第5話 禁断の並列処理

目覚めは、溺れるような窒息感と共に訪れた。


「……っ、ぐ……!」


 久我はシーツを握りしめ、荒い息を吸い込んで跳ね起きた。

 自分の首が絞められているわけではない。だが、喉の奥が焼けつくように熱く、呼吸がうまくできない。


 隣を見れば、ベッドの上でエリスがうなされていた。

 彼女は悪夢を見ている。その恐怖と閉塞感が、同調(シンクロ)した神経を通じて、久我の睡眠を侵食したのだ。


「……おい、起きろ」


 久我が肩を揺すると、エリスはビクリと身体を跳ねさせ、焦点の合わない瞳を見開いた。

 汗に濡れた髪が、白い頬に張り付いている。


「……はあ、はあ……久我、さん……?」


 彼女の意識が浮上すると同時に、久我の喉の圧迫感も嘘のように消えた。

 だが、不快な汗だけが背中に残る。

 他人の悪夢で起こされる朝など、最悪だ。


「ひどい夢だったわ。……暗い水底に、沈められる夢」


「お前の夢だ。俺まで巻き込むな」


 久我は冷たく言い放ち、サイドテーブルにあったミネラルウォーターを彼女に投げた。

 エリスはそれを震える手で受け取り、一気に飲み干す。その喉の動きさえ、久我には自分のことのように生々しく伝わってくる。


「さて、仕事の時間だ」


 久我は、サイドテーブルに放置されていたメモリーチップを指で弾いた。

 そろそろ、この「呪いの源」の正体を暴かなければならない。


 久我は携帯端末(デッキ)を展開し、チップをスロットに差し込んだ。

 だが、モニターに表示されたのは『ACCESS DENIED(アクセス拒否)』の赤い文字。


「生体認証(バイオメトリクス)付きか」


「……私の網膜と、脳波パターンがないと開かないわ」


 エリスがベッドの端に座り、虚ろな目で言った。


「私が実験体だった頃に、埋め込まれたコードだから」


「実験体?」


「ええ。……これを開くには、私とあなたが、もう一度『繋がる』必要がある」


 彼女は挑発するように、乱れた髪をかき上げ、うなじの接続端子(ポート)を露わにした。

 それは、昨夜のあの濃密な行為――神経のレイプにも似たダイブを、今度は合意の上で行うことを意味していた。


 久我は一瞬ためらったが、すでに身体の奥底が、あの「溶解する感覚」を求めて疼き始めていた。

 拒絶するには、毒が回りすぎている。


「……いいだろう。だが、今度は俺が主導権を握る」


 久我はケーブルを手に取り、彼女の背後に回った。

 プラグを挿入する。

 カチリ、という硬質な音と共に、世界が反転した。


 視界がホワイトアウトする。

 二人の意識が、デジタルの海へと投げ出された。


(……来るぞ)


 情報の奔流。

 今回は、エリスの記憶に潜るのではない。エリスという「鍵」を使って、チップの中の閉鎖領域をこじ開ける作業だ。

 二人の脳は並列処理(デュアル・プロセッシング)を行い、膨大な暗号化データを食い破っていく。


 その過程は、まるで互いの思考を混ぜ合わせるミキサーのようだった。

 久我の論理的思考と、エリスの感情的直感が、ドロドロに溶け合い、一つの巨大な演算装置と化す。


「……んっ、……すごい……」


 現実世界で、エリスが甘い声を漏らす。

 脳神経が直接撫で回される感覚。情報が流れ込む快感が、背骨を駆け上がり、脳髄を痺れさせる。


 やがて、重厚な扉が開いた。

 そこに記録されていたのは、無機質な顧客リストと、一つの映像データ。


『プロジェクト・メサイア。被検体No.404、適合実験を開始する』


 脳内スクリーンに映し出されたのは、拘束されたエリスの姿と、白衣を着た男たち。

 彼女の脳に、人工的な記憶を植え付け、人格を書き換える実験。

 エリスが感じた当時の激痛が、データを通じて久我にも襲いかかる。


「ぐっ……!」


 頭蓋骨を万力で締め上げられるような痛み。

 だが、久我は接続を切らなかった。意識の中で、震えるエリスの精神を抱きしめ、痛みを中和(フィルタリング)する。


(俺に預けろ。……その痛みは、ただの信号だ)


 久我が念じると、エリスのパニックが鎮静化していく。

 二人の精神は、完全に溶け合っていた。

 痛みも、絶望も、そして互いへの依存心も、すべてが透明な液体となって混ざり合う。


 ピーッ。


 データの解析が完了し、接続が解除された。

 久我は、椅子に深く沈み込み、荒い息を吐いた。全身が汗でびっしょりと濡れている。


 目の前には、虚脱状態で横たわるエリス。

 彼女は、潤んだ瞳で久我を見つめ、熱に浮かされたように微笑んだ。


「……見たでしょう? 私の頭の中、空っぽなの。植え付けられた記憶と、痛みしかない」


 久我は、震える手で彼女の頬に触れた。

 その熱さは、もう他人のものではない。自分の体温と同じだ。


「空っぽなら、これから埋めればいい」


 久我は低く囁いた。

 それは慰めではない。壊れかけた玩具を所有しようとする、独占欲に近い感情だった。


 チップの中身は、巨大企業の暗部そのものだ。

 これを持っている限り、地獄の果てまで追われることになる。


 だが、久我の口元には、凶暴な笑みが浮かんでいた。

 この女との逃避行は、どんなドラッグよりも刺激的な「死へのダイブ」になるだろうと、確信したからだ。

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