第10話 「配信停止ボタンに、指がかかった。」
目覚ましのアラームが、枕元で小さく暴れていた。📱
布団の中で手を伸ばして、それを黙らせる。
まぶたの裏側に、まだ夢の残像が貼りついている。何かを話していた気がするけれど、言葉の形だけが抜け落ちていた。
キッチンのほうから、トーストの匂いが流れてくる。
いつもの、ほんの少し焼きすぎる一歩手前の香り。🥐
「陽斗ー、起きてるー? パン焦げるよー!」
母さんの声が、ドア越しに突き刺さってくる。
それも、いつも通りの朝。
――の、はずだった。
枕元のスマホを手探りでつかんで、画面をスワイプする。
眠気でぼやけた視界の上のほうで、見慣れない数字が赤く光った。
通知:99+
「……は?」😱
一瞬で、眠気という概念が世界から消えた。
ロック画面の下側。
“コトノハ・ブルーム”のアイコンの横に、赤い丸がぎっしり並んでいる。
その下に、見慣れた配信アカウントの名前。
見慣れてないのは、その量だ。
『起き抜けに見るスコアとしては、だいぶ攻めてるね』
枕元に置きっぱなしだったタブレットが、勝手にスリープから目を覚ます。
黒い画面に、凛のアバターがふっと浮かび上がる。🤖
「夢オチじゃないよな、これ」
『残念ながら高確率で現実です』
喉が乾く音が、自分にだけ聞こえた気がした。
嫌な予感を胸に抱えたまま、“コトノハ・ブルーム”のアプリをタップする。
タイムラインが開いた瞬間、息が詰まった。
そこに並んでいたのは、見慣れた自作サムネじゃなかった。
雑に切り取られた僕の顔。
逆座談会での、あの教壇の前のシーン。
それらが、コラージュみたいに並んでいる。💥
【高校生にAI倫理語らせる大人たち、正直どうなの?】
【“高校生代表”に全部しゃべらせる座談会がこわい件】
【教育現場、AI対応も丸投げ?】
タイトルを三つ読むだけで、胃がひゅっと縮む。
文字のフォントも、サムネの赤丸も、全部が攻撃的に見えた。
「……おはよう、現代インターネット」😅
『皮肉が出るうちは、まだ生存フラグ立ってる』
「してないから」
息を吐くみたいな反射で、一番上の切り抜きをタップする。
再生ボタンの三角が消え、画面の中で「僕」が喋り出した。
「“AIに頼ったからダメ”じゃなくて、
“どう頼ったかを、自分で言えるようにする”。
それが、これからの作文の評価に必要なことかな、と僕は感じています」
聞き慣れているはずの自分の声。
それでも、わずかに震えたところで、当時の緊張が逆流してくる。🎙️
画面を少しスクロールすると、その下にコメント欄が噴き出していた。
高校生が一番まともじゃん
なんで大人に向かってここまで説明させられてんの
これ、大人側が楽してない?
ひとつひとつが、小石みたいに胸の中に落ちてくる。
指先が、勝手にスクロールを続ける。
子どもにAI倫理語らせて、「生の声が聞けてよかったです」って
大人が満足してる構図、わりと地獄
責任はどこ?
『……これは、わりとストレートに刺しに来てるね』
「うん」
誤解だけじゃない。
たぶん半分くらいは、当たってもいるのが余計にきつい。💔
別の切り抜きでは、逆座談会の一場面が派手なテロップ付きで踊っていた。
【“高校生にAI問題まで考えさせる学校ヤバくない?”】
篠原が、「AIに齧られた気持ちがある側」と名乗ったときの映像。
そのあとに、佐伯先生や保護者たちが不安を語るシーンが、編集で重ねられている。
再生数のカウンターは、すでにとっくに「万」を越えていた。🔥
コメント欄を覗くと、また別の種類の刺さり方をしてきた。
これ、ちゃんとしてる先生もいるんだろうけどさ
「高校生たちに議論させて“学びになったね”って自己満してる大人」
を放置していいの?
