「狂気(リアル)は霧の彼方に、手の中にあるはずの刃」(3)
どれくらい走っただろうか。 呼吸をするたび、喉の奥が紙やすりで削られたように痛み、口の中に鉄錆びた血の味が広がる。
恐怖という名の見えない鞭が、絶え間なく神経を打ち据えていた。 鉛を詰め込まれたように重い足を、無理やり前へと引きずらせる――。 逃げろ。早く。もっと遠くへ。
だが、限界は唐突に訪れた。 もつれた足が悲鳴を上げ、エドはドサッ、と無様に地面へ膝をついた。
「はぁ……はぁ……」
滴る冷や汗が目に染みる。刺すような痛みに顔を上げ、彼はようやく理解した。 ――ここはもう、彼の知る村ではない。
さっきまで眩しい朝の光に満ちていたはずなのに、空は今、凝固した血塊のような、どす黒い黄昏色に塗り潰されている。
さらに異様なのは、どこからともなく湧き出し、世界を浸食する灰色の濃霧だ。 それはまるで意思を持つ生き物のように、音もなく木々や道を貪り食い、エドの知る「日常」の全てを混沌の中へと埋葬していく。
「……どうして……」
「ここは……一体どこなんだ……?」
巨大な恐怖が胸を塞ぎ、窒息しそうになる。
「おい――? そこにいるのは誰だ!?」
沈着で、太く、それでいて酷く聞き覚えのある声が、唐突に濃霧を突き抜けてきた。
「……その声、エドの坊主か?」
声を聞いた瞬間、エドの華奢な体がビクリと跳ねた。
彼は猛然と振り返り、声のした方向を油断なく睨みつける。 右手はキッチンから持ち出した包丁を白くなるほど強く握り締め、胸の前に構えて、追い詰められた獣のような防御姿勢をとった。
霧の奥で、ボッ、と光が灯る。
一つ、二つ……数十もの薄暗い松明の明かりが、彷徨う鬼火のように揺らめき浮かぶ。
ザッ、ザッ、という雑然とした足音と共に、人影の群れが霧を払い、その正体を現した。
「マ、マルクおじさん……?」
先頭に立っていたのは、松明を掲げた、人の好さそうな中年男だった。
「おぉ! やっぱりエドの坊主じゃないか!」
マルクと呼ばれた男はエドの姿を認めると、長く安堵の息を吐き、強張っていた顔のシワを一瞬で緩めた。
「まったく、こんな村外れまで一人で何しに来たんだ?」
「タリアちゃんがお前がいなくなったって、泣きそうな顔で探してたんだぞ! こんな夜更けに、村中の人間に頼み込んでお前を探してたんだ。見ろよこの霧、転んで怪我でもしたらどうするつもりだ?」
マルクだけではない。 彼の後ろに続く、松明を持った人影――野菜売りのメイおばさん、鍛冶屋のバル……全員、エドがよく知る村人たちだ。 誰もが、真摯で、焦りと心配に満ちた表情を浮かべている。
「ぼ、僕……は……」
エドは無意識に半歩後ずさった。 目の前の「生きた」、あまりに人間臭い村人たちを見て、恐怖で混乱していた思考がショートし、真っ白になる。
現実と記憶が、正面から激突した。 あまりに荒唐無稽な考えが、抑えきれずに湧き上がる。
(まさか……)
(さっきの出来事は……ハナが怪物になったのも、僕が殺したのも、全部、幻覚だったのか?)
