳ね橋が、重々しい音を立てて降ろされているところだった。
(もしかして、王都か?)
俺のポジティブシンキングが火を噴く。
異世界の王都のデザインって、こういうゴシック調なのかもしれない。魔導文明とか発達してそうな雰囲気だ。厨二心がくすぐられる。
あそこに行けば、宿屋もあるし、風呂もあるし、なんなら「夜のお店」もあるかもしれない。
「よし、行こう。第一印象が大事だ」
俺は衣服を整え、髪をかき上げた。
森で美少女フラグをへし折った分、都会で新たな出会いを探すしかない。
俺は期待に胸と股間を膨らませ、その巨大な門へと歩みを進めた。
門の前には、見張りらしき人物が立っていた。
身長3メートルはあるだろうか。紫色の肌に、立派な角が生えた巨漢だ。
手には巨大な戦斧を持っている。
(うわ、すげぇ。特殊メイクか? それとも亜人の門番か?)
さすが王都。多様性が進んでいる。
俺は舐められないように、かつ紳士的に振る舞わなければならない。
俺は精一杯の「愛想笑い」を浮かべながら、彼に近づいた。
心の中では「どこのお店がおすすめですか? 可愛い子がいるところを頼みます」という欲望全開の質問を用意して。
俺と門番の目が合った。
距離は5メートル。
俺は口を開きかけた。
「あ、あの……」
その瞬間だった。
「ヒィイイイイッ!! 通りたければ通れぇぇぇ!!」
門番のおっさんが、裏返った悲鳴を上げて戦斧を放り出し、城の中へと猛ダッシュで逃げ出したのだ。
その速さたるや、今の俺にも匹敵するスピードだった。
「……あれ?」
俺はポカンと口を開けて見送った。
誰もいなくなった門。放り出された斧。
(……トイレか)
俺は納得した。
あの必死な形相、青ざめた顔。間違いなく、急激な腹痛に襲われたのだ。
漏らすまいと必死だったのだろう。「通りたければ通れ」というのは、「検問してる余裕ないから勝手に入ってくれ!」という意味に違いない。
なんて責任感のない、いや、人間味のある門番なんだ。
「大変だな、異世界の食事情も」
俺は同情しつつ、無人になった巨大な門をくぐる。
「ごめんくださーい。旅の者ですけど、入りますよー」
こうして俺は、人類未踏の地、魔界の最深部『魔王城グリム・ディザスター』へ、まるで近所のコンビニに入店するような気軽さで足を踏み入れたのだった。
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