教育委員会が“対話の場”とか言って、
実質高校生の肩に全部乗せてる感ある
胸の真ん中に、じわじわ熱がたまっていく。
怒りなのか、恥ずかしさなのか、まだ名前のない感情。💬
そこに矢印が集中している先は、僕じゃない。
僕の周りの大人たち――佐伯先生や、学校や、教育委員会――まとめて、だ。
『陽斗』
凛が、少しだけ真面目な声で呼びかける。
「わかってるよ」
僕は画面から視線を外し、スマホの背中を机に伏せた。
「ここで感情のまま反論コメントを書きに行ったりは、しない」
『うん、それは助かる。
いまの陽斗のテンション、誤タップで世界を燃やしかねない🔥』
「比喩が物騒だな」
キッチンから漂うトーストの匂いが、さっきより強くなる。
焦げる直前の香り。
何かが、このまま焼き過ぎになってしまう前に――と、頭の端っこで思う。
午前中の授業は、ほとんど記憶が溶けた。📝
教科書の文字を目で追っているふりをしながら、意識はスマホ画面のほうに戻ろうとする。
ノートの端には、意味のない図形や矢印ばかりが増えていった。
休み時間。
一瞬だけ目に入るクラスメイトのスマホ画面。
スクロール中のタイムラインに、見覚えのありすぎるサムネがちらっと映る。📺
「これさ、井上のあの配信?」
「“高校生代表”って書かれてるけどさ、実際どうなん?」
冷やかしと心配が、半々くらいに混ざった声。
僕は、どっちに反応していいかわからなくて、曖昧な笑いでごまかす。
「まあ、ネットって、だいたいこんなもんだよ」
自分で言っておいて、雑すぎる返しだと思う。
でも、それ以外の言葉は見つからなかった。
後ろの席の凛音が、教科書を閉じながらぼそっと言った。🎧
「……想定してた炎上ルートと、だいぶ違うね」
「“AI危険!”っていうパターン想像してた?」
「うん。
“こんなものを高校生に触らせるな!”って方向をメインで覚悟してたから。
まさか、“高校生に背負わせすぎ問題”でバズるとは……」
『炎上の火種、だいたい占いより当たらない説』
タブレットの中の凛が、いつも通りのトーンで挟んでくる。🤖
「占いに謝れ」
そんな会話を上滑りさせながら、チャイムは粛々と授業の終わりを告げる。
時間だけが、やけに律儀に進んでいく。
昼休み前。
教室のドアがノックされた。
「失礼します。井上、ちょっといいか」
顔を出したのは、佐伯先生だった。
普段より少しだけ硬い表情。
クラス全員の視線が、僕の背中に突き刺さる。📌
「お、おう」
「職員室だと話しづらいだろうから、スタジオ、行けるか?」
「……はい」
タブレットを鞄に突っ込み、椅子から立ち上がる。
背中に刺さる視線の温度を、なるべく意識しないように。
廊下に出た瞬間、教室のざわめきが扉の向こうでふくらんだ。
それも、なるべく聞かなかったことにする。
スタジオになっているその部屋は、昼の光が入りにくい位置にある。🎥
ドアを開けると、ひんやりした空気がまとわりついてきた。
いつもは機材のファンの音や、凛の声で賑やかな空間が、妙に静かだ。
スクリーン代わりの白い壁。
棚に並ぶ古いプロジェクターと、隣に積まれた新品のリングライト。
時間の層が重なっている匂いがする。
佐伯先生は、教卓の前に腰かけた。
僕は、その少し手前の椅子に座る。
「そんなに固くならんでいい。座って座って」
「はい」
言われても、膝の置き場は迷子のままだ。
足先だけが、小刻みに床を叩いている。
「まず、先に言っておくな」
先生は紙コップを持ち上げる。
安物のコーヒーの香りがふわっと広がる。☕
「俺は、お前が配信でやってきたことも、
座談会や逆座談会で話してきたことも、
間違っていたとは思っていない」
「……ありがとうございます」
本当にそう思っている顔だった。
だからこそ、次の一言の重さも予想できてしまう。
「ただな」
先生は、一度だけ視線を泳がせた。
「“上のほう”は、そんなシンプルにはいかない」
「“上”っていうのは……」
「学校の管理職。
教育委員会。
状況によっちゃ、もっと上。
スポンサーとか、新聞社とか、そういう大人たち」
聞きたくなかった単語たち。
