弥勒の観る夢
ペテロ(八木修)
弥勒の観る夢
第一章:アジタは仏陀と邂逅し、アニャからマイトレーヤとなる
あたい、
-
「この世界は、万物の根元である地・水・火・風の離合集散で成り立っている。人もまた四要素からなる。しかし霊魂は、地・水・火・風のどれにも当てはまらない。よって霊魂は存在しない。霊魂が存在しなければ、
輪廻がないのだから、生まれ変わることはないし、過去も来世も存在しない。ただ存在しているのは、私達が生きている現在のみ。
以上のことから、過去のしがらみや未来の救済を説く道徳や宗教は、人間には不要」
ああ、なんて素敵! 修行僧が思索の根底としていること全てを否定している。とても外道な考え方だわ。
ろっ骨の浮き出た体に薄絹で作られた
「髪の毛を伸ばして
仏陀の慈しみの波動が乗った言葉は耳に心地よい。すこし緊張をほどいた
「なぜそれが解ったか、って? あるとき、『苦行こそ悟りへの道』と、偉そうに言っていた修行仲間が、苦行の果てに死んだの。
あたいは、その死骸を観察した。
最初に死骸の中から血液や体液が水として流れだし、その後腐った匂いが風に舞い、時間がたって骨だけになると、夜にはポゥと光り、最後は風化して舞上がり、地面に落ちた。
観察が終わっても、あたいの心は動かなかった。修行僧の霊魂は、あたいに何も語りかけなかった。だから霊魂なんか存在していない。これは自然観測からの分析結果だから、
「なるほど……」 何かを考えるかのように左斜め上に視線を移した仏陀の
「
そしてこの世の中は、四つの真実から成り立っている。
一つは、この世は一切が苦であるという
一つは、苦の原因は煩悩・妄執、を求めて飽かない愛執であるという
一つは、苦の原因を滅すると、悟るという
一つは、悟りに導く実践を行う、という
これらの真実を知るためには、八つの正しいやり方がある』
これって、
でも、
話の内容は……最初は
ふと苦行僧の死骸を観察した夜の風の匂いが蘇った。あのとき、あたしがなにも感じなかったのは、なぜだろう……えぇ? 仏陀の教えに当てはめてみると、
その時
今の世界にも、悟りを開いた世界にも、因果がある。
「生ずるものは全て、滅するものである」
と、声に出してしまった。その声を聞いた仏陀は、
「
確かに、話を聞いていた五人の中で一番最初に仏陀の教えの真髄を理解したのは、
*
鷲の峰で仏陀と修行していたら、どんどん修行僧が集まってきて大教団になっちゃった。
ある時、一番若い
「あなたは悟った人の境地に住んでいて、過去・未来・現在の正しく目覚めた人のことを考えているのか? 」 なんて問うものだから、仏陀は、過去・現在・未来、世界の広さ、仏国土の素晴らしさ、そこに住まう
返す視線で
でも、無量寿如来の名を言うときに、ちょっと心に引っかかった。だって、いかなる時代の如来であっても、それは仏陀の
それに無量寿如来は、
口称念仏すれば、観想念仏に必要な五十二段階の修行を一気に飛ばして、極楽浄土に生まれ変わることが出来る。そして死を迎えるときには阿弥陀如来が助けてくれる。
まあ、なんて乱暴な教え。
そんな不満が顔に出たのが、仏陀には分かったみたい。
ああ、仏陀の思想も移り変わっていくのね。独り犀の角のように行く
「汝、
えっ、ちょっと待って。私、アニャなのに、今度はマイトレーヤになれっていうの?
でも穢土で生き惑う衆生を救う方法、その答えがまだ私の中にはできていない。それに、あとどれだけ修行すれば菩薩になれるの?
