第37話 今でいい


「それでいい。支え支えられ、相乗効果で高め合う。君達はそういう関係なんだ」


 博士は静かな声で言葉を重ねる。科学者の分析ではなく、一人の大人としての意見だった。


「高め合う……」


 永遠とわはその言葉を胸の中で転がすように呟く。


「そんなオオゴトに取らなくてもいいのよ? お互いがただそこにいるだけでお互いに楽になれる。楽しくなれる。二人なら悲しみは半分に。喜びは倍になる。これぐらいに考えてくれれば嬉しいわ」


 弥生の声は、春先の空気みたいに柔らかかった。

 永遠の呼吸が、ようやく力を抜き、自然な呼吸へと戻る。


「はい。……なら、瑠璃乃の目が覚める時には、今より少しだけでも笑っていようと思います……ほんとに少しだけでも……あははっ……」


 笑うと言いながら、弱い。

 けれど、その弱さごと肯定しようとする意志があった。

 博士と弥生は、その痛みを抱えたまま前に進もうとする姿勢をしっかり受け止めた。


 博士も弥生も知っている。

 永遠が抱える痛みの構造を。

 アザレアージュとペネトレーターという関係が、彼にどれだけの救いを与えると同時に負荷を生んでいるかを。


 瑠璃乃が永遠に与える支えは、生体レベルで観測できる。

 つまり、意識を失った瑠璃乃は、永遠への支えの一部を一時的に欠く。

 その“ちょっとした変化”が、永遠にとっては致命的なほど重い場合がある。


 それでも永遠は、瑠璃乃を、二人を、責めようとしない。


 むしろ、苦しい今でも、笑おうと努力した。


 博士と弥生の胸に、光と影が同時に刺さる。

 感謝。

 謝罪。

 責任。

 その全部が混じり合って、二人は言葉を失う。


 永遠はそんな二人の沈痛な表情に気づき、おずおずと手を挙げた。


「あの……」


 二人とも肩を跳ねさせ、永遠の方を見た。


 永遠は、普段と違い、視線を泳がせず、真正面ではないが、その方向を見るように話し始める。


「……瑠璃乃が悪いわけでは絶対にないんです。何回も言いますけど、僕を外に連れ出してくれたこの子には感謝ばっかりしてます。それと、きっかけをくれた二人にも……」


 素直な言葉ほど照れくさいのか、永遠は下を向く。

 弥生は目を丸くし、博士は呼吸すら忘れたかのように固まった。


「今の瑠璃乃でいいって言ったのは僕です。情けない僕ですけど、言った事の責任ぐらいは取りたいです。外見が抜群に可愛いから緊張はするけど、毎日楽しいし、今日だって……」


 “今日”。

 永遠にとって、今日の出来事の記憶はあまりにも鮮烈だった。


 砂嵐のように曖昧ではない。

 色も音も温度も匂いも、そのまま焼き付いたような記憶。


 瑠璃乃がいなかったら、本気でそう思う。

 あのまま呼吸が止まっていたかもしれない。

 心が死んでいたかもしれない。

 そう考えてしまうほど、悪意の刃は鋭かった。


 記憶を反芻する永遠の呼吸が浅くなるのを見て、弥生は胸を押さえた。

 痛みに共感するように。


「ごめんなさい。つらい思いをさせちゃったのね」


 静かな謝罪に、博士も深く頭を下げた。


 永遠を巻き込む形になったこと。

 引きずり出す形になったこと。

 救いのためだとしても、彼に負荷を強いてしまったこと。


 すべてが、胸の奥でこだまする。


「いやいやっ! そんな顔しないで下さい! 楽しかったのは本当だし! ただ僕の覚悟が足りなかっただけの話ですから……あははっ……」


 永遠はワタワタしながら笑顔を作る。

 だがその笑顔は、眉の形まで悲しみを映し込み、どこか苦しい。


「本当に大丈夫なんです! 大丈夫! あはははっ……」


 声は震え、笑おうとするたびに胸の奥が軋む。

 永遠は観念したように、視線を床へ落とす。


 博士も弥生も、気配から永遠の変化を感じ取っていた。

 言葉を挟まず、ただ待つ。

 呼吸を整え、永遠が“安心して弱音を吐ける場”を作る。


 永遠の肩が一度上下し、絞り出すように口が動いた。


「……二人には隠せませんよね。あははっ……。確かに辛かったのも本当です……痛かったです……」


 その言葉が空間に落ちた瞬間、博士と弥生の胸にはさらに強い刺痛が走った。


 永遠は続ける。

 それは、二人が“自分を責めないようにするため”の言葉。


「でも、だからこそ、今が良かったと思うんです。瑠璃乃がいてくれる今だからって……」


 一度深呼吸し、静かに告げた。


「……正直みくびってました。そこまでの事はないだろうって……」


 その告白は、重く、しかし確かな前進だった。






 ◆ ◆ ◆ ◆



 