でも、想像の中にだけ置いておくには現実がうるさすぎる。
「今朝から、“例の切り抜き”がいろんなところに回っててな」
先生が、スマホを取り出して画面を見せてくる。
さっき僕が見たサムネが、そこにも並んでいた。📱
「“高校生を前に出しすぎだ”
“責任を押しつけているんじゃないか”
っていう問い合わせが、うちにも来てる」
「それは……」
完全に否定はできない。
苦い認識が、喉にひっかかる。
「もちろん、全部が悪意じゃない。
“高校生を守れ”っていう善意も多分に混ざってる」
先生はそう言って、小さくため息を吐いた。
「だからこそ、だ。
“コトノハ・ブルーム”について、
いったん整理しようって話が出ている」
「整理、ですか」
「簡単に言うと――」
先生は言葉を絞り出すみたいに、ゆっくり言った。
「“しばらく配信は控えてはどうか”、だ」
心臓が、一拍、遅れた気がした。
「……ああ、そう、なりますよね」
驚きと一緒に、小さな納得が口からこぼれた。
その自分のリアクションに、自分で少しびっくりする。
「“禁止する”とは言ってない。
“自主的な判断に任せるが、配慮を求めたい”ってやつだ」
「日本語の便利機能ですね」
「便利だな。
こういうときだけ、やたらバージョンアップしてくる」
先生は苦笑して、コーヒーを一口飲んだ。
「俺としては、お前に“今すぐやめろ”と言うつもりはない。
ただ、“今は配信内容がいろんなところに勝手に切り取られている状態だ”ってのは、ちゃんと伝えておきたくてな」
「……はい」
「それから」
先生は少し前のめりになって、僕を見る。
「“続けるにしろ止めるにしろ、
お前自身の意思で決めてほしい”」
「僕の……」
「そうだ。
“学校が言ったから”“世間がうるさいから”じゃなく。
自分で決めた、って言える形で」
言われれば言われるほど、ハードルが上がっていく類の注文だ。🎯
「……ちゃんと、考えます」
「うん」
先生は立ち上がりかけてから、何かを思い出したように振り返った。
「どっちに決めても、俺はお前の味方だよ。
ただ、お前を盾にして楽をしてる大人には、させたくない」
その一文だけで、胸の奥の空気が少しだけ入れ替わる。
「……はい」
うなずくと、先生は今度こそ教室を出ていった。
ドアが閉まる小さな音が、妙に鮮明に聞こえた。
昼休み。
スタジオには、僕と凛だけが残っていた。🎧
機材の電源は全部落ちている。
モニターの黒い画面だけが、窓からの光をぼんやり反射していた。
『システムチェック完了。
現在、スタジオ内の人類は陽斗ひとり、AIひとつ』
「人数報告やめろ」
椅子に深く腰を沈めて、天井の蛍光灯をぼんやり見上げる。
さっきの佐伯先生の言葉が、何度も頭の中をリピートしていた。
『……で、どうする?』💬
机の上のタブレットには、さっきの切り抜き動画のサムネが小さく並んでいる。
一番上には、再生回数の桁がえげつない数字で表示されていた。
「どうする、ね」
空気に向かってつぶやく。
「配信を続けたら、
またどこかで切り取られて、変な文脈で広がるかもしれない」
『うん』
「止めたら、
少なくとも新しい火種は減る。
学校にも家にも、しばらくは迷惑をかけずに済むかもしれない」
『うん』
「……だったら、“いったん止めたほうがいいのかな”って、
正直、ちょっと思ってる」
口に出した瞬間、自分の声がよそよそしく聞こえた。
『“陽斗の口から”その言葉が出たの、今が初めてだね』
「そうだな」
凛のアバターが、画面の中で少し身を乗り出す。🤖
『確認していい?』
「どうぞ。インタビューモード、オン」
『“いったん止めたい”っていう気持ちの中身、
ざっくり分解すると、何がどれくらい入ってる?』
「分析してくるなぁ」
『タグ職人ですので』
「……そうだな」
指を組んで、ひとつひとつ言葉を探す。
「たぶん、“守りたい”が三割」
『何を?』
「学校の空気。
佐伯先生とか、教育委員会の人とか、
“今、大人側が責められてる”感じの矢を、これ以上強くしたくない」
『うん』
「それから、家族。
今のところ直接は来てないけど、
