「亡骸に誓いを、生者に絶望を」(3)
この呪われた闇の森から生きて逃れるなど、正気の沙汰ではない。 ましてや、亡霊のように纏わりつく濃霧が、すべての方向感覚を封鎖しているのだから。
追っ手を撒いたと安堵した瞬間、振り返れば、またしても前方に揺らめく松明の列が突如として現れる。
「あそこだ……あそこにいるぞ!」
「ヒヒヒ、逃がさないよぉ……」
「くそっ!」
エドは歯噛みし、半昏睡状態のミューサを担ぎ直すと、強引に進路を変え、反対側の藪へと飛び込んだ。
(どういうことだ……まるで同じ場所を回っているような……)
その思考が過ぎった瞬間、エドの倉皇とした足取りが、ピタリと止まった。 彼は激しく喘ぎながら、暗赤色の瞳孔を暗闇の中で急速に収縮させ、鋭く周囲を観察する。
(待てよ……今まで起きたこと、すべてがどこか過剰だ)
猛然と顔を上げる。 空は漆黒の墨のよう。惨白な月は分厚い汚れを塗られたようで、光を通さない。 周囲に漂う濃霧は、まるで冷たい死に装束のように森を外界から隔絶し、氷の洞窟にいるような死寂と森閑さが支配している。
背後の足音は密集し、星屑のように展開した松明の光が、嗜虐的な笑い声と共に四方八方から包囲網を狭めてくる。
エドは目を細め、徐々に鮮明になっていく人影の群れを静かに見据えた。
(……ふん)
(俺たちの小さな村に、これほどの人数がいるものか)
彼は深く息を吸い、ゆっくりと瞼を閉じた。 雑念を排する。 五月蠅い火光と騒音を遮断する。
「しっかり掴まってて、師匠」
彼は低く呟き、ミューサの分厚い腰を強く抱きしめた。 そして、目を閉じたまま、最も人が密集し、最も喧しい音がする方向へ―― 迷わず一直線に走り出した!
一切の迷いはない。 耳元で枝が折れる音がしても、ミューサが驚きの声を上げても、エドは一度たりとも目を開けなかった。 その足取りは、かつてないほど果断で、揺るぎない。
一歩、二歩、三歩。 周囲の寒々しく、粘り気のある、悪意に満ちた空気が、引き潮のように急速に消え失せていく。
あの窒息しそうな圧迫感が完全に消えるまで走り続け、エドはようやく足を緩めた。
「はぁ……はぁ……」
激しく呼吸しながら、ゆっくりと瞼を開く。
目に映ったのは、あの漆黒で奇怪な森ではなかった。 頭上には清冽に輝く星空、足元には柔らかな草地、空気には夜特有の涼しさが満ちている。
(ここは……)
この場所に、エドは見覚えがありすぎた。 ここは村の裏手にある小高い丘。記憶の中で、毎日師匠と共に汗を流し、武芸を磨いた場所だ。
エドの表情に複雑な寂寥がよぎったが、彼はすぐに感情を抑え込み、急いでミューサを馴染みのある老いたオークの樹の下へ運んだ。
「おじさん、ちょっと我慢して」
ミューサの腹部、未だに血が湧き出し続ける傷口を見て、エドの手が震える。彼は素早く上着を脱ぎ、布状に裂くと、止血を試みる。
「無駄だ……エド……」 ミューサは苦痛に息を吸い込み、その粗野な大きな手で、忙しなく動くエドの手をそっと押さえた。 その声は、風前の灯火のように弱々しい。
「もう感覚がない……脳味噌が痺れてきやがった……たぶん、もう持たねぇ……」
「今は喋らないで……」
エドは乱暴にミューサの手を払い除け、頑なに包帯を巻き続けた。
「ハハ……馬鹿野郎、少しは……喋らせろよ」
ミューサは力なく幹に寄りかかった。剛毅だったその顔は今や紙のように白い。彼は重い頭を持ち上げ、皎潔な明月を見上げた。
「実はな……奇妙な感覚があるんだ」
「俺は本来……ここにいるはずがない……なのに、確かにここにいる」
「臨終の幻覚でも見え始めたのかよ、おっさん」 エドは唇を噛み締め、その声には泣き音が混じる。
「変なことばっかり言ってないでよ」
「いや……本気で……そう思うんだ」ミューサの瞳孔が拡散し始めるが、口元にはどこか憑き物が落ちたような笑みが浮かんでいる。
「みんなが生きてるのを見て、前の災難はただの悪夢だったんだと思ったが……どうやら、まだ夢は醒めてねぇみたいだな……」
呼吸が急激に荒くなり、胸板が激しく上下する。肺から雑音が漏れる。
「馬鹿おっさん! しっかりしろ!」エドは焦り、傷口を死に物狂いで押さえるが、生命の流出は止まらない。
パシッ!