 永遠が語り始めたのは、過去の深い傷だった。

 ハルジオンの在宅職になり、ペネトレーターとなってから初めて外に出た日。

 元クラスメートと再会した、あの悪夢のような場面。


 身を縮めるようにして言葉を紡ぐ永遠の姿に、博士も弥生も息を呑む。


 濃密な再会だった。

 濃密な拒絶と、濃密な悪意。

 近づくどころか、刃物を向けられたかのような鋭さで永遠を拒み、傷つけた。


 あの日は、立っていることさえ苦しかった。

 情けなくて、怖くて、胸の奥が焼けるように痛くて、涙が零れた。


「たまたま、酷い事を考える人に出くわしちゃっただけなんだ。悪いツチノコに遭遇したようなものなんだって、自分に言い聞かせてました。でも……」


 言葉が震えた。

 “でも”と口にした瞬間、今日の出来事が胸に去来したのだろう。

 また、あの痛みが蘇ったのだ。


「……でも、僕達のことが大嫌いな人の悪意は凄すぎて、みくびってた僕は返り討ち……とは違うのかもしれないけど、痛い目に遭いました……」


 永遠は自分を責めるように身を縮こまらせるが、博士と弥生はその姿勢に胸を痛めた。


「すっっごく楽観的に考えてですよ? 考えて、瑠璃乃に出会わなくても、ある日突然、一人で外に出られるようになったとします。それで、どこか出掛けた先で僕のことを大嫌いな人に会って話をしたとします。その時に、今日みたいなことがあると……きっと、僕はもう立ち直れません……」


 永遠が想像しているのは“もしもの世界”。

 瑠璃乃と出会わず、一人で外に出ていた場合の自分。

 その、もう一人の自分は、今日で確実に折れていただろう。


 そして、永遠は、ゆっくりと顔を上げた。


「でも、今は瑠璃乃がいます。いてくれるんです」


 その言葉だけで、博士の眉がわずかに震え、弥生の口元には深い優しさが宿る。


「この子がいるから、明日また頑張れる気がするんです」


 永遠の声は少し掠れていた。

 天使のような容姿に緊張はする。

 ちぐはぐで、理解するまで時間のかかるところもある。

 でも、それも含めて瑠璃乃との一つひとつのやり取りが、永遠の心に確かな温度を残す。


 温かいものが積もる。

 日々、その積もる感覚が、永遠を癒やしてくれる。


「どんなに痛い思いしても、ご飯を一緒に食べて、一晩ぐっすり眠って、また朝ご飯を一緒に食べれば、外へ出かけられる気がするんです。こんなこと、一人の時は想像もできませんでした」


 永遠の言葉は、小さな灯火のようにトレーラー内部に広がる。

 暗闇を押し返すような、弱いけれど確かな光だ。


 やらないことが、もったいない。

 その感覚が生まれたこと自体、永遠にとっては革命的だった。


「痛めつけられて、打ちのめされても、そのせいでまた、ひきこもっちゃうのがもったいなく思えるんです。瑠璃乃がいてくれるから……」


 博士の胸に、堪え難いものがこみ上げる。

 弥生の目には光が差し、永遠の言葉の強さと優しさに心が揺さぶられる。


「だから瑠璃乃が居てくれて良かったと思うんです。外に出られる今。一人じゃない今。瑠璃乃と一緒に外に出た今。その今をくれて、傍にいてくれるから、ひきこもりに戻ろうなんて考えなくていい今があると思うんです。……上手く言えないんですけど、今で良いんだと思うんです。……いまいまウルサイですね僕、あははっ……」


 永遠は照れたように頬を掻いた。

 でも、その言葉は何よりの真心だった。


 自分は大丈夫。

 今日、痛くても、明日は楽しいかもしれない。

 瑠璃乃がいてくれるから。


「……今日が怖くて辛くても、瑠璃乃が傍にいてくれるなら、明日はきっと楽しくなる……そんなふうに思えるんです。朝まで寝れば、前の日の痛みが和らいでる。痛みをあんまり引きずらないで済むんじゃないかって、明日が明るく思えるんです。だから、やっぱり二人にもありがとうございますって思えるんです」