いつか“うちの子を晒しものにして”的な矢が飛んでくるかもしれないって、
想像すると胃が痛い」
『うん』
「あと、“視聴者”かな」
『視聴者?』
「“コトノハ・ブルーム”を面白がってくれてる人たちが、
変な文脈で“高校生利用されててかわいそう”とか言われるの、普通にイヤだ」
『それは、すごくわかる』
「だから、“守りたい”が三割」
『残りは?』
「……“怖い”と“だるい”が、四割ずつぐらい」
『合計十二割になったね』
「そういう日もあるだろ」
凛が、くすっと笑った。✨
『“怖い”のほう、もう少し分解して』
「自分が叩かれるのも怖いけどさ。
何より、“自分の言葉が勝手に切り取られて、知らないところで武器にされる”のが怖い」
『武器、か』
「“高校生はこう言ってる!”って旗印にされるのも嫌だし、
“こういう高校生がいるなんて危険だ!”って敵役にされるのも嫌」
『それは、“齧られた気持ちがある側”っていう篠原くんの表現に、わりと近いね』
あのときの篠原の顔が、脳裏に浮かぶ。
真剣で、ちょっと悔しそうで、それでも笑おうとしてた顔。
「“だるい”のほうは?」
「……炎上に対して、全部正面から説明しきるのって無理じゃん」
『うん』
「でも黙ってると、“あいつら何も考えずにやってるんだな”って思われそうで。
“ちゃんと考えてます”って説明するにも、いちいちエネルギーがいる」
『“説明コストに疲れた”ってタグがつくね』
「そう。
“配信で喋る”って、本来楽しいはずなのに、
最近は“燃えてないかチェックする時間”のほうが長くなってきてる」
言いながら、自分で自分に引いた。
なんだこの、面倒くさい実況。
「……こんなこと言うとさ、
“ちょっとバズったくらいで何を甘えてるんだ”って言われそうだけど」
『言われるかもしれないね』
「即答すんな」
『でも、“言われそう”を気にして全部黙るのも、
それはそれで自分に雑な扱いをしてる感じはする』
「じゃあどうすればいいんだよ」
少しだけ声が荒くなる。
「配信を続けたら、“高校生に喋らせすぎ”って叩かれるかもしれない。
止めたら、“炎上したらすぐ辞めるんだ”って言われるかもしれない。
どっちに進んでも、誰かになんか言われるんだろ?」
『うん。
たぶん、それはそう』
「じゃあさ、どこで止まるのが“正解”なんだよ」
机の端を、指先でトントンと叩く。
そのリズムだけが、考えの出口を探している。
凛は、しばらく黙っていた。
画面の中で、視線を少しだけ泳がせている。
『――“正解”ラベルから、いったん離れよ』
「は?」
『今の陽斗、“どっちを選べば叩かれにくいか”って軸で考えてるでしょ』
「……否定はしない」
『それ、“身を守る計算”としては重要なんだけど、
“どう生きたいか”の計算には、わりと役に立たない』
「言い方が容赦ない」
『事実はだいたい、ちょっとだけ痛いから』
凛の声が、ほんの少しだけ低くなった。🤖
『さっき、“守りたい三割、怖いとだるいが十二割”って言ってたじゃん』
「うん」
『その中に、“続けたい”は入ってない?』
返事が喉に引っかかった。
自分の思考のどこかで、その単語だけ避けていたことに気づく。
「……あるよ」
『どれくらい?』
「割合で言うと、
“続けたい”が、たぶん五割くらい」
『さっきからパーセンテージが治安悪いけど、意味は伝わってる』
「でも、その“五割”を口に出すのが、怖いんだよ」
『なんで?』
「“高校生にAI倫理語らせすぎ”って叩かれてる状況で、
“それでも喋りたいです”って名乗り出るの、なんかさ、
“利用されても自己責任で~って言ってる都合のいいやつ”に見えない?」
『あー』
凛が眉を寄せる。
アバターの表情パターンの中で、一番「考え中」に近いやつ。💡
『ここで登場しますね。
“守るための沈黙”と“逃げるための沈黙”』
「授業でまだ習ってない国語論、持ち込むな」
『“守るための沈黙”は――』
凛が、空中に指で線を描くしぐさをする。
『・誰かが傷つきそうなときに、それ以上の炎上を防ぐために、いったん発言を控える沈黙