不意に、ミューサの血染めの右手が、回光返照の力でエドの手首を強く握りしめた。
「よく聞け、エド!」
「今の状況はさっぱりわからん。お前が本物のエドなのか、俺が死ぬ前に見てる幻なのかも知らん……」
「だが……またお前に会えて、お前が生きてるのを見れて……おじさんは、本当に嬉しいぞ!」
「!?」
エドは戸惑い、ミューサを見つめた。次第に焦点を失っていくその瞳を凝視し、そこに「真実」の答えを探そうとする。
「お前……本当に強くなったなぁ……想像以上だ……」
ミューサの声が小さくなっていく。名残惜しそうに。
「だが……お前の剣は、あまりに多くの憎しみと……血を吸いすぎた……ゴホッ……」
「そんなの関係ない! 復讐できるなら……」
「駄目だ……剣の意味は、お前の本質そのものなんだ」
ミューサは彼の言葉を遮った。その眼差しは、自分の子供を見るように慈愛に満ちていた。
「人が成長する過程で、苦痛は付き物だ。だが……その苦痛に執着すれば、最後に自分を滅ぼすのは、敵じゃなく、お前自身になる」
「師匠、あんた……」
涙がついに決壊し、大粒の雫がミウサの胸元に落ちる。
「師匠なの?……本当に、俺の知ってる師匠なのか!?」
「はは……馬鹿な奴だ……」
ミューサは重そうに手を上げ、いつものようにエドの頭を撫でようとしたが、その手は空中で力なく垂れ下がった。
「お前がまだ、完全にその苦しみに飲み込まれていなくて、本当によかった……」
「忘れるな……お前は賢い子だ。そして、優しい子だ……」
「しっかり生きろ……痛みに立ち向かう勇気を失うな……そして忘れるな……お前の、その……優しい……心を……」
最後の一言と共に、張り詰めていた体が、重荷を下ろしたように脱力した。 エドの手首を握っていた右手が滑り落ち、落ち葉の上に重く落ちる。
「師匠……? ミューサ師匠!!!」
エドはミューサの体に覆い被さり、冷たくなっていく胸板に頬を押し付け、張り裂けんばかりの慟哭を上げた。
記憶の堰が完全に切れた。
復讐のため、彼は人間性を捨て、獣のように森で殺し合いをした。尊厳を捨て、犬のように貴族の女たちの足元で尾を振り、機嫌を伺った。
ルグナーを殺し、復讐は果たした。だが得られたのは、底知れぬ空虚だけだった。
師匠の言う通り、その過程で、彼は自分自身を見失っていたのだ。
師匠と再会したこの瞬間。 これが現実か夢かは未だ判然としない。
だが彼は知った。本物のミューサだけが、父親のようなあの男だけが、本当の自分を取り戻す方法を教えてくれるのだと。
地獄のような闇の中にいても、ミューサは最後の命を燃やし、彼の中の陰りを払おうとしてくれた。
「……ありがとう、師匠」
どれくらい経っただろうか。 エドはゆっくりと体を起こした。涙を拭い、自分のボロボロの上着をミューサにかけてやり、その半開きの瞼をそっと閉じた。 彼は一歩下がると、亡骸に向かって、深く一礼した。
立ち上がり、地面の二振りの刃物を手に取る。 振り返った瞬間、泣きじゃくっていた子供の姿は消えていた。 そこにいるのは、鋼鉄のごとき意志を宿した戦士の瞳。
……
ヒュッ――!
背後から、何の前触れもなく鋭い風切り音が迫る。
エドは右手の鉈を強く握り締め、腰を捻り、全身のバネを使って、背後へ向けて全力の一撃を解き放つ――。
ガキン!!!
刃と刃が重く激突し、眩い火花を散らす。
「ほぉ~」 背後から、聞き覚えのある、けれど反吐が出るほど不快な声がした。
「防ぐとはねぇ……やっぱり腕を上げたな、可愛い弟子よ」
エドは冷ややかに視線を上げた。 そこに立っていたのは、鋭利な剣を構えた、五体満足の“ミューサ”だった。 奴は首を傾げ、邪気と悪意に満ちた、人好きのする笑みを浮かべている。
「本物のミューサ師匠はどこだ!?」
「あの人に……何をした!!!」
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本作の世界観において、「長剣」はいわゆる西洋のブロードソードのような「叩き切る武器」ではなく、東洋の武術に見られる「しなやかな両刃の直剣」をイメージしています。
この武器は、戦場で兵士が使う槍や銃火器とは異なり、**「極めて高い技術を持つ達人同士の決闘用」として扱われています。 身軽さ、点穴(急所突き)、そして相手の力を受け流す「柔」の技術。 それらを極めた者だけが扱える、一種の「強者の証明」**としての武器です。
第二話~第四話で、小柄なエドが農具(鉈)を使って、この「達人の剣」にいかに立ち向かったのか。その「泥臭い工夫」と「技術の差」の対比を楽しんでいただければ幸いです。
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