第39話 検印の癖

 海津の夜は短く、明け方は容赦がない。川霧が土塀の向こうから押し寄せ、番の吐く息が白くほどける頃、義信はすでに詰所の一角に灯をともしていた。


 松代で捕らえた書き手は、別室に置かれている。縄は掛けてあるが、きつくはしない。水と粥を与え、殴らせない。痛めつければ口は硬くなる。硬くなった口は、背の糸を切ったまま黙り込む。


 障子の向こうで、男の咳が一つ聞こえた。夜を越えた咳だ。疲れが腹へ落ち、意地が薄れる刻でもある。


「入れ」


 義信が言うと、番が男を連れてきた。男は膝をつき、深く頭を下げる。書き手の癖で、頭の下げ方まで角が揃っている。


「名を言え」


「……某は、松代の文書方、惣右衛門にございます」


「惣右衛門。昨日は“蔵奉行筋”と言ったな」


 男の肩が震える。義信は声を荒げず、淡々と続けた。


「名はいま要らぬと言った。だが今日は要る。お前の口が閉じれば、札が出た善光寺が疑われる。疑われれば寺が割れ、門前が荒れる。荒れれば米が乱れ、火薬が動く。お前の一族も守れぬ」


 男は唇を噛みしめた。守るべきものがある者ほど、脅しより理屈が効く。


「……某が文を受け取ったのは、海津ではございませぬ。躑躅ヶ崎の蔵所に出入りする者が、写しを持って参りました」


「誰だ」


「名は……」


「名だ」


 義信の声が、ほんの少しだけ重くなる。男はその重さに押され、やがて吐いた。


「……蔵所の小役人、伊兵衛と申します。帳面を扱う手でございます。封紙を折る癖が、右角を内へ畳む。検印は三つ点。某は、その三つ点の並びで、同じ手と知りました」


 義信は目を伏せ、胸の中に“癖”を刻む。名よりも癖。癖は逃げない。


「伊兵衛が、誰の命で動く」


 男は首を振る。


「それは……某の口からは……」


 勘助が、横から静かに言葉を落とした。


「惣右衛門。口から出ぬなら、足から出せ。伊兵衛は何処で文を渡した。誰と会った。刻は。道は」


 男は、少しだけ目を見開いた。問いが“名”から外れたことに気づいたのだ。名は守れる。だが刻と道は守りにくい。


「……甲府の外れ、米蔵の裏手でございます。夕刻、二度目の鐘の頃。伊兵衛は、藤屋の者と会い、写しを渡しておりました。藤屋は受け取って、松代へ回した」


「藤屋に“箱”を貸し、伊兵衛が“文”を流す」


 義信が確かめると、男は小さく頷く。


「火薬は誰が持つ」


「某は……それは知らぬと申しました……。某は帳だけで……」


「帳だけで国は動く」


 義信は短く言い切った。


「よい。今日はお前を裁かぬ。その代わり、お前の口は海津で預かる。伊兵衛を押さえ、背を見せたら、お前の一族のことも考える」


 男は何度も頭を下げた。そこへ嘘は混じらない。嘘ならもっと整う。崩れた頭の下げ方は、疲れと恐れの証だ。


 義信は勘助へ目配せした。


「罠を張る」


「はい」


「伊兵衛は帳を動かす手だ。帳を餌にする。火薬の包みではなく、米の出入りに“偽りの筋”を一つ混ぜる。混ぜたと知る者を最小にし、動いた手を掴む」


 勘助がうなずく。


「偽りの筋は、どのように」


 義信は机の上の帳面を取り、筆を置いた。


「“海津へ油布十束、乾き藁二俵”――この程度なら普請にも見える。だが、火薬を扱う者には匂いがする。受け取りの印を要る形にし、検印を三つ点ではなく二つ点にする。違いに気づいた者が、直しに来る」


「直しに来れば、手が見える」


「そうだ。直す者は、盗む者と同じ根で動く」


 義信は筆を走らせ、偽りの書付を一通、作った。紙の端を折る。右角を内へ畳まぬ。わざとだ。癖と違える。


「これを、蔵所へ回せ」


「承知いたしました」


 罠は派手である必要がない。むしろ静かであるほど、相手は自然に噛む。


     *


 その日の夕刻。海津の蔵。


 番はいつも通りに立ち、見回りの刻もずらしてある。表向きは、何も変わらない。変わったのは、帳面の一行だけだ。


 蔵の裏口近く、土塀の陰に義信と勘助が潜んだ。草の者が二人、番の交代に紛れて配置につく。縄を持つ者、口を塞ぐ布を持つ者。刃は抜かない。今夜もまた、欲しいのは首ではなく口だ。


 夜が更け、三度目の鐘が鳴る前。蔵所の裏手で、足音がひとつ、ひそひそと寄ってきた。軽い。慣れた足だ。足袋の擦れる音が小さい。


 影が現れる。袴姿、頭巾。番ではない。荷運びでもない。腰に小さな文箱を抱えている。


(来た)


 義信は息を殺した。


 影は蔵の戸に手をかけず、先に帳場へ向かった。帳が先。蔵が後。帳で道を作り、蔵で物を動かす――惣右衛門の言葉通りだ。


 帳場の灯が一瞬だけ揺れる。影が紙を広げ、筆を取った。


 その瞬間、勘助が土塀の陰から声を落とした。


「動くな」


 縄が飛ぶ。影は跳ねたが、逃げ道は“空いているように見える”だけで、草の者がすでに塞いでいた。土を蹴った足が止まり、口が塞がれ、腕がねじられる。灯は倒れない。音も最小。蔵の中の番が気づく前に、すべてが決まる。