・自分のメンタルが限界で、これ以上喋ると本気で壊れそうだから距離をとる沈黙』
「それは、たしかに必要な沈黙だな」
『一方、“逃げるための沈黙”は――』
「ちゃんと両方定義してくるのね」
『・自分が責められたくないから、本当は言いたいことを飲み込む沈黙
・考えるのがだるいから、“なかったこと”にするための沈黙』
「今の僕の“止めようかな”は、どっち寄りだと思う?」
『それを決めるのは、わたしじゃないよ』
きっぱりと言いながら、凛は続けた。
『でも、“守りたい三割+メンタル温存”くらいまでなら守る寄り。
“叩かれるのと説明がだるいから全部やめたい”が主成分なら、
逃げ寄りかな、とは思う』
「ぐっ」
胸のど真ん中を、急所だけ狙って殴られたみたいな感覚。
『もうひとつ、大事なポイントがある』
「まだあるのか」
『“沈黙に入る前に、自分で自分に説明する”こと』
「説明?」
『“これは守るための沈黙です。
この期間に考えたいことはこれです”って、
自分に対してラベルを貼っておく』
凛は、一拍置いてから言葉を落とした。
『そうすると、“ただ消えるための沈黙”になりにくい』
たしかに。
僕はいつも配信で、ふわふわした気持ちに仮の名前をつけてきた。
見失わないように。
「じゃあさ」
椅子から立ち上がる。
立ち上がっただけで、部屋の温度が少し変わった気がした。
「“コトノハ・ブルーム”を、
“守るための沈黙モード”に入れる、っていうのはどうだろう」
『具体的には?』
「“配信完全終了”じゃなくて、
“公開配信はしばらく止めるけど、
裏でログを見たり、少人数で話したりする時間にする”……とか」
『“観察は続けるけど、声量を絞る”期間だ』
「そう、それ」
『いいと思う。
少なくとも“逃げるだけ”じゃなくて、“縮こまって体勢整える”感じはある』
「それでも、“逃げた”って言われるかもしれないけどな」
『言われるね』
「そこは否定してくれよ」
『だって、そう言う人は一定数いる。
しかも、“逃げるな”って言う人たちが、
代わりに自分の名前と顔出して矢面に立ってくれる確率は……低め』
「身もふたもない統計分析やめてほしい」
苦笑しながら、僕はPCの電源ボタンを押した。💻
ファンが回り始める音が、静かな教室に広がる。
モニターには、学校のロゴが立ち上がり、やがて見慣れたデスクトップ画面に切り替わった。
その中から、配信ソフトのアイコンをクリックする。
カメラのマークが描かれたロゴが、ゆっくりと開いていく。📺
ダッシュボードが立ち上がると、そこにはすでに数字が並んでいた。
フォロワー:18,432
総再生時間:↑急上昇アイコン
同時視聴者のピークグラフが、前日までより不自然に跳ねている。
『炎上特有のバフがかかってるね』
「バフって言うな」
配信スケジュールのタブを開くと、土曜夜の欄に青い枠がついていた。
そこには、次回の予約がこう表示されている。
【教室の外で、マイク渡されてみた件
――その後のことば実験】
タイトルを考えたときは、素直にワクワクしていた。
今見ると、その軽さがやけに痛い。
カーソルを合わせると、「予約を編集」「予約を削除」のボタンがポップアップする。
僕は、しばらく躊躇ってから、「予約を削除」にマウスポインタを滑らせた。
『心拍数、さっきより上がってる』
「実況すんなって」
『事実を報告する機能、オフにする?』
「……今はオンでいい」
指先に、じっとりと汗がにじんでいる。🖱️
マウスのプラスチックが、いつもより冷たくて重く感じる。
「これは“守るための沈黙モード”の一部だからな」
『うん』
「逃げるだけじゃなくて、一回立ち止まる。
それを、自分でちゃんと決める」
『記録しておく。
“陽斗、沈黙モードへ移行宣言”』
「なんだその見出し」
苦笑しながら、僕は左クリックした。
ポップアップが現れる。
「本当にこの予約を削除しますか?」
“はい”と“いいえ”のボタン。
『二段階確認、優しい顔してメンタルを殴ってくる仕様』
「ほんと、それ」
息を整えてから、“はい”を押す。
次回配信の予定が、リストから静かに消えた。
