第38話 松代の帳

 翌朝――善光寺の山門脇、札掛所に新しい板札が掛けられた。


 「火薬売買堅く停止」

 「米価、寺寄進を基準とし、乱高下これを戒む」


 墨はまだ乾ききっておらず、筆の勢いが残っている。札の前には門前の商人が集まり、表では頭を下げ、裏では歯噛みする者もいた。けれど寺の札は、刀よりも面倒な相手だ。刃なら逃げればよい。札は逃げ先の道そのものを塞ぐ。


 義信は人波の外で、その様子をじっと見ていた。

 鎮まる。必ず鎮まる。だが鎮まり方が肝だ。恨みが濁れば、次の火種になる。


「義信様」


 勘助が小声で寄り、紙を一枚差し出した。近江屋の帳簿の写し――昨夜押さえたものの続きだ。列の整い方、数字の置き方、端に添える印の癖まで、妙に“役”に似ている。


「この帳、商人の手ではございませぬ。蔵の出入りを役所に差し出す書付――その作法にございます」


「門前の外で書かせた手がいる」


「はい。松代の荷問屋と申しておりましたが、問屋だけではこの出来にはなりませぬ。書き手が別におります」


 義信は札掛所の下から視線を外し、門前の裏道へ目をやった。寺の札が掲げられれば、表の火は消える。だが火は消えない。必ず裏へ移る。火を追って裏へ行けば、そこで次の火を踏む。


「松代へ行く」


 義信は短く言った。


「今ですか」


「今だ。札が出た今日、動くのは“逃げたい者”だけになる。逃げる者の足は早い。早い足は、痕が濃い」


 勘助は一礼した。


「海津へ戻り、兵を整えまする。松代へは小勢にて――」


「小勢でよい。騒げば、相手は札の外へ滑る。松代の名が出た以上、先に道を押さえる」


 義信は山門へ向き直り、寺の執事役へ深く礼をした。執事役は、声を落として告げる。


「札は出しました。あとは、武田様の手で“札に背く者”を見せてくだされ」


「見せます。寺の名を汚さぬ形で」


 そう約して、義信は門前を離れた。


     *


 松代は海津から遠くないが、近いからこそ厄介でもある。人と物が行き交い、噂が早い。噂が早い土地ほど、真も偽も同じ足で走る。


 日暮れ前、義信一行は松代の町外れへ入った。

 米俵を積む荷車、麻布を巻いた棒荷、塩俵――それらの動きは平穏に見える。だが、商いの目は鋭い。よそ者の数、馬の毛並み、刀の柄の擦れまで見てくる。


 義信は供回りをさらに散らした。二人を町口、二人を川沿い、残りを問屋筋の裏へ回す。見張りではない。見張りに見えぬように見張る。


 目当ては、昨夜の男が吐いた「荷問屋」。

 名は出ぬ。だが、荷問屋は必ず荷を動かす。荷を動かす者は、動かした痕を残す。


 暮れの鐘が鳴る頃、草の者が戻り、耳打ちした。


「“藤屋”にございます。昼は塩俵を積み、夜は米俵を裏へ回しております。裏口の出入りが、寺札が出てから急に増えました」


 義信は頷いた。


「裏口を見ろ。俵の縄の結び方、俵の刻印、運ぶ者の足。覚えろ。手を出すのはまだだ」


 勘助が一歩進み出た。


「義信様、藤屋の裏に、役所の者が出入りしております。袴の裾が土で擦れている。蔵の中を見ている足でございます」


「役所の者?」


「はい。しかも、松代の役人だけではございませぬ。甲斐の作法を持つ者がおります」


 義信の胸が一段冷えた。

 家の内の影――それが、ただの疑いで終わらぬ形を持ってきた。


(慎まねばならん。ここで名を出せば、噂が刃になる)


 義信は藤屋の表口へは入らず、裏の路地の陰に身を置いた。

 油灯がひとつ揺れ、藤屋の裏口がわずかに開く。出てきたのは荷運びが二人。次いで、袴姿がひとり。頭を深く下げさせ、荷運びに何か短く指図した。


 袴姿の男は、手元の紙を見ている。

 帳面――あの整いすぎた帳簿の“書き手”だ。


 義信は、勘助へ囁いた。


「捕らえる。だが、斬るな。藤屋の者は逃がす。狙いは袴だ」


「承知いたしました」


 路地の口、藤屋の裏口、川沿い――逃げ道は三つ。三つとも塞がれたと思わせぬように、ひとつだけ“空ける”。逃げた者は、空いた道へ走る。走れば追える。追えば背に繋がる。