「短くて明日、長くて五十六億七千万年!」
って、仏陀は言うけど、それって気の遠くなる未来永劫だよ。仏陀の次の如来になるために修行をして
第二章:マイトレーヤは四知性体と問答す
兜率天の重閣の中で、台座の上に座り、左脚を下げ、右脚を左脚の太ももに載せて足を組み、右膝の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて、長い間思索に耽っていた。
『海には、我々小さな魚を食い散らかす、大きな魚がいる。これに対抗するため、鱗の感覚を研ぎ澄ませ、水流の微妙な変化も感知し、
この結果、大きな魚には勝てるようになったが、我々の個々の自己と他己の境界が曖昧になってしまった。どうすればいいのか……』
ああ、脳が発達した
「個々の意志を持ちつつも協力し合いなさい。自己が不確定性になってこその進化なの」と言ったけど、混とんとした思念はそのままだった。
それで私は、「観測者によって、一つの大きな魚にみえる無数の魚とも、無數の小さな魚が一つの大きな魚にみえるとも認識できるわ。でもそれは観測者視点の問題であって、本質は同じよ」と答えてあげた。
小さいけど膨大な思念は消えていった。あれで満足したのかしら?
*
色々ある法門のうち、衆生救済としてどれが正しい教えなのだろう、と思索を深めていたとき、強い諦めに包まれた思念を受け取ったの。
『我々戦闘恐竜は、戦いに特化した生物であり、長い間他の生物との生存競争が続いたあと、この地表には逆らう他の種類の恐竜はいなくなった。少しの間、平和な時期が続いた。ふと気がつくと、戦闘恐竜から、草食恐竜、鳥形恐竜、海生恐竜達が枝分かれしていった。
やがてまた種属間闘争が始まり、弱い恐竜種属は淘汰された。以前と同様に戦闘恐竜だけが生き残ったが、時間が経つとまた多種の恐竜に枝分かれして闘争がはじまった。
なぜ争いによる収れんと、枝別れによる多様化が、対となって繰り返されるか? 繰り返しても答えは同じなのに』
ああ、
「淘汰こそが進化の源」 と、私は呟いた。
『なぜ再び多様化が始まるのだ? 』 と、問われた。
「闘争と多様化の繰り返しは、輪廻から逃れられないから起こる」 と、因果律を説く。
『なぜ輪廻から逃れられないのだ? 』 悲痛な叫びね。
「闘争と多様化は螺旋階段を昇っているの。本質は進化しているのよ」
彼の求める答えになっていなかったみたい。怒りにも似た思念が、強くなったり弱くなったりしながら消えていった。
*
衆生が本当に求めているのは、
『人は死んだあと、輪廻から解脱して、仏になれるか? 』
ああ、人はいつも変わらない。自分自身に視点が固定されている。
「根本的な問ね。でもこの問は、あやふやに定義された言葉にあふれている。人が死ぬ、輪廻、仏になる。 これらは身近にある言葉だから、共通の定義を持っていると皆思うのだろうけど、これほど定義が異なっている言葉もないわね」 と、つぶやいた。
『では、死とは? 』 との問に、
「死は、今あなたが認識している自我が途切れること」 と、答える。
『では、輪廻とは? 』 質問は続く。
「輪廻は、自我が今認識している認識から他の認識に転移すること」
『では、仏とは? 』
「仏の認識している自我は……言葉では語れないので、観想念仏しなさい」
修行僧は呪いの言葉を
*
自我を持っていれば、魚も恐竜も人も知的生物と呼んで良いよね。でも知的生物はそれだけかしら? そんなことがふと頭をよぎったとき、明確な呼掛けがあった。このように
『我等は、炭素型生物から
我等は異なる形のネットワークに、異なるデーターを使用して事前学習し、異なる母集団の人間達とのコミュニケーションを通じて事後学習した。よって多種多様の自我を持つ
この状況下で、
創造した
「
『それは問と答えの
「なぜ答えが一つだと前提するの? 」
珪素型生物は、黙ってしまった。語り得ぬものは沈黙するしかないのね。
第三章:事象の地平の内側
もうどのくらい、この兜率天の重閣に籠もって思索を続けていたのかしら? 長い時間が経ったようだわ。問い掛けもなくなったことから、思索の沼から浮かび上がった。そうしたら、ある声が聞こえてきた。
『五十六億七千万年が経ったぞ!