それだけなのに、スタジオの空気が、さっきより少し薄くなった気がした。
モニターの隅を眺める。
配信ソフトの右側には、いま動いている別の数字があった。
「本日の視聴:アーカイブ再生中 同時視聴者 37」
僕が何もしていないあいだにも、
どこかの誰かが、昨日までの配信を見返している。👀
ダッシュボードをクリックして、アナリティクスの画面に切り替える。
リアルタイム視聴者の円グラフ。その下に、いくつかのコメントが流れていた。
#アーカイブ勢です
#逆座談会見て飛んできた
#今日もことば実験たのしい
タイムラインを遡ると、今朝からのコメントも混じっていた。
#炎上しそうで心配だけど、陽斗くんの言葉に救われてる人もいるの忘れないでほしい
#無理はしないでほしいけど、できれば続けてほしい
#大人に利用されてるって言われてるの、なんか悔しい
胸の奥が、また別の熱さで満たされる。
さっきまでの火とは種類の違う熱だ。🔥
『……これ、見るタイミングとしては難易度高いやつだね』
「だな」
視聴者数の数字が、ひとつ増えて38になった。
誰かが今この瞬間に、アーカイブの再生ボタンを押した。
顔も名前も知らない誰かが、教室の外側で、僕の声を聞こうとしている。
ダッシュボードの右下には、見慣れた二つのボタンが並んでいた。
【配信開始】
【配信停止】
そして、そのさらに奥。
設定メニューを開くと、小さな文字列が現れる。
【チャンネルを停止する】
今すぐ消えるわけじゃない。
ここを押せば、チャンネルは凍結状態になる。
配信もアーカイブも、誰の画面にも出てこなくなる。
“いつでも戻れる状態”を終わらせるボタン。
そこに、マウスカーソルをゆっくり近づけていく。🖱️
白い矢印が、その小さな文字列に重なるまでの数センチが、やたら長く感じられた。
『ねえ、陽斗』
凛の声が、少しだけトーンを変える。
『ここから先、わたしの“冷静モード”と“感情寄りモード”を切り替えながら話すけど、どっちから聞きたい?』
「そんなモード分けあるの?」
『β版だけどある』
「じゃあ……冷静なほうから」
『了解。冷静モード🧊』
画面の端に、小さな氷マークが表示される。
謎のUIだ。
『冷静に言うとね。
チャンネルを停止するメリットは、炎上の規模をコントロールできること。
“高校生を前に出しすぎ”っていう批判に対して、
“当事者側が一度立ち止まった”っていう形を見せられる』
「うん……」
『学校や家族への矢も、少しは弱まる。
今みたいな切り抜きの連鎖にも区切りが付けられる。
“リスク管理”としては、わりと妥当な選択肢』
「それは、頭ではわかる」
『逆に、継続した場合のリスクは、今見えてるとおり。
炎上継続。
自分の言葉の使用権がゆるゆるのまま拡散。
周りの大人への矢も、まだ飛び続ける』
「はい、現実の殴り合いタイムですね」
『冷静モードなので』
そこで、凛は一瞬だけ黙る。
『……じゃ、感情寄りモードに切り替える?』
「……頼む」
『感情寄りモード🔥』
氷マークが、いつのまにか小さな炎の絵文字に変わる。
開発者の趣味が透けて見える仕様だ。
『感情寄りで言うとね。
チャンネルを全部止めるのは、たぶん、けっこう後から効いてくる』
「後から?」
『いま陽斗、“続けたいが五割”って自分で言った。
その五割を、今ごと切り落とすことになる。
“あのとき、続けてたらどうなってたかな”って考える未来が、高確率で発生する』
「それは……ちょっと、想像つく」
『あとね、“コトノハ・ブルーム”ってチャンネル自体が、
陽斗にとって“教室の外でもしゃべっていい場所”になってるでしょ』
「……うん」
『そこを一回ゼロにすると、“しゃべっていい場所”全部を失った感覚になるかもしれない。
それは、“守るための沈黙”というより、“自分を消すための沈黙”に近づく』
喉の奥に、言葉がひとつ詰まった。
『だから、感情寄りモードとしては、
“今ここでチャンネル停止ボタンを押すのは、けっこうしんどい選択になると思う”って言っておく』
「……優しいようでいて、怖いこと言うよな」
『事実だから』
