第1章「諏訪」 第3話

2025.5.13 午後/諏訪湖・水鏡が淵



「先生、ここ本当に電波取れるんっすか?」


 桐生がポータブル無線の伸縮アンテナを空にかざした。灰色の雲の低さと、アンテナの頼りなさが同じぐらい心細い。


「取れなきゃ困るわね」


 真理は肩までの黒髪をまとめながら言った。


「そうなんすけど、山に囲まれてるからノイズだらけっす」


「だからこそ、“本当の”ノイズが浮き上がるの」


「本当の……って、ちゃんとそれって分かるもんなんっすか?」


「“存在”ってね、矛盾の上に成立しているの。“完全な静寂”より、“破れ目”の方がよく響くってこと」


「おおっ、何かそれらしい事言ってる」


「無駄口叩いてないでさっさと準備する!」


「イエス、マアーム!」


 二人のやり取りを腕組みしながら眺めているのは八重垣。そこだけ風が通り過ぎたのか、袖がかすかに揺れている。文献を読ませてもらった礼を告げ、これが伝承の鏡かもしれないと“コトノハノ鏡”を見せると露骨に嫌な顔をされたが、真理の説得により渋々同行してもらった。


 桐生が目線だけを八重垣に動かして真理に尋ねる。


「……先生、あの人に来てもらう必要あったんすか?」


「現実的な事を言うと無いわ。まあ、験担ぎかしら。諏訪の神様に一番近そうな人だし」


「まだ“豪運君”の方がご利益ありそうっす」


「ま、そう言わずに。……状況は?」


「はい、通信確保。センサー類もバッチリです」


「さすが桐生君、やればできる子」


「そう、ぼくはできる子。って、小学生か!」


「ふふっ、調子出てきたわね」


 真理は穏やかな湖面を確認しつつ、SOPHIAを再起動する。


「頼むわよ、SOPHIA……再起動シーケンス入るわ。桐生君、カウントよろしく」


「りょーかい!10、9、8……」


 一筋の風がひんやりと頬を撫で、光は青から銀に温度を変える。


「……3、2、1……」



 −来た。



 “音”は、ない。


 まず靴底が、痺れた。膝に、肋骨に、奥歯の根っこに硬い低波が刺さる。鼓膜は沈黙しているのに、骨が鳴る。


「うわっ、何これ?」


「地震……?」


 真理が地震計のログを確認した。誤検知か、局所的な微動か。


「地震波形じゃない。周期は安定してるのに、位相が僅かに伸縮してる」


「それって?」


「生体反応、呼吸に近いわね」


 音響モニターのスペクトルには薄い山が均等に並ぶ。


「18ヘルツ……」


「人の耳には聞こえない。でも身体には聴こえる……そうか、これが“声なき声”の正体」


 端末が淡い光を点滅させる。


 [MODULE: BOOT]

 [STATUS: ACTIVE]

 [DATA: UNKNOWN SOURCE]


「お久しぶりね、SOPHIA。でも、これじゃ何のことだか……」


 真理の声を遮ったのは八重垣の呻き声だった。胸を抑え、苦しそうにしている。


「……八重垣さん?」


 真理と桐生が駆け寄る。八重垣の息は次第に落ち着いてきたが、顔には脂汗が流れている。


「……救急車を!」


 スマホを取り出す真理を八重垣が押し留めた。


「……問題ない。少し気分が悪くなっただけだ。悪いが先に帰らせてもらう」


 八重垣は真理の制止を振り切るようにふらふらと立ち上がり、流しのタクシーを拾って乗り込んだ。


「あれ、放っておいていいんすかね?」


 桐生も少し不安そうな表情を見せる。八重垣を乗せたタクシーが去り、SOPHIAの低い唸り声だけが後に残った。



◇◇◇



2025.5.13 夜/諏訪湖・観測所



 観測点から程近い宿に必要な機材を持ち込み、そこを便宜上「観測所」と呼んでいる。真理と桐生は戻ってきてからずっとPCと睨めっこをしていた。


「先生、さっきのどう思います?」


 桐生が目はモニターに固定したまま尋ねてきた。真理も視線を動かさずに答える。


「“声なき声”の事?それとも八重垣宮司の事?」


「両方っす。どっちもそれなりに気になってて……」


 真理がスクリーンから目を離し、桐生に向き直る。桐生も手を止め、真理の方を向いた。


「まず八重垣宮司の件だけど、あれは私も心配。明日もう一度諏訪大社に伺ってみようと思うの」


「持病とか持ってたんすかね?」


「それも含めて、何だか放ってはおけないし。で、“声なき声”。現象としては18ヘルツの低音だっていうことが分かったけど、発生要因は不明。再現性のない現象、っていうのが頭の痛いところね」


