第三話:無気力な日常と過保護な幼馴染
けたたましい警告音と嘲笑の渦に巻かれた『適性の儀』から一夜。
「悠真、朝です。起きてください」
凛とした、しかし有無を言わさぬ響きを持つ声。
悠真は眉間に皺を寄せ、毛布を被る。合鍵の存在をこれほど呪わしく思う朝はない。
声の主――
「……あと五分」
「駄目です。今日から本格的な授業が始まります。遅刻は許されません」
有無を言わさぬ幼馴染の言葉に、悠真はのろのろと身を起こした。
少し長めの黒髪は寝癖で跳ね放題。眠たげな藍色の瞳が、すでに完璧に着替えを済ませた氷華の姿を捉える。
雪のように白い肌。月光を溶かし込んだような白銀の髪は、今日も寸分の乱れなく結われている。
その完璧な佇まいは、まるで昨日壇上でAランクのエーテルギアを発現させた令嬢そのままだった。
「制服、きちんと着てください。ネクタイが曲がっています」
「別にいいだろ、これくらい」
「よくありません。白神家の隣人として、そして私の幼馴染として、品位を欠いた格好は認められません」
氷華はごく自然に悠真の懐に踏み込むと、慣れた手つきでネクタイを締め直す。
ふわりと、彼女の髪から柑橘を含んだ爽やかな香りがした。近すぎる距離に、悠真はげんなりとした表情で天を仰ぐ。
これが彼の日常。
六年前、両親を失ってからずっと、隣家に住むこの完璧な幼馴染が、彼の保護者を気取っている。
彼女の行動原理は、善意と、そしておそらくは過剰なまでの責任感で構成されている。
悠真にとっては、ありがたいを通り越して、もはや過干渉の域だ。
(論理的に考えて、他人の家の合鍵を無断で使い、寝室にまで踏み込むのはプライバシーの侵害にあたるはずだが……)
そんな悠真の内なる正論は、彼女には決して届かない。
彼女の中では「悠真を守り、正しく導くこと」が絶対の正義であり、そのための手段が問われることはないのだ。
「朝食はできています。早く顔を洗ってきてください」
「……はいはい」
抵抗を諦めた悠真は、のっそりとベッドを降りた。
昨日、規格外のエラーを吐き出し、戦闘力皆無の小鳥――『ピリカ』を相棒として授かった彼の日常は、周囲の喧騒をよそに、驚くほど平穏に、そして面倒くさく始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
兼六学園の一年Aクラス。
そこは、厳しいエーテル検査を潜り抜け、将来を有望視されたエリートたちが集う場所だ。
昨日発現したエーテルギアのランクや性能について、興奮冷めやらぬといった様子で語り合う生徒たちの熱気が教室に満ちている。
「やっぱり白神さんの『
「ああ。それに比べて、あのDランクの鳥はなんだ? なんであんな奴がAクラスに……」
ひそひそと、しかし明確な侮蔑を含んだ声が悠真の耳に届く。
当の本人は、そんな雑音をシャットアウトするように窓の外を眺め、ただ早くこの時間が過ぎ去ることだけを願っていた。
彼の隣では、氷華が氷の視線で囁き声の主を睨みつけ、教室の温度を数度下げている。
「ねーねー、君が噂の典堂くんだっけ?」
不意に、快活な声が背後からかけられた。
振り返ると、燃えるような朱い髪をツインテールにした少女が、好奇心に満ちた大きな瞳で悠真を覗き込んでいた。
彼女もまた、Bランクの二丁拳銃型エーテルギア『ツインバレット』を発現させた実力者だ。
「昨日のアレ、マジウケた! ピリカだっけ? ちょっと見せてよ!」
「……別に、見せるようなものじゃない」
「いいじゃん、減るもんじゃないしー」
馴れ馴れしく肩を叩いてくる朱音に、悠真がどう対応すべきか考えていると、すっと氷華が二人の間に割り込んだ。
「三条さん。彼に不用意に近づくのはやめていただけますか」
「えー、なんでよ。白神さんってば、彼の保護者気取り?」