 袴姿が裏口を出て、路地へ入った瞬間。


「動くな」


 勘助の声が落ちた。低く、短い。

 同時に縄が飛び、男の口が塞がれた。男は暴れたが、荷運びのふりをしていた草の者が両腕を押さえ、土壁へ押し付ける。音は最小。灯は揺れるだけで倒れない。


 藤屋の荷運びが騒ごうとしたが、義信は一歩だけ前に出て、目だけで止めた。声を荒げず、刃も見せない。ただ、逃げ道の暗さだけを見せる。


 荷運びは喉を鳴らし、黙った。


 袴の男は縛られ、路地の陰へ引かれた。

 義信は男の懐から紙を抜き取った。そこには、米俵の数と、符丁の形。さらに、受け取り先として「門前・近江屋」「海津近辺・村役筋」といった記しが並ぶ。その下に、細い筆で一行――


 「此度の札立ち、あらかじめ織り込み済み」


 義信は、その一行を指で押さえた。

 札が出ることを見越していた。つまり、寺札は“打撃”ではあるが“終わり”ではない。むしろ、札を餌にして、別の道へ荷を逃がすつもりだった。


「……誰の差配だ」


 義信が問うと、袴の男は首を振った。口が塞がれているのを外しても、すぐには言わぬ目だ。役の書き手は、口より先に自分の立場を守る。


 義信は声を低く保ったまま続ける。


「お前は書き手だ。手を動かす者は、背を知っている。吐け。吐けば、お前の首は残る。吐かねば、背の者が先にお前を捨てる」


 男の目が揺れた。捨てられる怖さは、縄より効く。


「……藤屋は、ただの箱にござる」


 男は絞り出すように言った。


「箱の主は」


「……“蔵奉行筋”にございます」


 義信の息が一瞬止まる。

 蔵奉行筋――兵糧の出入りに触れられる位置。もしそこが腐れば、海津の蔵をいくら固めても、上から抜かれる。


「名は」


 男は唇を噛み、視線を落とした。


「名を言えば、わしの一族が――」


 義信はそこで一歩引いた。ここで迫りすぎれば、男は口を閉じる。閉じれば、手が切れる。


「名はいま要らん。印だ。文の端に押す印、書付の癖、誰の手から受け取ったか。それを言え」


 男は震えながら、文を渡された刻のことを語った。

 海津の城下で、兵糧の蔵へ出入りする者。帳面の端に小さな三つの点を打つ癖。封紙を折るとき、必ず右角を内へ畳む癖。


 義信はその癖を胸に刻み、勘助へ目配せした。


「藤屋は監視に回せ。今夜は荒らすな。荒らせば、道が消える」


「承知いたしました。藤屋の裏口に草を張り、川沿いの渡しも押さえまする」


 義信は捕らえた書き手を立たせ、静かに言った。


「お前は海津へ連れて行く。寺札を織り込むほどの相手が背にいるなら、海津の蔵は“守り”だけでは足りぬ。こちらも相手の札を織り込む」


 男は青ざめ、ただ頷いた。


     *


 海津へ戻る道中、義信は夜の冷えの中で考え続けた。

 寺札を読んでいた。蔵の守りを読んでいた。飢えを読んでいた。――読んでいた者が、こちらの内にもいる。


 だが、ここで「内の敵だ」と叫べば終わる。家は内側から割れる。

 ならば、叫ばず、形で縛るしかない。


 海津城へ入ると、義信はまず城代と番頭を呼び、命じた。


「明日から、蔵の出入り帳は三冊にする。一冊は蔵、二冊目は城代、三冊目は私の手元。照らし合わせ、違いが出たら、その場で止める。止めた者が恨まれても止めろ」


 城代が息を呑んだ。


「義信様、それでは――」


「面倒になる。だが面倒が増えれば、盗みは減る。盗みが減れば、越後の手が届きにくくなる」


 次に、義信は書き手の男を別室へ置き、水と粥を与え、番を二重にした。殴らせない。

 口を開かせるのは明け方。人の心は夜より朝に折れやすい。夜は意地で立つ。朝は疲れで崩れる。


 勘助が灯の下で言う。


「義信様、蔵奉行筋に触れるのは危うございます。風が立てば、家中が割れまする」


「だから風を立てずに縛る。名を探す前に、癖を押さえる。癖が一致した時、そこで初めて父上へ“事”として上げる」


「信玄公へは」


「今夜は上げぬ。明日、書き手の口がもう一段開いてからだ。疑いを先に上げれば、こちらが疑われる。疑われれば、私の手が鈍る」


 勘助は静かに頭を下げた。


「御意にございます」


 義信は廊下へ出た。

 海津の外では、川霧が薄く立ち、遠くで馬の嘶きが一声響く。戦が近い。越後が来る。

 だからこそ、背を突く手をいま折らねばならない。


(戦場で槍を受けるのは兵だ。だが蔵で刃を受けるのは国だ)


 義信は立ち止まり、闇の向こうを見た。

 松代で掴んだのは、荷の道と、帳の癖。名ではない。だが名よりも確かな“手触り”だ。手触りは嘘をつかない。


 明け方、書き手の男の口が開けば、次の一歩が見える。

 見えた一歩は、家の内へ向くかもしれない。だが、向こうから先に伸びてきた手を、見逃すわけにはいかなかった。


 

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