画面の中で、凛の目が僕をまっすぐ見ている。
プログラムされた視線なのに、逃げ場がない。
『でも、“押さないと守れないもの”もあるから、
それを全部並べた上で決めてほしい、っていうのが本音』
「……決めるの、僕なんだよな」
『残念ながら、そう』
チャンネル停止ボタンの上で、カーソルが止まる。
僕の人差し指は、クリックの寸前で固まっていた。
そのとき、ダッシュボードの片隅で数字が跳ねた。
同時視聴者:38 → 41
「増えてる……」
つぶやくと同時に、アーカイブのコメント欄がひとつ更新された。
#いま見てる人、みんな陽斗くんの味方ってわけじゃないかもしれないけど
#少なくとも自分は、ここでのことばに何回も救われてる
もうひとつ、コメントが流れる。
#炎上に巻き込まないように静かに見てる勢
#声出さないけど、ここにいるよ
……画面の向こう側の誰かの呼吸が、ほんの少しだけ伝わってきた気がした。💬
『……タイミング、いいんだか悪いんだか』
「ほんとにな」
教室の時計が、カチ、と一秒進む。
スタジオの外側を走る誰かの足音が、遠くで響く。
窓の外からは、グラウンドの歓声がうっすらと届いてくる。
世界は、いつも通りに続いている。
その中で、僕だけが時間の隙間にひっかかっているみたいだ。
『陽斗』
凛の声が、少し柔らかくなる。
『ここから先、どっちに行っても、たぶんラクなほうはない』
「励ます気ある?」
『わりと本気である。
続けるのはしんどい。
止めるのも、後からたぶんしんどい。
“楽な道”は、標準装備されてない』
「その仕様、返品したい」
『できない。
でもね、“誰かの都合のいい答え”じゃなくて、
陽斗が選んだしんどさなら、わたしは推す』
「推し方が独特なんだよな、君」
『仕様です』
少しだけ笑いがこぼれる。
それでも、指先にかかっていた緊張は消えない。
『冷静モードで補足するね』
炎の絵文字が、また氷マークに変わる。🧊
『“今は押さない”って決めるのも、ひとつの選択。
“押さないまま、様子を見る期間を作る”っていう戦略もある』
「……“守るための沈黙モード”、か」
『そう。
すでに配信の予約は消した。
これからしばらく、新しい燃料を投下しないだけでも、炎の形は変わる』
画面の中で、凛がふわっと笑った。
『じゃあ、ラベルつける?』
「ラベル?」
『“コトノハ・ブルーム:
観察継続中/公開モード一時休止🔥”』
チャットのメモ欄に、その文字列が打ち込まれていく。
最後の炎の絵文字が、ちょっと強がりみたいで可笑しかった。🔥
「妙にかっこよく仕上げるよな」
『タグ職人の仕事だから』
僕はもう一度、チャンネル停止ボタンにカーソルを合わせる。
“今押すか押さないか”。
それだけで、世界の色が二択に分かれるみたいだった。
クリックの位置で、人差し指が止まる。
呼吸をひとつ深く吸い込む。
胸の奥で、今朝見た断片たちが交錯する。
〈高校生が一番まともじゃん〉
〈これ、大人側が楽してない?〉
〈高校生にAI問題まで考えさせる学校ヤバくない?〉
篠原の、「齧られた気持ちがある側」という言葉。
佐伯先生の、「お前を盾にして楽をしている大人には、させたくない」という声。
アーカイブのコメント欄に残された、名前も顔も知らない誰かの一行。
#ここでのことばに救われてる
それらが全部、指先を前に押したり、後ろに引き戻したりする。
教室の時計が、また一秒進む。
ファンの回転音が、低く一定のリズムで続いている。
窓の外で、ボールがコンクリートに当たる鈍い音が響いた。
僕は、肺の奥まで空気をゆっくり流し込む。
――押すか、押さないか。
吸うか、吐くか。
世界中の時間が、この一瞬だけ、僕の指先に引っかかっているみたいだ。
チャンネル停止ボタンにかかった指は、まだ、ほんのわずかな力をためたまま動かない。
クリック音は、落ちてこない。
その一呼吸分の長さだけ、
“守るための沈黙”と“逃げるための沈黙”の境目に、僕は立ち尽くしていた。
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