第1話:花のない娘

朝の花守邸には、薄い霧が静かに漂っていた。

石畳に残る夜露が光を吸い込み、屋敷全体がどこか重苦しい気配に包まれている。


詩乃は、廊下を歩くたびに気配を消すようにして歩く。

足音ひとつで、誰かの機嫌を損ねてしまうことを知っているからだ。


(今日こそ……何事もありませんように)


そんな願いは、いつだって簡単に裏切られる。




食堂ではすでに家族が揃っていた。

継母・美鶴は艶やかな羽織をまとい、妹の華澄は横で笑っている。


詩乃の席に置かれた膳は、他より小さく、おかずもわずか。

それが“当たり前”になって久しい。


詩乃が座ろうとすると、美鶴の声が鋭く飛んだ。


「詩乃。座らないでちょうだい。華澄の気が散るわ」


「……はい」


淡々と返事をしながら、胸の奥がひどく冷えた。


華澄は、艶やかな黒髪に簪を揺らしながら、美鶴に笑いかける。


「お母様、昨日の髪飾り、本当に素敵だったわ。

 煌牙様が“華澄が一番似合う”って」


「まあ、本当に。あなたは花守家の誇りだものね」


(誇り……)


詩乃は、そっと視線を落とす。


花守家には、代々語り継がれる古いしきたりがある。


──娘は生まれた瞬間、胸の奥に“花弁の光”を宿す。

──その光が強いほど、家に繁栄をもたらす。

──光が咲いた娘は、上位家系へ嫁ぎ、家の未来を結ぶ“鍵”となる。


華澄の胸には幼い頃から鮮やかな花弁が灯っていた。

それは家の者すべてを歓喜させ、華澄は生まれた瞬間から“宝”となった。


しかし──


詩乃の花弁は、一度も咲かなかった。


“花のない娘”

“咲かぬ花”

“価値のない長女”


その烙印は、家中の扱いを決定づけた。


食卓で茶を運んでいた家政婦の妙が、そっと詩乃の近くへ寄る。


「大丈夫ですか、詩乃様……少しお顔が」


「平気です。いつものことですから」


「……“いつものこと”で済ませていいはずがありませんよ」


妙の言葉は優しかったが、それが涙を誘いそうで、詩乃は黙った。




花守家では、花弁の光にまつわる伝承が多い。


“光を持つ娘は家の守り手となり、

 光を持たぬ娘は影に従うべし”


そんな古文書まで残っている。


詩乃は幼い頃、その文を読んで泣いたことがあった。

だが泣いたところで何も変わらない。

むしろ、弱さを見せれば叱られるだけだと学んだ。


それ以来、詩乃は感情さえ自分の奥にしまい込むようになった。


「詩乃、お茶のお代わり」


華澄の声に呼ばれ、詩乃はすぐ立ち上がる。


(華澄は悪くない。

 きっと、わたしがダメなだけ……)


そう自分に言い聞かせ、黙々と動く。




朝食が終わると、美鶴が軽く扇子を振った。


「詩乃。華澄のお気に入りの着物、泥がついていたわ。

 あなた、今日中に綺麗にしておきなさい。

 華澄の大事なものに触れるのだから、責任を持ちなさい」


「……はい」


“華澄のものは宝物、詩乃のものは不要”


それが花守家での絶対だった。




廊下の片隅に追いやられ、

詩乃は少しだけ壁にもたれた。


胸の奥がじんと痛む。

誰も気づかない場所で、そっと息を吐く。


(……母様。

 どうして私は、花が咲かなかったの……?)


亡き母の面影はほとんど残っていない。

しかし、母の名が“光の家系”の出であったことは聞いている。


ならばなぜ自分には光が灯らなかったのか。


詩乃は自分の胸に触れた。


そこは、ずっと冷たいままだった。




花守家の家系図の中で、

“花を持たず生まれた娘”は極めて珍しい。

まるで呪われたように扱われる者も過去にはいたという。


(怖い。

 けれど、いつか……いつか、私にも光が)


詩乃のその願いは、

声にならぬまま胸の奥深くに沈んでいく。


誰にも気づかれず、

誰にも届かず。


そうやって十九年。


だが──

この静寂の奥で、

まだ詩乃自身も知らない“小さな芽”が

確かに息を潜めているのだった。

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