最終章 泥濘(ぬかるみ)への帰還

部屋の中央に鎮座するメインサーバーは、まるで巨大な脳髄のようだった。

 無数のケーブルが脈管のように床を走り、青白い光が規則的な鼓動(パルス)を刻んでいる。


 そこは、エリスたち「ドール」の意識を統合し、管理するための聖域。

 痛みも、孤独も、死さえない、完璧なデジタルの羊水。


『おかえりなさい、No.404』


 スピーカーを通さない、直接的な思考音声が空間を満たした。

 それは、母親のようでもあり、無機質な管理者のようでもあった。


『個(ソロ)としての活動は苦痛だったでしょう。傷つき、汚れ、消耗するだけの肉体など捨てて、こちらへ戻りなさい』


 甘美な誘惑。

 エリスの瞳が、一瞬揺らいだ。

 彼女の深層心理には、まだ「安らぎ」への渇望が残っている。このサーバーに溶けてしまえば、追われる恐怖も、自分が何者かという問いからも解放される。


「……あたたかい。……ここなら、もう痛くないの?」


 エリスがふらりと足を踏み出す。

 久我は、その腕を乱暴に引き戻し、自分の胸に押し付けた。


「目を覚ませ。それは安らぎじゃない。ただの消滅だ」


 久我の心臓の鼓動が、エリスの背中に伝わる。

 ドクン、ドクン。

 不規則で、熱く、泥臭い、生の鼓動。


「……久我、さん」


「痛くない世界がいいなら行けばいい。だが、そこには俺はいない」


 久我は、彼女のうなじのポートに、直接ケーブルを突き刺した。

 そして、その反対側を、メインサーバーの外部端子へと接続する。


 三者間の接続(トライアングル・コネクト)。

 サーバー、エリス、そして久我。


 カチリ。

 世界が白一色に染まる。


 情報の奔流が、濁流となって久我の脳を襲った。

 何千人ものドールの記憶。整理整頓された感情。バグのない論理。

 圧倒的な「正しさ」が、久我という異物を排除しようと圧力をかけてくる。


『異物を検知。排除、排除、排除――』


 久我の自我が削り取られていく。

 あまりに巨大な演算能力の前に、個人の精神など塵に等しい。


(くそ……! 飲み込まれる……!)


 久我の意識が薄れかけたその時、温かいものが流れ込んできた。

 エリスだ。

 彼女が、データの海の中で久我の手を握りしめている感覚。


『行かないで。……私は、こっちがいい』


 彼女の意識が、サーバーの完璧さを拒絶した。

 彼女が選んだのは、硝子細工の楽園ではなく、久我という傷だらけの男と過ごす、薄汚れた現実だった。


『私たちが感じた痛みも、快楽も、あのコーヒーの味も! 全部、ここにはない!』


 エリスの叫びが、久我の精神を覚醒させる。

 そうだ。この完璧な機械には理解できないものがある。

 人間特有の、非論理的な熱量(ノイズ)。


「くれてやるよ……! 俺たちの『汚れ』を!」


 久我は咆哮した。

 彼とエリスの間で循環していた、ドロドロの感情、性的な興奮、殺意、愛着。

 論理では説明のつかない、カオスな情報(スパム)の塊を、サーバーの中枢へ叩き込んだ。


 ズズズッ……!


 純白のデジタル空間に、黒と赤のインクをぶちまけたような汚染が広がる。


『エラ……ー……? 理解不能……非論理的……熱量が、高すぎ……』


 サーバーが悲鳴を上げた。

 完璧な論理で構成されたシステムにとって、人間の「情動」は最も凶悪なウイルスだ。

 処理しきれない熱暴走が、回路を焼き尽くしていく。


 ガラスが割れる音が響き渡った。

 現実世界で、培養ポッドが次々と破裂し、青い液体が床にぶちまけられる。


 スパーク。爆発。


 久我はケーブルを引き抜き、エリスを抱きかかえて走り出した。

 背後で、巨大な「脳髄」が火花を散らし、崩壊していく。


 警報音が鳴り響く中、二人は非常口を蹴破り、夜の港へと飛び出した。


 冷たい海風。

 潮の匂い。

 そして、遠くで聞こえるサイレンの音。


 二人はアスファルトの上に倒れ込むようにして、荒い息をついた。


「……はぁ、はぁ……壊しちゃった」


 エリスが夜空を見上げて笑った。

 彼女の頬は煤で汚れ、服はボロボロだ。だが、その瞳は、今までで一番鮮やかに輝いていた。


「ああ。……もう、帰る場所はないぞ」


 久我もまた、大の字になって笑った。

 全身が痛い。だが、その痛みこそが、システムから解放された証だった。


 エリスが這い寄り、久我の上に覆いかぶさる。

 彼女の重み、柔らかさ、そして鼓動。

 同調(シンクロ)していなくても、肌を通してすべてが伝わってくる。


「いいの。……私の帰る場所は、ここだから」


 彼女は久我の胸に指を這わせ、心臓の位置を確かめるように押した。

 そして、ゆっくりと顔を近づけ、久我の唇を塞いだ。


 それは、今までのどのダイブよりも深く、甘く、そして永遠に続くかのような、生の口づけだった。


 二人の影が、月明かりの下で一つに溶け合う。

 世界は残酷で、不完全で、泥沼のようだ。

 だが、この体温がある限り、二人はこの沼の中で溺れ続けることができるだろう。


(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『君の脳髄(なか)で溺れたい』(エロティック) DONOMASA @DONOMASA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画