 最後の言葉は、勇気を振り絞るようにして出た。

 永遠は恐る恐る顔を上げ、大人達の表情を窺う。


 弥生は、柔らかい春陽のような笑みを浮かべていた。

 永遠を包み込むような優しい眼差し。

 その隣に立つ博士は、口を真一文字に結び、涙をぼたぼたと落としていた。

 決壊した堰のように。

 眼鏡の内側も外側も涙まみれで、鼻の奥まで詰まってしまったような声が漏れる。


 永遠はその姿に驚きつつも、この人……本当に僕達のことを……と胸が熱くなる。


「「ありがとう」」


 弥生と博士の声がぴたりと重なった。

 一方は深い慈しみを湛えた声。

 もう一方は、鼻水で溺れそうな濁音だらけの声。


 永遠はむず痒さに身をよじりながら、苦笑した。


「いや、あははっ……こちらこそ……です……」


 甘くて苦い、くすぐったい笑み。


「ウううッ! ありがとう! ありがとう、永遠! 私は君に出会えたことに感謝している! さぁ、これでも飲んでくれ!」


 博士が勢いよく冷蔵庫を開け、湯飲みを取り出す。

 ふたを開けた瞬間に広がる甘ったるい香りに、永遠は顔を引きつらせた。


「えっ⁉ いや、いいですいいです! 怪我してる博士が飲んでくださいどうぞ!」


「遠慮するな。君に何かを贈りたい気持ちが抑えきれないんだ!」


「あっ、いや、そんな⁉」


 助けを求めるように永遠が弥生を見る。


 弥生は満面の笑みで、湯飲みをもう一つ差し出してくる。


「私も同じ気持ちよ。こんなものしか出せないけど、いくらでも飲んでちょうだい」


 逃げ場が塞がれた。

 永遠の背にツーッと変な汗が伝う。


「あ、それともアイスの方がいいかしら?」


「‼ アイスもあるんですか⁉」


 一斉に光が射したかのように永遠が弥生へ身を乗り出す。


「ええ。あ、でもモノの良いやつじゃないのよ? 安いのしかないんだけど……」


 弥生は冷凍庫を開ける。

 中はかなり質素だったらしい。

 迷いなく取り出したのは安価な砂糖水氷——しかし、永遠の好物。


「あ! それは私がいつか食べようと思ってとっておいっ――モゴばッ⁉」


 弥生が博士の口に氷を突っ込み、強制的に黙らせた。


「……いいんですか? もらっちゃっても……」


「どうぞどうぞ♪」


 にっこりと勧められ、永遠は嬉しさ半分、申し訳なさ半分の表情で包みを受け取る。


「……僕、これ大好きなんですよ。博士も好きなんですか?」


 氷を口いっぱいに頬ばる博士が何かモゴモゴ言い、その翻訳を弥生が肩を震わせながら代弁する。


「比較的手の出しやすい価格帯に関わらず、薄味だがまろやかで味わい深い上品な甘みとうま味を備えている。見つけたら必ず買ってもらうことにしているぞ……だそうよ」


 永遠は思わず笑った。


「好きな人、けっこういるんだな。嬉しいです……」


 瑠璃乃も、梅子も、そしてあの少女さえも……それを思い出し、胸がほのかに温かくなる。


「……あの、ハルジオンの在宅が酷い目に遭うって、けっこうあるんですか……?」


 永遠の問いに、弥生の表情が少し陰る。


「……そうね。残念だけど、心無い人達はいるわ。そして、声が大きいから在宅職の子達の耳に届きやすい」


 永遠の喉がひくりと動く。

 今日の出来事が、再び胸に刺さる。


 だが、その痛みとは別に、新しい感情が胸に芽生えていた。

 あの少女達への、どうしようもない悔しさ。

 倫理以前の問題として、許容できないという強い拒否感。


 永遠は拳をかすかに震わせた。


「……永遠くん。よかったら聞かせてくれないかしら? 永遠くんの思っていることを」


 弥生の声は、誰よりもゆっくりと永遠の心に触れた。

 博士も静かに頷く。


「話したように、瑠璃乃ちゃんもまだアザレアージュのお仕事に慣れるまで時間がかかるだろうし、今はなるべく沢山の経験が要る段階にあるの。それに私達も裏方として、いろんな情報を共有したいわ。瑠璃乃ちゃんがのびのびと活躍できるためのお手伝い、私達にもさせてくれないかしら?」


 永遠は返事を失い、唇を少し開く。


「無理でなくて構わない。だが、君が許してくれるのなら、私達にも仕事をサポートさせてくれないだろうか?」


 それは形式的な言葉に聞こえるかもしれない。

 だが、永遠には分かった。

 二人が心から自分を気遣ってくれていることが。


 瑠璃乃の残した価値ではなく、自分自身を必要として寄り添おうとしてくれているのだと。


 永遠の胸が少しずつ熱く満たされていく。


「……永遠ぁ~」


 柔らかい寝言が空気を揺らす。

 三人が一斉に振り向くと、瑠璃乃が無重力の機械の中で金色の髪をふわふわ漂わせながら、幸せそうに眠っていた。


「わたしがカレーのカレー頼むから、永遠はライスを頼めばいいよ~……そしたらカレーライスになるんだよ~……えへへ~……」


「……いや、それなら最初からカレーライス頼めばいいと思うよ?」


 寝言に即ツッコミを入れる永遠。

 その瞬間、張り詰めていた緊張がほどけ、三人は顔を見合わせて笑った。


 温かくて、どこか救われるような笑いだった。

 永遠は肩の力がすとんと抜けていくのを感じた。

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