「ち、違う……そんな……」
彼は慌てて視線を落とし、自分の両手を見た。 記憶の中では、そこは生温かい粘着質の鮮血で塗れているはずだった。ハナを狂ったように滅多刺しにした時に残った、決して洗い流せない罪の証。 あのヌルヌルとした不快な感触が、さっきまで確かに皮膚に残っていたのに。
だが。
そこには……何もなかった。 おぞましい血の汚れもなければ、返り血の一滴すらない。 その両手は清潔で、ただ蒼白く、情けなく震えているだけだった。
まるで、たった今ハナの家で起きた血みどろの死闘が、本当に彼が作り出しただけの、たちの悪い悪夢だったかのように。
「あらあら、この子ったら、呆けちゃって」
いつもエドに飴をくれるメイおばさんが歩み寄り、痛ましげに溜息をついた。
「早く帰りましょう。こんな夜更けに、霧も深くなってるし。もし何かあったら、タリアちゃんが泣いて目を腫らしちゃうわよ」
「聞いたか、悪ガキ! 次はこんな我が儘、許さんからな!」
マルクは問答無用で歩み寄ると、その無骨で分厚い手を伸ばし、エドの冷え切った手首をガシリと掴んだ。
「行くぞ。家に帰るんだ」
その掌は暖かく、力強い。 村人たちに囲まれ、エドは過ちを犯した子供のように、半ば強引に手を引かれていく。 濃霧に覆われた、慣れ親しんだ……けれど決定的に何かが違う、あの村へ向かって。
◇◆◇
歩き出して間もなく、言葉にできない悪寒がエドの背筋を這い上がった。
おかしい。 周りの様子が……決定的におかしい!
マルクおじさんたちが掲げる松明は、確かに燃えているはずだ。 なのに、そのオレンジ色の光の輪が、まるで生き物のような闇に一口、また一口と貪り食われていく。
視界が、目に見える速度で塗り潰されていく。 さっきまで鮮明だった村人たちの顔が、濃密な影の中に沈み込み、輪郭がぼやけ、歪み――まるで、熱で溶け出した蝋人形のように崩れていく。
バシッ!
エドは手首を掴んでいたマルクの手を、渾身の力で振り払った。 その掌には確かに体温があった。だが、伝わってきたのは、ナメクジの裏側のような、ぬめるような生理的嫌悪感だけだった。
「……演技はもういい」
エドは足を止めた。正気を取り戻した瞳に、氷のような警戒心が宿る。
「お前たち……一体何が狙いだ!!!」
マルクの影が止まった。 ギギ、と首が回る。 風前の灯火の下、彼は温厚な笑みを浮かべていた。ただその双眸は、ガラス玉のように光がなく、死んでいた。
「おやおや……何を言ってるんだい、エド? 決まってるだろう……『家』に……帰るんだよ……」
「家?」
エドは冷笑し、ジリジリと足を滑らせて距離を取る。
「あいにくだけど、あんたたちが言う『家』と、俺が思ってる場所は、だいぶ違うみたいだ!」
ザシュッ!
背中に隠していた包丁を一息に抜き放ち、胸前に構える。 冷たい切っ先が、かつて親愛を抱いていた「家族」たちへと向けられる。
「正体を現せ! 本物のマルクおじさんやメイおばさんを……どこへやった!?」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ、エドちゃん」
人垣の中から、メイおばさんが人好きのする笑顔を浮かべて、滲み出るように近づいてくる。 その笑顔は、顔面に直接絵の具で描いたように、不自然に固定されていた。
「私たちは……ここにいるじゃないか」
「そうだよ、みんなここにいるよ……」
「どうしたんだい、エド……?」
群衆がざわめき始めた。 無数の聞き慣れた声が重なり合い、吐き気を催すほどの「善意」を孕んで、彼を取り囲んでいく。
「……ッ」
エドの唇が痙攣し、稚拙な頬を冷や汗が伝う。
理性が叫ぶ。殺して逃げろ、と。 彼の実力があれば、心を鬼にして、ただの「村人」たちを排除することなど造作もない。
だが……。
目の前にあるのは、彼を見守り続けてきた、見慣れた顔ばかりだ。 何より――つい先ほど、彼はハナの家で、取り返しのつかない「過ち」を犯してしまったばかりなのだ。
(もし……今回も僕の間違いだったら?)
