第6話 幻味と渇望

 モーテルの窓を叩く雨音は、まだ止まない。

 狭い室内には、安っぽいコーヒーの香りが漂っていた。


「……熱い」


 久我が眉をひそめて呟いた。

 彼の手には何もない。コーヒーの入った紙コップを握っているのは、向かいのソファに座るエリスだ。


 彼女がカップに口をつけ、熱い液体を喉に流し込む。

 その熱、舌に残る苦味、喉を落ちていく粘膜の感触。

 それらすべてが、電気信号となって久我の脳髄を直撃する。


 幻味(ファントム・テイスト)。

 視覚や聴覚だけでなく、味覚までもが同調し始めていた。


「ごめんなさい。……でも、少し落ち着きたくて」


 エリスは申し訳なさそうに言いつつも、赤い舌先で唇についた雫を舐め取った。

 その濡れた舌の触感までもが、久我自身の唇の上でリアルに再現される。

 まるで、見えない舌で愛撫されているような、背筋が粟立つ感覚。


 久我はたまらず、自分の唇を手の甲で乱暴に拭った。


「味覚まで混ざるとはな。……お前が食事をするたびに、俺まで腹が満たされた錯覚に陥る」


「ふふ。じゃあ、食費が浮いて助かるわね」


 エリスは自嘲気味に笑った。だが、その瞳には暗い色が宿っている。

 先ほどの解析で判明した真実――自分が「作られた人格(ドール)」であるという事実は、彼女の精神を内側から蝕んでいた。


「……ねえ、久我さん。このコーヒーの味、本物だと思う?」


「あ?」


「私の舌が感じている苦味は、本当にこの液体の味なのかしら。それとも、プログラムされた電気信号への反応に過ぎないの?」


 彼女は紙コップを握り潰しそうに力を込めた。


「私の記憶も、感情も、この味覚さえも。……全部、誰かに書き込まれた偽物なのかもしれない」


 彼女の絶望が、波となって押し寄せる。

 久我の胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。


 久我は立ち上がり、彼女の前に歩み寄ると、その顎を強引に掴んで上を向かせた。


「……確かめてやる」


 久我は、自らの唇を、エリスのそれに押し付けた。

 愛の口づけではない。存在証明のための、荒々しい接触だ。


「んっ……!」


 唇が触れ合い、舌が絡む。

 物理的な接触による「味」と、神経接続(リンク)を通じて脳内に直接響く「味」。

 二重の刺激が、増幅回路(アンプ)を通したノイズのように爆発する。


 甘い唾液の味。コーヒーの残り香。そして、互いの熱。

 脳が焼き切れるほどの情報量が、二人の間を循環(ループ)する。


 久我は唇を離し、荒い息をつきながら彼女を睨みつけた。


「……どうだ。これも偽物か?」


 エリスは呆然と目を見開き、やがて震える指で自分の唇に触れた。


「……いいえ。……痛いくらい、リアルよ」


「なら、それが真実だ。お前の脳がどう作られていようが、今、俺が感じているこの熱だけは本物だ」


 それは、久我なりの不器用な契約更新だった。

 彼女が空っぽだと言うなら、俺の感覚(リアル)で満たしてやる。

 それは共依存という名の、底なし沼への第一歩。


 その時。

 二人の脳裏に、ザザッという不快なノイズが走った。


「っ……!?」


 同時に頭を抑える。

 幻味ではない。もっと鋭利で、悪意に満ちた「侵入」の気配。


 久我は瞬時に部屋の隅にある機材へ視線を走らせた。

 外部ネットワーク遮断中のモニターに、文字が浮かび上がっている。


『――見つけたよ、迷子のドールちゃん』


 エリスが青ざめ、ガタガタと震え出した。


「この感覚……知ってる。……『ガロウ』よ」


「ガロウ?」


「組織の飼っている、最悪のダイバー。……脳を焼くのが趣味の、狂人」


 物理的な追手ではない。

 ネットの海を回遊し、漏れ出したわずかな脳波を嗅ぎつけてくる、デジタルの猟犬。


 久我は、震えるエリスの肩を抱き寄せた。

 彼女の恐怖が伝染し、久我の指先までもが氷のように冷たくなる。

 だが、同時に久我の唇は、凶暴な笑みの形に歪んでいた。


「上等だ。……俺の領域(テリトリー)に土足で踏み込んだ代償、高くつかせてやる」


 久我は携帯端末(デッキ)を掴み、戦闘用プラグを自身の首筋にねじ込んだ。

 逃げるのは終わりだ。

 脳髄を焦がす、電子の撃ち合い(ドッグファイト)が始まる。

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