第2話: 微光の気配
朝の雑務を終える頃には、
花守邸の庭には太陽の光が差しはじめ、
夜露がゆっくりと蒸気になって消えていった。
詩乃は洗い場の前で、濡れた手をそっと袖で拭った。
華澄の着物に付いた泥を落とす作業は、
もう何度目か分からない。
(……外に出られる時間、少しだけでも欲しいな)
そう思うのは、わがままなのだろうか。
食堂で立たされる毎日よりも、
外の雑用に駆り出される方が、
詩乃にとってはまだ息がしやすかった。
使用人の妙(たえ)が、気遣わしげに声をかけてくる。
「詩乃様……お加減、悪くはありませんか?」
「大丈夫です。
いつものことですから」
「……“いつものこと”で済ませてはいけないんですけれどね」
妙はそう呟きながら、
詩乃の手の甲についた細かな傷を指先で示した。
華澄が機嫌を損ねると、
物に当たり散らし、その片付けを詩乃にやらせる。
結果、詩乃の手にはいつも細い傷が増えていた。
「……慣れていますので」
詩乃は笑おうとしたが、妙は目を細めて首を振る。
「慣れていいことなんて、この家にはありません」
その一言が胸に刺さる。
(……本当は、誰よりも分かっているのに)
花守家に生まれたのに、
“家の力の源”となる花弁が宿らなかった娘。
その烙印は、詩乃の肩にずっと重くのしかかっていた。
昼過ぎ、用件で外の街へ向かうよう父に言い渡された。
華澄のための品物を取りに行くついでに、
書類を役所に届けるという用事だった。
使用人の同行は許されない。
(……一人で外に出るのは久しぶり)
門をくぐり、表通りに足を踏み出した瞬間、
詩乃の胸の奥がふっと軽くなった。
家の中では常に押しつぶされそうな空気だったのに、
街の喧騒はなぜか心地よい。
行き交う人々のざわめき、
商人たちの呼び声、
遠くから聞こえる電車の音。
そのどれもが、自分が“存在してもいい”と
許されているように感じた。
(……あたたかい)
そんな感覚を覚えたのは、いつ以来だろう。
だが、束の間の安らぎは突然終わる。
帰り道、狭い路地に入った瞬間。
空気が、ひりつくように冷えた。
背筋がぞわりとする。
胸の奥が、なぜか痛む。
(……なに、これ……?)
見上げると、
路地奥の影が揺れていた。
まるで生き物のように、ゆらり、ゆらりと。
──禍神(まがつかみ)の気配。
詩乃には見えるはずのない“黒い泡のような影”が、
濁った呼気のように溢れている。
(わたし……こんなものを、感じたことなんて……)
恐怖が足元から這い上がる。
足が震えて動かない。
その時――胸の奥が熱を帯びた。
(え……?)
胸骨の裏、心臓のあたりに、
小さな光が、ふっと灯ったような感覚。
ほんの一瞬。
だけど、確かに感じた。
路地の影がわずかに後退するような揺らぎを見せ、
次の瞬間、風が吹き抜けるようにスッと消えた。
(……今のは……何?)
息を荒くして壁にもたれかかった詩乃は、
胸に手を当てた。
そこはまだ、じんわりと温かかった。
(体がおかしくなったのかもしれない……)
そう思いながらも、
詩乃は気づかない。
その瞬間だけ、
詩乃の胸の奥で“花灯”が微かに光を漏らしていたことに。
その光は、まだ花弁の形にもならない、
ごく小さな“気配”にすぎなかったが。
彼女が初めて感じた、異能の胎動だった。
夕方、家に戻ると、
華澄と美鶴の声が廊下まで響いてきた。
「遅かったわね、詩乃。
華澄の髪飾り、ちゃんと受け取ってきたでしょうね?」
「……はい。こちらに」
「本当に、使えない子ね。
華澄ならもっと早く戻っているわ」
美鶴の嘲りに、詩乃は黙って頷いた。
けれど心の奥には、
先ほど胸に灯った“微光の感覚”が残っていた。
あれは、いったいなんだったのだろう。
胸の痛みも、あの影の気配も。
そして自分の中に残った、
不思議な温もり。
(……どうして、こんな気配を感じたのだろう)
詩乃は答えの出ない疑問を抱いたまま、
夕日の差す廊下を静かに歩いた。
その横顔は、
誰にも気づかれない小さな変化を秘めていた。
そして、この“微光”こそが──
彼女の運命を変える最初の兆しとなる。
まだ詩乃自身は、何ひとつ知らないまま。
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