 頭巾を剥ぐと、若くはない男が現れた。指先が墨で黒い。爪の隙間にも。


「伊兵衛か」


 義信が問うと、男は目を泳がせた。


「……違う……私は……」


 義信は男の懐から紙を抜き取った。そこに、さきほどの偽りの一行がある。そして、二つ点の検印の上に、三つ点を重ねるように打ち直した跡があった。


「直しに来たな」


 義信の声は冷たいが、怒りではない。


「お前は“偽り”に気づいた。気づける者は、火薬の匂いを知っている。言え。誰の命だ」


 伊兵衛は口を塞がれたまま首を振った。義信は布を外す。ただし、吐きやすいように水を含ませる。喉が乾けば言葉は出ない。


「吐け。吐けば、役目は“直し”で終わる。吐かねば、火薬の罪が乗る」


 伊兵衛の喉が鳴り、やがて、擦れた声が漏れた。


「……某は……命じられただけで……」


「誰に」


「……蔵所の……上でございます……」


「名だ」


 伊兵衛は歯を食いしばった。だが、義信は急がない。急げば口は閉じる。閉じた口は、背を守る盾になる。


 義信は、帳面の端を指でつまみ、伊兵衛の目の前へ出した。


「この折り方。右角を内へ畳む癖は、お前だけの癖ではない。教えた者がいる。教えた者は、ここへ来る」


 伊兵衛の目が揺れた。

 “来る”――それは恐れだ。自分を守るはずの背が、口封じに来る恐れ。


「……来ぬ……来ぬはずだ……」


「来る。背はお前を捨てる。捨てられる前に、お前が背を捨てろ」


 沈黙が落ちた。

 やがて伊兵衛は、折れるように口を開いた。


「……躑躅ヶ崎の……蔵所の……取りまとめ……。名は……言えませぬ……」


「言え」


 義信の声が、ほんの一段だけ低くなる。


 伊兵衛は涙を溜め、吐いた。


「……“蔵の主計”でございます……。帳と印を扱う者……。某らは……その下で……」


 役名だけでも十分だった。名を出せば、家中が割れる。役名なら、まだ“事”として父に上げられる。義信はうなずき、伊兵衛を引かせた。


「生かして預かれ。逃がすな。殴るな」


「はっ」


 勘助が小声で言う。


「義信様、これで“手”は掴みました。されど、背の者をどう致します」


「今夜は踏み込まぬ。踏み込めば、家中が割れる。割れれば、越後が喜ぶ」


 義信は蔵の闇を見据えた。


「まず父上へ“事”として上げる。札、帳、印、直しの跡、口書。これだけ揃えば、言葉ではなく物で示せる」


     *


 数日後。躑躅ヶ崎館。


 奥座敷にて、信玄が座す。内藤昌豊、馬場信春が控え、空気は海津の湿りとは別の冷えを帯びていた。家の中の話は、戦の話よりも刃が立つ。


 義信は深く頭を下げ、言葉を丁寧に整えた。


「海津の蔵より、門前の米の乱れへ繋がる筋を追いました。善光寺の誓札にて門前の火薬売買を禁じ、松代で帳の書き手を押さえ、海津で蔵所の小役人を押さえました」


 義信は証拠の紙を差し出す。

 偽りの一行を直した跡、三つ点の検印、折り癖の違い、伊兵衛の口書。信玄は黙って目を通す。黙りの長さが、重さだ。


「……内の手が動いておる」


 信玄が低く言った。


「はい。ですが、名を騒ぎ立てれば家中が割れます。役名と印の癖までで留め、まずは蔵の仕組みを改め、動けぬ形に致したく存じます」


 内藤が眉を寄せる。


「仕組みを改めるとは」


「出入り帳を三冊にし、照らし合わせを常と致します。鍵も三つに分け、番と書付と城代の三者が揃わねば開かぬ形に。さらに、検印は一つに任せず、刻を分けて替えます」


 馬場が短く頷いた。


「面倒を増やす策だな。面倒は嫌われるが、盗みも嫌う」


 信玄は紙を置き、義信を見た。視線が鋭い。だが、試すだけではない。量る目だ。


「よい。まずは蔵を固めよ。名を挙げるのは、その後だ。内が割れれば、外が入る。外が入れば、国は折れる」


「はっ」


 義信は深く頭を下げた。

 信玄は続ける。


「善光寺の札、よく通した。寺は刃より厄介だが、味方になれば刃より強い。……だが、越後も黙ってはおらぬ」


 その言葉に呼応するように、廊下の外で足音が走った。使者が駆け込み、膝をつく。


「申し上げます! 越後勢、動きあり。北の様子、慌ただしゅうございます!」


 座の空気が一段、締まった。

 戦の匂いがする。紙と印の戦だけでは済まなくなる。


 信玄が短く命じた。


「海津へ戻れ。蔵を固めつつ、野の備えも怠るな。勘助は引き続き、草を回せ」


「承知いたしました」


 義信は頭を下げ、座を退いた。廊下を進む足取りは静かだが、胸の内は速い。内を固めたところで、外が来れば血が流れる。外を退けたところで、内が腐れば国が折れる。


(両方を抱えて進むしかない)


 義信は庭へ出て、冬へ向かう風を一つ吸った。

 善光寺の札は立った。海津の蔵も固まり始めた。松代の帳の癖も掴んだ。だが、越後は待ってはくれない。


 刃の戦と、帳の戦。

 どちらも落とせないまま、川中島の霧が再び濃くなる。


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