(もし本当に、本物のマルクおじさんたちだとしたら……僕は……)
重い罪悪感が鎖となって手足を縛り、その一撃を躊躇わせる。 これは現実か、それとも悪夢か? 賭ける勇気が、彼にはなかった。
包囲網が狭まるのを見て、エドは無様に後退することしかできない。
トン。
背中が突然、柔らかく、小柄な物体にぶつかった。
「!!!」
エドは弾かれたように横へ飛び退いた。微かな余光を頼りに、背後に立っていた黒い影を見る。
「な……どうして……」
驚愕に息が止まる。瞳孔が極限まで収縮した。 包丁を握る手が、制御不能なほど激しく震え出す。
「エ……ド……お……兄……ちゃん……」
華奢な体が闇の中で揺らめいている。 途切れ途切れの、金切り声のようなその声は、錆びた鉄板を爪で強く引っ掻く音に似て、聞く者の神経を逆撫でした。
「ハナは……なにも……してないよ……」
「どう……して……あんな酷いこと……するの……」
彼女は重い足取りで、一歩、また一歩と、エドに迫る。
近づくにつれ、清潔だった服から、どす黒い赤色のしみが滲み出していく。 愛らしいその顔に、音もなく鮮紅の亀裂が走り、皮膚がめくれ、血がゆっくりと流れ落ちる。
「来るな! こっちに来るな!!!」
精神の防壁が、ガラガラと音を立てて崩れ去った。 エドは滅茶苦茶に包丁を振り回し、迫り来る悪夢を威嚇する。
「離れろ! あっちへ行け!!!」
誰も彼の警告になど耳を貸さない。 村人たちは微笑みながら、ハナは泣きながら、一歩ずつ彼を死角へと追い詰めていく。
(……もう、だめだ)
(ごめんなさい……みんな……)
絶望の中、エドは苦痛に目を閉じ、瞼の裏から涙を一滴絞り出した。 生き残るために、彼は最も残酷な決断を下すしかなかった――。 血路を切り開く。
真偽の区別がつかないなら、全てを断ち切るしかない!
彼は慣れた手つきで包丁を逆手に持ち替え、突撃の構えをとった。 深く息を吸い込み、正面に立つマルクの腹部めがけて、猛然と突き出した!
「はああぁぁっ――!!!」
全力を込めたこの一撃は、本来なら、刃が肉を穿つ鈍い音と手応えを伴うはずだった。
ポスッ。
手に伝わってきたのは、あまりに頼りない、ふにゃりとした感触だけ。 それは彼の小さな拳が、力なくマルクの腹に当たった音だった。
「……え?」
エドはカッと目を見開き、呆然と自分の右手を見た。
何もない。 鋭利な刃を持ち、唯一の安心感を与えてくれるはずの包丁が。 まるで最初から存在しなかったかのように、空気の中に溶けて消えていた。
(包丁……?)
(な……どういうことだ!? 僕の包丁はどこだ!!!?)
巨大なパニックが一瞬にして理性を飲み込む。 武器を失った彼は、ただの無力な子供でしかなかった。
「ヒ……ヒ……ヒ……」
身の毛もよだつような、悪意に満ちた忍び笑いが、耳元で響いた。
エドはぎぎぎ、と錆びついた機械のように首を巡らせた。
そこには、血まみれのハナが、首を傾げて彼を見つめていた。 その血に濡れた小さな手には、本来エドの手にあるはずの……鋭い包丁が握られている。
「エドお兄ちゃん……」
崩れて血を流すその顔に、天真爛漫で、けれど残酷極まりない笑みが浮かんだ。
「今度は……ハナが殺してあげるね!」
思考が白く染まる。 避けることも、逃げることも忘れて、棒立ちになるしかなかった。 ただ、見慣れたはずのその包丁が、死の予感を纏って、自分に向かって激しく振り下ろされるのを、スローモーションのように見ていた。
「ヒヒヒ――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます