「亡骸に誓いを、生者に絶望を」(1)
ヒュッ――!
鋭利な風切り音が、崩壊寸前だったエドの意識を現実に引き戻した。
ガギィン!!!
暗闇に火花が散る。 どこからともなく飛来した石礫が、恐るべき運動エネルギーを伴って、凶器である包丁を正確に弾き飛ばしたのだ。
「あぐっ!」
凄まじい衝撃にハナの手が痺れ、悲鳴と共に包丁が回転しながら闇の奥へと消えていく。
普段のエドなら、呆気にとられていただろう。だが今、極限状態で研ぎ澄まされた野生の本能が、その一瞬の隙を見逃さなかった。 脚の筋肉が爆発し、猛然と後方へ跳躍。一瞬にして数メートルの距離を引き離した。
(……あれは?)
荒い息を吐きながら、地面に転がる血染めの石を凝視する。思考が追いつくよりも早く――。
「馬鹿弟子が! 何を呆けてやがる!」
野太く、しゃがれた、苦痛を押し殺したような声。だが、魂が震えるほど聞き覚えのある声。 間違いない。
闇の樹陰から、巨躯が重く、足を引きずるようにして現れた。 刃こぼれした長剣を提げ、一歩進むごとに、地面に生々しい血の跡を刻み込んでいく。
「……師匠?!」
エドの目に狂喜が宿り、本能的に駆け寄ろうとする。 だが、その姿をはっきりと捉えた瞬間、足が凍りついた。
それはまるで……ミンチ製造機から這い出してきたかのような惨状だった。 ミューサは全身血まみれで、左手で腹部を死ぬほど強く押さえている――そこは何かの鈍器で貫かれたらしく、指の隙間から堰を切ったように鮮血が溢れ出し、足元の土を赤く染めていた。
「こいつらは……ただの村人じゃ……ぐぁっ!」
ミューサは力を使い果たしたように体が大きく揺らぎ、ドサッ、と片膝を地面についた。
「師匠!!!」
エドは恐怖も忘れ、矢のように飛び出し、その小さな肩でミウサの倒れそうな体を支えた。 手に伝わる感触はヌルヌルと生温かく、すべてが血だった。
「どうして……こんな酷い怪我を?」
「おぉ~」
霧の中から低い唸り声が響く。直立不動だった“村人”たちが、血の匂いを嗅ぎつけたハエのように、四方八方から群がってくる。
おぞましいのは、その一枚一枚の、徹底的に死に絶えた顔だ。
怒りもなく、喜びもない。 かつて見知った顔は、今や生気のない人皮の仮面そのもの。 彼らは死水のように虚ろな瞳で、無表情に、瞬き一つせず、師弟を凝視している。
しかし、その極限まで麻痺した表情とは裏腹に、彼らの口から吐き出されるのは、骨の髄まで凍りつくような悪毒な言葉だった。
「往生際が悪いなぁ。手足を杭に打ち付けられたのに、まだ抜け出してくるなんて」
「やっぱり先に手足を切り落としておくべきだったよ、イヒヒ――アハハハハハ!」
「そうすれば、蛇みたいに腹を地面に擦り付けて、必死に這いずり回ってこのガキを助けに来ただろうにさぁ? イヒヒヒ……想像するだけで傑作だねぇ~」
村人たちは興奮気味に議論している。 その口調はまるで、捕まえたばかりの野ウサギをどう調理するか相談しているかのように軽かった。
「……貴様らァ……ッ!」
そのあまりに残虐な言葉が、焼けた鉄串のようにエドの脳を貫いた。
バキキッ。
拳を握りしめすぎて、指の関節が乾いた悲鳴を上げる。
ギギ、ギリリ……。
奥歯が砕け散るほど噛み締め、口の中に鉄錆びた血の味が広がる。
エドはうつむいた。 瞳から驚愕と狼狽が急速に引き潮のように消え失せ、代わって死寂に満ちた冷たさが満ちる。 澄んでいた鳶色の瞳が、ゆっくりと、凝固した血液のような暗い赤へと染まっていく。
恍惚とする中、血に浸された記憶の断片が、電流のように脳裏を刺し貫いた。
薄暗い背景。杭にきつく縛り付けられたミューサ。 その前に佇む、処刑場には不釣り合いなほど優雅な礼服を纏った貴族の少年。
少年の手にある細剣が、まるで指揮棒のように優雅に舞う――。 突き、抉り、引き抜く。
ミューサの押し殺した悲鳴に、少年の澄んだ愉悦の狂笑が混じる。
他人の命を踏み躙ることを楽しむその笑顔が…… なんと、目の前の無表情で、けれど悪意を吐き散らす怪物たちと、驚くほど鮮明に重なった。
(許さない……)
(絶対に……許さない!)
「逃げろ、エド……」
ミューサは弟子の異変に気づいていない。血塗れの手でエドを突き飛ばし、立ち上がろうともがく。
「ここは俺が食い止める。お前はその隙に、早く――」
バシッ!
ミューサの手が振り払われた。 言葉が終わるより早く、エドは彼の手から長剣をひったくっていた。
「……?!」
ミューサは驚愕して顔を上げた。 そこに見えたのは、今まで一度も見たことのない、凄絶な殺意を纏った背中だった。
エドは振り返らない。 身の丈に合わぬ重い長剣を両手で握り締め、切っ先を引きずり、耳障りな摩擦音を立てる。 次の瞬間、彼は放たれた砲弾のように、満身の憎悪と狂気を乗せて、嘲笑う怪物たちの群れへと突っ込んだ!
「エド!!! 何をする気だ――!!!」
風切り音。 そして、刃が肉を断つ、重く鈍い音。
ほんの一瞬。 エドの姿は漆黒の亡霊のように、人混みの隙間を疾走する。 長剣が振るわれるたび、亡者の慟哭のごとき風切り音が響き、銀閃が走るたび、怪物の首筋から鮮血のラインが噴き上がる。
数十秒も経たぬうちに。 師弟を囲んでいた数十体の怪物は、背骨を抜かれたかのように、次々と泥人形のように崩れ落ちた。
ブンッ――!
エドは手首を返し、長剣で鋭い半円を描いて、刀身についた残血をすべて払い落とす。 暗い火明かりの下、死屍累々の中に佇む小さな影。 これほど凄惨な殺戮を経てもなお、その体には返り血の一滴すら付着していない。
彼は長剣を引きずりながら、死体の山を縫うように歩く。暗赤色の双眸が足元を冷徹に一瞥し、生き残りがいないかを確認する。
だが。 視線がある「死体」に止まった瞬間、瞳孔が極限まで収縮した。
!!!
(どういうことだ!?)
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