第1章「諏訪」 第4話

2025.5.13 深夜/諏訪湖・水鏡が淵



 月夜の晩に、男女の影が水辺に向かう。だがその姿はいささかロマンチックではない。ゴテゴテした機材を肩に担ぎつつも弾むような足取り。


 もう一つの影が、音もなく二人の影を追いかけた。



◇◇◇



「着いた!」


 満面の笑みで湖面を見つめる真理の額には、うっすらと汗が滲んでいる。


「んじゃ、始めますか」


 桐生が地中センサーと広帯域受信機をセットし、カメラは記録用に動画撮影モードで準備する。


 真理はバッグからコトノハノ鏡を取り出し、SOPHIAの起動準備をする。


「それにしても、びっくりでしたね。まさか“豪運君”がミラクルフィットするなんて」


「我が目を疑ったわね。いけそうだな、ぐらいには思ってたけど」


「でも、“豪運君”でいいんすかね?もっと神秘的な、“諏訪の宝玉”とか呼ばれる幻の宝石でないと反応しない、とか」


「今でこそガラスや水晶はありふれた存在だけど、古代の人にとってはそうじゃなかったの。まして3000年前だとしたら、まだ世界に一つとかいうレベルよ。それに水晶は占星術なんかでも使われるぐらい神性と密な関係にある石だから、“豪運君”はまさにうってつけの素材、ってわけ」


「これで結果が出たら、俺5つ星のレビューで絶賛しますよ」


「頼むわよ、“豪運君”!」


 再起動のシーケンスを経てSOPHIAが立ち上がる。が、昼間に感じた“声なき声”の反応がない。


「これ再現しないときついなあ……」


 トホホと画面に向き合う真理の背後に、桐生ではない影が現れた。瞬間、体が内側から揺すぶられるような感覚。これは……18ヘルツの“声なき声”!


 真理が気配に気付き振り返る。


「先生!」


 桐生が緊迫した声で叫ぶ。視線の先には、今まさに振りかぶった日本刀を振り下ろそうとする八重垣の姿があった。


「……!」


 真理が咄嗟に身をかわす。振り下ろされた日本刀は“キン!”と音を立て、八重垣が鬼の形相でこちらを振り返る。人とは思えない殺気に、真理の背筋が凍る。


 八重垣が向き直り、再び振りかぶろうとしたところに桐生が飛びかかった。


「……離せ、この野郎!」


 体ごとぶつかり、刀が八重垣の手から落ちる。


「桐生君!」


 一瞬油断したのか、桐生が老人とは思えない八重垣の強烈な一撃を受けて吹き飛ばされた。八重垣は真理に向き直り、荒い息をしている。冬でもないのに吐き出される息は白い。両手をだらんとさせ、猫背で獲物を追い詰める姿はまさに鬼そのもの。


 真理は慎重に立ち上がり、中腰の姿勢で八重垣と向き合った。八重垣の口から、おどろおどろしい声が漏れる。


「鏡……渡セ」


 真理の目が見開かれた。八重垣はなおも続ける。


「光……イラナイ……」


 真理が一瞬バッグに入った“コトノハノ鏡”を見た。八重垣はその隙を見逃さず、人間離れしたスピードで真理の懐に飛び込む。次の瞬間、強い衝撃。


 吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた真理に八重垣がゆっくりと近寄ってくる。その体は膨れ上がり、肌は赤黒く変色していた。獣のような黒い毛がわさわさと全身を覆う。


 朦朧とする真理の目に、“コトノハノ鏡”が入っているバッグが映る。手を伸ばそうとするが、体がうまく動かない。近づいてきた八重垣の右手がゆっくりと持ち上がり、とどめを刺そうと身構えた。


 と、八重垣に飛び掛かる影。桐生は傷だらけになりながら、今度こそ離されまいと必死にしがみつく。


「先生、鏡を!」


 八重垣に振り回されながら、必死で叫ぶ桐生。真理は這うように進み、震える手でバッグから“コトノハノ鏡”を取り出した。獣のような咆哮をあげ、桐生を振り落とそうともがいている八重垣に向ける。



 耳からではなく、体の内側から鳴り響くような共鳴。それは中心から指先に向かい全身に広がった。

 遅れて反応した聴覚が音を拾う。荘厳な、鐘を打ち鳴らしたような響き。

 湖面が揺れる。牡丹が高速で花開くかのように複雑で、美しい波紋が黄金色に広がりながら岸に打ち寄せる。鏡は光の波を拾い上げ、中央の“目”から放たれた光が八重垣を貫いた。



 “グオオオオオオーーーー!”


 声とも音ともつかない断末魔を残し、八重垣の体から立ち昇った黒いモヤのようなものは、やがて光の粒に飲み込まれるように消滅した。


 元の体に戻った八重垣を後ろから押さえ込んでいる桐生と、鏡を構えた姿勢で固まる真理の口から漏れる荒い息遣いを中天に佇む月だけが聞いていた。

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