第7話 脳髄の焦土

視界がホワイトアウトし、次の瞬間、重力のない暗黒の海へ投げ出された。


 電脳空間(サイバー・スペース)。

 久我の意識は、物理的な肉体を離れ、純粋なデータの奔流となっていた。

 だが、その背中には確かな重みがある。

 エリスだ。彼女の精神もまた、久我の意識領域(テリトリー)の中に匿われている。


『……寒い。……怖い』


 脳内に直接響くエリスの怯えが、久我の神経を凍らせる。

 彼女の恐怖は、そのまま久我の防御壁(ファイアウォール)の強度を低下させる致命的なノイズとなる。


(落ち着け。俺の意識から離れるな)


 久我はイメージの中で彼女を強く抱きしめ、周囲に展開した論理防壁を凝縮させた。

 その直後。


 ズズッ……。


 暗黒の空間が裂け、どす黒い汚泥のようなものが溢れ出してきた。

 それは不定形の獣の形をとり、無数の赤い瞳をギョロギョロと動かしている。

 「ガロウ」の電子アバターだ。


『見つけた、見つけた、見つけたぁ……』


 粘着質な思考音声が、鼓膜ではなく脳幹を直接撫で回す。

 吐き気がするほどの悪意。

 獣は笑い声を上げながら、鋭い爪――攻撃性ウイルス(アイス)を振り下ろした。


 ガギィィィッ!


 久我の防壁が悲鳴を上げる。

 衝撃はデータ上の数値減少などではない。激痛として変換され、久我の精神を殴りつける。


「ぐぅっ……!」


 現実世界の肉体で、久我は歯を食いしばり、鼻からツーと血を流した。

 脳が焼ける匂いがする。


『硬いねえ。でも、中身が震えてるよ?』


 ガロウの爪が、防壁のわずかな隙間――エリスの恐怖が生んだ亀裂――にねじ込まれた。

 侵入。


「きゃあぁぁぁっ!」


 エリスの悲鳴が炸裂した。

 敵の触手が、久我を通り越して、彼女の精神体を直接レイプしにかかったのだ。

 彼女の記憶野が荒らされ、人格データが強制的に書き換えられようとしている。


 その感覚は、久我にも鮮明に伝わってくる。

 汚れた指で脳のシワを広げられ、土足で踏み荒らされるような、おぞましい凌辱感。


「……させる、か……!」


 久我は咆哮した。

 防衛など捨てだ。

 彼は意識の中で、犯されそうになっているエリスを抱き寄せ、逆に彼女との同調率(シンクロ・レート)を限界まで引き上げた。


(エリス、俺を見ろ! 恐怖を捨てるな、それを武器にしろ!)


『……え?』


(お前の痛みも、絶望も、俺が全部引き受けてやる。だから――その「毒」を奴に流し込め!)


 久我は、エリスという猛毒の回路を開いた。

 彼女の深層心理に渦巻く、作られた人格(ドール)としての虚無。実験の激痛。人間扱いされなかった怨嗟。

 それらすべてを、久我の演算能力で増幅し、攻撃データとして再構築する。


 逆流(カウンター)。


「食らいやがれ……!」


 久我は、ガロウの侵入経路を逆探知し、エリスの「絶望」を相手の脳髄へ叩き込んだ。


『ぎゃあああああああっ!?』


 ガロウの獣が、内側から破裂したように歪んだ。

 快楽殺人者のようなサディストにとって、被害者の「生の苦痛」は極上のスパイスかもしれない。だが、エリスの抱える虚無は、そんな生易しいものではない。

 それは、自我そのものを溶解させる、底なしのブラックホールだ。


『な、なんだこれは……重い、暗い、やめろ、やめろぉぉぉ!』


 ガロウの精神が、エリスの虚無に飲み込まれ、崩壊していく。

 久我はその隙を見逃さなかった。

 とどめの一撃。

 論理爆弾(ロジック・ボム)を、無防備になった敵の核へ打ち込む。


 閃光。


 世界が白く弾け飛び、すべての接続が遮断された。


 プツン。


 静寂が戻る。


「はっ……はぁ、はぁ……!」


 現実世界。

 久我は勢いよくヘッドギアをかなぐり捨て、床に転がり落ちた。

 全身が痙攣している。体温は沸騰しそうだ。

 激しい嘔吐感と、ひどい耳鳴り。


「……久我、さん……」


 ソファの上で、エリスもまた、糸の切れた人形のようにぐったりと横たわっていた。

 彼女の目からは、涙が溢れている。

 悲しいからではない。脳神経に過剰な負荷がかかった生理現象だ。


 久我は這うようにして彼女に近づき、その身体を抱き起こした。

 生きている。脈はある。

 だが、二人の境界線は、この戦闘で完全に消滅してしまったようだった。


 エリスが震える手で、久我の頬についた鼻血を拭う。


「……私の絶望、どうだった?」


 彼女は虚ろに笑った。

 久我は、血の味がする口の中で、荒い息をつきながら答えた。


「最悪の味だ。……二度と食いたくない」


 だが、久我の手は、離れられないように彼女の背中に回されていた。

 脳髄(なか)を焦がされた二人は、傷を舐め合う獣のように、薄暗い部屋で互いの体温を貪り続けた。

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