第48話 間を詰める

バットを握った手の汗が引いたころ、ようやく「勝った」という実感が体の奥に落ちてきた。1-0。派手さはない。けれど、あの静けさのまま最後のアウトを取れたことが、何より大きい。


ダグアウトへ戻る道で、敦は一度だけスコアボードを見上げた。数字は少ない。少ないぶん、誤魔化しが利かない。


「よく抑えたな」


篠原が隣に並び、短く言った。主将になってから、言葉を削る癖がついた。余計なことを言わない代わりに、必要なことは逃げずに言う。


「田島が止めてくれたからです」


敦がそう返すと、篠原は首を横に振る。


「お前が投げ切った。止められる球を投げた。そこが一番大事だ」


褒め言葉ではなく、確認だった。次も同じ形に戻せるかどうか。そのための確認。


田島は最後までマスクを外さなかった。整列が終わってようやく外し、ベンチに腰を落とす。膝に両手を置いて、息を整える。捕手の疲労は投手の疲労と種類が違う。肩も脚も、そして神経も擦り減っていく。


「……すみません」


田島が小さく言った。


「何がだ」


佐伯が一塁ミットを抱えたまま返した。指のテーピングはまだ白い。痛みがあるのに、声は揺れない。


「最後の…落ちる球。ちょっと遅れました」


敦は田島の横にしゃがみ込んだ。


「遅れてない。前に落とさなかった。あれが一番でかい」


田島は唇を噛み、黙って頷いた。自分を責める癖が、まだ残っている。捕手はそれで強くなることもあるが、今は折れる方が早い。


佐伯が続ける。


「止めるのが仕事だ。取るのは投手の仕事。役割を混ぜるな。お前はお前の仕事をやった」


田島は息を吐き、肩を落とした。少しだけ、呼吸が落ち着く。



バスへ戻る前、監督が全員を集めた。円の中心に篠原が立ち、監督がその横で腕を組む。


「次、勝てばベスト8だ」


その数字は、目標として言い続けてきたはずなのに、いざ手が届きそうになると別の顔を見せる。期待と怖さが同時に膨らむ顔だ。


監督は続けた。


「次の相手は足を使う。バント、盗塁、エンドラン。守りの1歩目を遅らせて、こっちの判断を焦らせに来る」


田島の肩がほんの少し固くなるのが、敦には見えた。走られる展開は捕手の心臓を削る。いま武庫工業はサインを減らしている。迷いを減らす代わりに、相手の動きに引っ張られたら戻しにくい。


「だから、こっちも決める」


監督の声は淡々としていた。


「決めるのは球種じゃない。動きだ。走者が出たとき、誰が何を優先するか。そこを先に決める」


篠原が頷き、短く言う。


「守りは、迷った瞬間に負ける」


敦はその言葉で、胸の奥の違和感が少しだけ形になるのを感じた。負け方はいつも同じだった。迷って、遅れて、最後に取り返そうとして崩れる。


勝ち方も、同じにできるはずだ。



翌日。練習の最初はバント処理と牽制だった。ノックより先に、塁上の動きを入れてくる。監督が「足を使う相手」と言った以上、ここを避けたら意味がない。


「1塁、出過ぎるな。戻れなくなる」


佐伯が1塁から声を出す。指を庇うようにミットを握っているのに、目は鋭い。


敦は投手としての足運びを確認した。送球の角度。ベースカバーの入り方。捕って踏むか、踏んで捕るか。少しの違いが、走者の1歩を作る。


田島は捕手位置で2塁送球の動作を繰り返していた。肩はまだ強くない。捕手練習を始めたばかりで、無駄が残る。だが、無駄を削る練習はできる。


ブルペンに移ると、監督が球数を決めた。


「今日は少なめ。受けるテンポを揃えろ」


敦は頷き、田島と向き合う。


「サインは増やさない」


「はい」


「迷ったら止めていい。止めたほうが速いときもある」


1球目、外角低め。2球目も同じ線。3球目、同じ線で高さだけを少し変える。田島はミットの位置を大きく動かさない。捕球音が揃っていく。


4球目、落ちる球。田島の体が前へ落ち、ボールを体の前で止める。膝が崩れそうになるが踏ん張った。


佐伯が後ろから言う。


「今のだ。止める位置を前にしろ。後ろだと全部が遅れる」


田島は頷く。汗が頬を伝い、顎から落ちる。


敦は、その汗を見て思う。田島は「できるようになろう」としている。昨日の勝利に甘えず、今日もう一段上へ行こうとしている。その姿勢が、今の武庫工業には必要だ。


敦の視界の端に、薄いノイズが立ち上がる。


透明なスクリーン。


――本日コンディション

・肩:張り 小

・下半身:疲労 少

・睡眠:良好


敦は瞬きを1つして消した。数字より、田島の呼吸が欲しい。呼吸が整えば、動きが整う。動きが整えば、判断が揃う。



夕方。部室の片隅で、篠原が古いノートを開いた。手書きの表。相手の傾向を書き込むためのものだ。映像があるわけじゃない。試合を見て、聞いて、拾って、残す。


「次の相手、初回から動く」


篠原が言う。


「バント?」


村上が聞く。


「バントも。走者が出たらすぐ動く。盗塁だけじゃない。偽装も入れてくる」


中村が腕を組んだ。


「こっち、田島が受けてるから、揺さぶられたら怖いな」


田島が一瞬だけ目を伏せる。その瞬間を、敦は見逃さなかった。


「怖いなら、怖いままでいい」


敦が言うと、全員の視線が集まった。敦は続ける。


「怖いのは、分からないからだ。分かってる怖さなら、動ける」


篠原が頷いた。


「だから決める。走者が出たら、最初の1球はこれ。次はこれ。牽制はこの回は入れる。入れない回は入れない。中途半端が一番やられる」


監督が部室に入ってきて、短く言った。


「明日、ミーティングで固める。今日のうちに各自、頭の中で手順を作れ。口で覚えるな。体で覚えろ」


田島が小さく手を挙げる。


「…盗塁、刺せるようになります」


断言ではない。宣言だった。自分に向けた宣言。


佐伯が田島の背中を軽く叩く。


「刺す前に、まず止めろ。走られても止めろ。止めたら、次ができる」


田島は頷いた。


敦はそのやり取りを見て、胸の奥の何かが少しだけ温かくなるのを感じた。勝ったから温かいんじゃない。負けたあとに逃げずに積み上げているから、温かい。



帰り道。部室の外はもう暗い。自転車置き場の金属の匂いが、冷えた空気に混じる。


敦は自分の手を見た。指先の縫い目の感覚が、まだ残っている。あの9回裏、最後のゴロ。捕って、踏んで、終わった感触。


スクリーンは出ない。出なくていい。


次は、勝てばベスト8。負けたら終わり。数字の重さが増すほど、チームは揺さぶられる。


だが、揺さぶられても戻せる形がある。そう思えるだけの材料が、今日増えた。


敦は一度だけ深く息を吸って、吐いた。


「次は、焦らされても崩れない」


声には出さない。出すのは、マウンドの上でいい。


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パワブロマイライフ転生:オールS能力でタイムリーブ あちゅ和尚 @feyfon

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