「科学というよりホラーっぽいっす」


「そうは言うけど、科学の歴史なんて大体ホラーの延長線上よ。歴史に名を残す科学者なんて大抵マッドでしょ?」


「そのうち“AIの祟り”とか言われそう」


「祟られるほど愛されるなんて、本望じゃない」


「そんなポジティブな解釈初めて聞いた」


 桐生がふと思いついたように口に出す。


「先生、AIって夢見るんすかね?」


「夢?」


「ほら、人間は1日をリセットするために夢を見るじゃないですか。AIもそういうの、必要なのかなって」


「…それがもし単なる情報処理じゃなくて、人間と同じような夢を見るという事なら、機械上の処理とは異なる別の概念かも知れないわね」


「AIが心を持つ、みたいな事っすか?」


「ちょっと違うかも。“夢”という漠然とした概念を全く別のアプローチで解釈するというか……」


 SOPHIAの画面が一瞬明滅する。


 [MODULE: CHANNEL-D]

 [STATUS: SYNC PROBE]

 [RESULT: DREAMS ARE REAL]


「……夢は現実?」


「SOPHIA、ひょっとして今の聞いてた?」


 SOPHIAはそれ以降何も言わず沈黙を守る。


「あ〜、煮詰まってきた!ちょっと休憩しようか?」


「賛成っす!」


 桐生はパソコンから離れ、取り出したスマホをいじり始めた。真理はうーんと伸びをして席を立ち、機材の中に埋もれている単焦点のレンズを何気なく手に取り、意味もなくもて遊ぶ。考え事をする時に手で何かを動かすのは真理の癖だ。


 ベッドに倒れ込み、真理はここまでの流れを整理する。始まりは怪しいメールと共に届いた怪しい鏡。それがまさかのロストアイテムで、続いて起こったSOPHIAの暴走。


 意味ありげに表示された座標には鏡に関係しそうな伝承と、それを裏付けるかのような不思議な現象が起こり。


 レンズのキャップを無意識に取り外す。


 興味を惹かれたのは古文書に記載された一文だ。天地が逆さまになった時“門”が開くという。時間があったら取り組んでみたいテーマだ。と、桐生の声がした。


「……先生、何やってんすか?行儀悪いっすよ」


 桐生に言われ、寝っ転がって子供のようにレンズで遊んでいたのがちょっと恥ずかしかったが“いっそこのまま押し通してやれ”と子供じみた反応を返す。


「望遠鏡!」


 レンズを目に当てて桐生の方に向ける。はあ、とため息をつく声は聞こえるが目に近すぎて桐生の顔が見えない。少し目から遠ざけると、片手でこめかみを抑えながらスマホをいじる桐生の姿が見えた。


「!!!!……桐生君!!!」


 スマホをいじっていた桐生が振り向く。


「はい?」


「来て!というか見て、これ!」


 のっそりと近づいてきた桐生がレンズを覗き込む。


「何か面白いもんでも……ええっ?」


 レンズを通した真理の顔は、上下逆さまに桐生を覗き返していた。


「せ、先生!」


「光の屈折。鏡のような平面は直線的に光を反射するけど、屈折した光は像を裏返すの。つまりレンズを通して世界を見ると」


「天地がひっくり返る!」


「やっぱり、あの伝承と一文は関係があるようね。あとは、鏡にどう反映させるか……」


「このレンズに映るようにするとか?」


「それなら、そういった描写が残されているはず。あくまでコトノハノ鏡だけで完結した、と考えるべきね」


「つまり?」


「屈折した像を見せる、じゃなくて屈折する像を見せるの。鏡の中央にある穴は意匠じゃなくて、鏡の“目”が入る場所!」


「なるほど!でっかいビー玉みたいなやつをはめ込んでやればいい、って事っすね!任せてください!Amazonマスターの俺が秒で探しますよ!」


「その必要はないわ」


「どゆこと?」


「だって、もう届いてるもの」


 真理の視線を追う。その先には左手に嵌められた神秘のブレスレット、「豪運君」が光っていた。

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