「保護者ではありません。幼馴染です。彼に何かあれば、私が責任を取ります。それだけのことです」
淡々と、しかし絶対零度の声で言い放つ氷華に、さすがの朱音も「へーへー、そりゃどうも」と肩をすくめる。
女同士の間に、早くもバチバチと見えない火花が散っている。
悠真は大きくため息をついた。
(勘弁してくれ……)
その時、教室の扉が荒々しく開け放たれた。
入ってきたのは、屈強な体躯を持つ一人の男。
鋭い眼光、短く刈り揃えられた髪、その身に纏う空気は、教師というよりは歴戦の兵士のそれだった。
「――静かにしろ、雛鳥ども」
地を這うような低い声が響いた瞬間、教室の喧騒が嘘のように静まり返る。
一年Aクラス担任、
かつて金沢領防衛部隊の最前線で戦い、その名を轟かせた歴戦の勇士である。
「俺のクラスへようこそ。だが、勘違いするな。ここは学び舎であると同時に、貴様らを兵士へと作り変える工場だ。そして俺は、貴様らを指導する教官だ」
響は教室全体を
その視線は厳しく、一切の甘えを許さない。
「昨日、貴様らは『エーテルギア』という力を手に入れた。AランクだのDランクだのと浮かれているようだが、そんなものは初期数値に過ぎん。戦場で最後に立っている者が強者だ。それ以外は全て弱者であり、死体だ」
厳しい言葉に、生徒たちの顔に緊張が走る。
「ここではチームワークこそが全てだ。個人の力など、メタキメラの大群の前では無意味だと思え。足を引っ張る者は、仲間を見殺しにする裏切り者と同義だ」
そう言った響の視線が、一瞬だけ悠真を捉えた。
「特に、典堂悠真」
「……はい」
「貴様の『ピリカ』……。パラメータは拝見した。攻撃力F、防御力F。ハッキリ言って、紙屑同然だ。戦場に出れば一秒でミンチだろうな」
辛辣な言葉に、教室のあちこちからくすくすという笑い声が漏れる。
氷華が抗議の声を上げようと息を呑むが、響はそれを手で制した。
「だが、お前はここにいる。このAクラスにだ。それはなぜか、考えたことがあるか?」
「……いえ」
「学園のシステムが、お前の持つ『何か』を評価したからだ。速度SSS、エーテル容量S……その歪なパラメータに、凡人には計り知れない可能性があると判断したからに他ならん。その意味を、貴様自身が証明しろ。できなければ――」
響はそこで言葉を切り、再びクラス全体を見渡した。
「――お前たちは、ただの餌だ。いいな!」
「「「はい!」」」
生徒たちの張りのある返事が、緊張感に満ちた教室に響き渡った。
そんな中、悠真だけは気のない返事をしながら、思考の海に沈んでいた。
響の言葉は論理的で、正しい。
自分のエーテルギアが直接的な戦闘において無価値であることなど、誰よりも本人が理解している。
だが、彼の心を占めていたのは、そんなことではなかった。
(システムの矛盾点……)
なぜ、戦闘能力のないギアが、これほど極端な索敵・補助系の能力を持つのか。
なぜ、学園のデータベースにすら登録がないのか。
それはまるで、この世界という巨大なシステムに、イレギュラーなバグとして放り込まれたかのようだった。
◇ ◇ ◇
「ちっ、気に食わねえ野郎だ」
休み時間、悠真の席にわざとぶつけてきたのは、巨大な斧型のエーテルギアを発現させた大柄な少年、
その隣では、クールな雰囲気の
過保護な幼馴染、馴れ馴れしいクラスメイト、粗暴な同級生、そして歴戦の教官。
個性的、と言えば聞こえはいいが、悠真にとってはただただ面倒な人間関係の奔流だ。
(早く、帰りたい……)
昨日までの無気力な日常は、確かに終わりを告げる。
規格外の少年が足を踏み入れたのは、非日常と非論理が渦巻く、新たな日常の始まりだった。
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