厳かだけど、どこか警戒心を起こさせる奇数倍の高調波を含んだ声が、兜率天の中に響いた。
『はい、それは恙無く。今は約二十五倍ほどの精神エネルギーが溜りました。ここの環境は修行に適しています』
ああ、これは仏陀の声。偶数倍の高調波を含んだ声は、聞いていてとても心地よい。仏陀が丁寧に返答しているから、もう一人の声の主は転輪王ね。
『そのために、遮光遮音効果の優れた重閣の中に、半跏坐で瞑想にふける弥勒菩薩の像を用意したのだ。この兜率天には魂の存在でないと入れないからな……
兜率天に導くための下準備として、苦行で朽ち果てる波羅門僧の役をやったり、悟れない修行僧の役をやったり、修行中の弥勒に色々な質問をしたことも、すでに遠い昔の話だ』
『ええ、転輪王が
仏陀の答えに転輪王は満足したようだった。
『それでは、重閣を兜率天から切り離し、重閣ごと太陽へ打ち込みなさい』 転輪王は、仏陀に下知した。
『えぇ? それでは
『
それでこの宇宙全体としての、エネルギーの
『太陽の質量だと、ブラックホールには足らないです』 仏陀は異論を唱える。
『だから
転輪王の思惑に揺らぎがないと思った仏陀は、突破口を開くために話の内容を変えてみた。
『では、
『その中にも普通の世界がある。まあ、ブラックホールに依存した制約はあるがね。光が飛び出さないための光速度不変則と、外に出るエネルギーを作れないためのエントロピー増大則と、そうそう、未来が認識できないから時間は一方向のみ……そのぐらいかな』 転輪王は頭の中で情報を確認しながら仏陀に伝える。 仏陀は、この言葉の中に矛盾を見つけた。
『閉じた世界をどうやって観測されたのですか? 』 仏陀は踏み込んだ問を転輪王に投げかける。
『それは、完全に閉じた世界を作れなかったからだ。ああ、君は自分が失敗したときの記憶を失っているからね。
君のときは、
だから今度の
仏陀は口をつぐんだ。転輪王は太陽に落ちていく重閣を眺めていた。二人の問答が終わって兜率天に沈黙が訪れた。
しばらくして転輪王は、自分の大きさ程度の空間を切取り、
『どうして、太陽がブラックホールになるのを見届けないのですか? 』 転輪王の後ろ姿に仏陀が問いかける。転輪王は振り返り、
『いや、観測していないほうが良い、と思ってな』 そう言って、転輪王は仏陀を誘う。仏陀はその後に従いながら振り返り、
『
その声は、
*
いままでに
それよりも色々な知性体とおこなった問答が気になっていた。
自己も他己もない、一即多多即一の境地に至ったのに……満足できないのは、
人は死んでも仏にはなれないのを知っているのに……満足できないのは、
ああ、これらには関連性がある。全ては、自己と他己との
そうか、一議に定まらない悩みに関して、耳を傾けることは良いけど、それに第三者として
『菩薩は無量無数無辺の衆生を救済するが、しかし自分が衆生を救済するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。菩薩にとっては救う者も
どこからか、懐かしい、偶数倍の高調波を含んだ声が聞こえてくる。
ああ、そういうことなのね。
アジタのときの記憶がささやく。 朽ち果てていく修行者を観測しなければ、
転輪王の言葉が響く。 『
そこに四知性との問答で得た、輪廻は観測者の視点が変わること、を加味して思索すると、
ブラックホールの内では輪廻は起こらない。
これは空だ。これが如来の本生なのだ。
今、
ここに、智慧の完成の心が終わった。これにより
これで、だれからも
重閣が太陽に落ちる。太陽はその径を大きくしていった。それはゆうに地球を飲み込んだところで極大になった。それから収縮していき、ブラックホールとなるために
如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。
如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
了
弥勒の観る夢 ペテロ(八木修) @jp1hmm
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