時勢の流れ
「すまない、話の腰を折っちまった。やっぱり俺としても、噂とやらは気になるな」
登は、飾り気のない土壁に視線を流しやりながら、低く呟いた。
大島も小さく唸って腕を組み、「そうですよね」と苦い声を上げる。
「あれだけのお人でしたから、元幕軍の誰かしらが希望を交えて漏らした言葉に、尾ひれ背びれがついたのでしょうか」
「どうかな。そう見せかけて、新選組を恨みに思う誰かが、鉄之助のように話を信じて動き出す奴らを誘き出そうとしてるのかもしれない」
登は唇を噛む代わり、指の節を当ててぐっとそれを押さえた。噛むよりもずっとぢりぢりと熱を帯びた痛みが続き、ともすれば沸騰しそうになる思考を繋ぎ止める。
「登さん。まさか調べに出るだなどと、おっしゃいませんよね?」
大島が、その大きな体躯に似合わない、妙に頼りなげで掻い付くような声を出す。
「あっはは、何だい。安心してくれよ、トラさんにこれ以上の迷惑はかけないさ」
大島は何かを言いかけて、しかし躊躇うように口をつぐんで目を伏せた。
心配してくれているのが否応なく伝わり、喉元が羽先に触れたようにくすぐったくなる。
「今は、何もしないよ」
「今は、ですか」
気遣い探るような大島の声と目線に、登はゆったり見せつけるようにうなずき返す。
「鉄之助の話じゃ、噂は今のところ東京にだけ出回っているようだ。土方さんが死んだ蝦夷でも、慶喜公のおわす静岡でもない、東京で」
「確かに、それも妙な話ですよね」
「明治政府も何だかんだと手は打っているが、結局まだ世の中落ち着かないまんまさ。落ち着かない世情で事実と異なる噂が蔓延るのも、幕末の頃と何も変わらない」
登はかつてを懐かしく思いながら、ふっと遠くを見るように目を細めた。
当時、登は新選組の間諜としてあらゆる市井に、そして時には敵方の浪士の集まりにすら潜り込み、多くの人を騙し騙され、口八丁手八丁に情報を集めていた。
その折にも、地域地域で
それらの経験を踏まえれば、危ういのは、似た噂が日の本の国々全体に波及した時だ。
例えば。あれは大政奉還が成される前、幕府軍が二度目の長州征伐に失敗した後のこと。当時の将軍であった家茂公の逝去など、失敗の原因は様々あるが、幕府軍が撤退した直後から、全国で幕府の権威失墜が噂されるようになったのだ。
元々、倒幕や討幕を狙う輩の間では、幕府の権威など既に知れたものでしかなかった。が、市井は常に違っていた。二百余年続いた幕府の安泰を疑う者などいないのが当たり前で、物騒な世の中だと憂える心はあれど、それが幕府失墜に直結するとは考えもしない。
それが、第二次長州征伐の失敗後、武士や浪士の間どころか、市井の噂においても幕府の安泰が危ぶまれるようになっていった。事実、崩れるように幕府が力を失くしていったのもその辺りからで、中にはこれを慶喜公の責任とうそぶく者もいた。
しかし諸国で民草の様子を眺めていた登から言わせれば、あれはもう、将軍一人でどうこうできる『流れ』ではなかったのだ。
だから、今回も。
「俺が動くとすれば、今は東京にしかない馬鹿な噂が、こっちにまで届いた時かなぁ」
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