第47話 八回の一本
七回裏が終わっても、スコアボードのゼロは動かなかった。0―0。両チームの投手が踏ん張り、守備が一球で流れを切り、観客の呼吸だけが少しずつ浅くなっていく。
ベンチへ戻った篠原は、汗を拭きながらも表情を崩さなかった。ただ、肩の重さだけは隠せない。投げ終えたあとの腕が、ほんの少しだけ下がる。
監督が敦を見る。
「行けるな」
敦は頷いた。ブルペンで反復した軌道が、まだ指先に残っている。外角低め。一本の線を太くする。それだけ。
*
八回表。武庫工業の攻撃。
先頭は村井だった。相手左腕の変化球は鋭い。ストレートを待てば落ちる。落ちる球を待てば内角が来る。だから村井は、振るより先に「見切る」を選んだ。
初球は低めのボール。二球目は外角にストライク。三球目、外へ逃げる球を見送ってボール。カウント2―1。
四球目は低めに沈む。村井はバットを止めた。判定はボール。5球目、内角のストレート。これも見送る。フルカウント。
六球目。外角低め――わずかに外れた。
「ボール!」
四球。無死一塁。
村井が一塁へ歩きながら、ベンチへ小さく手を上げる。派手じゃない。けれど、この一つが重い。0―0の終盤で、先頭が出る意味は全員が知っている。
次は篠原。バットを短く持った。サインを確認して、一度だけ頷く。
(形を作る。余計なことは増やさない)
初球。篠原は迷いなく転がした。三塁線寄りのバント。三塁手が前へ出て素手で掴み、一塁へ送る。
篠原はアウト。村井は二塁へ進む。
一死二塁。
一つ進んだだけで、球場の空気が変わる。二塁走者がいるだけで、内野の足が速くなり、外野の返球が強くなる。相手のベンチが声を上げ、武庫工業のベンチは逆に静かになる。静かに、次の一本だけを待つ。
一番の村上。村上は強く引っ張らない。相手の守備の並びを見て、右方向へ転がす意識を固める。
初球は外角のストライク。二球目はボール。三球目、外へ逃げる球を叩きつけた。
二塁手の正面。だが村上の狙いは「ヒット」じゃない。
二塁手が捕って一塁へ送る間に、村井が三塁へ進む。
二死三塁。
あと一本。たった一本で点が入る位置まで来た。だが二死だ。一本が出なければゼロのまま裏へ行く。敦はベンチの端でヘルメットのつばを押さえ、呼吸を整えた。勝ちたい気持ちが強いほど、身体が固くなる。その固さが、一本を遠ざける。
(呼吸。一本だけ)
二番の中村。中村は初球を見送った。ボール。二球目はストライク。三球目、外へ逃げる球――中村は無理に追わない。ファウルで粘るのではなく、芯に当たる球だけを待つ。
四球目。内角寄りのストレートが少し甘く入った。
中村のバットが、真っすぐ出た。打球は一、二塁間を抜ける。ライト前へ転がる。
三塁走者の村井がホームへ突っ込む。送球は前へ出たライトから返るが、ワンバウンドになる。捕手が体で止め、タッチへ移る一瞬――その一瞬が足りない。
「セーフ!」
武庫工業が先制。1―0。
中村は一塁で止まる。二死一塁。
ベンチの空気が、ほんの少しだけ前に出た。騒がない。次の守りの準備へ、静かに切り替える。
三番の佐伯が打席に入る。左手の指にはまだテーピングが残っている。それでもバットは握れる。佐伯は一球、二球と見送って、最後は低めの変化球を引っかけた。
三ゴロ。三塁手が確実に一塁へ送って三死。
追加点は取れない。だが一点は一点だ。0―0のまま終盤へ入るより、ずっといい。
(ここからは守り切る)
*
八回裏。敦がマウンドへ向かう。篠原はライトへ回る。敦がライトから投手へ移り、篠原が投手からライトへ移る。形は同じ。けれど捕手は田島だ。だからこそ、余計なものを削って一本にする。
田島がミットを構える。しゃがみ方はまだ硬い。だが目は逃げない。呼吸も、昨日より止まらない。
敦の胸の奥で、透明なスクリーンが淡く灯る。
ピッチャー
スタミナ S
コントロール S
球速 153km
メンタル ★2(維持)
(維持でいい。揺れなければ勝てる)
先頭打者。初球、外角低めのストレート。ストライク。田島のミットが沈む。二球目も同じところ。ファウル。三球目、もう一つ同じ線。今度は詰まらせた。
打球は二塁手の前へ転がる。中村が捕って一塁へ送る。
一死。
二人目は初球を見送ってボール。二球目はストライク。三球目、外へ逃げる球にバットが出てしまう。ファウル。カウント1―2。
田島のサインはシンプルだった。外角低め。敦は首を振らない。欲張るとズレる。ズレた分だけ、田島が苦しくなる。
四球目。外角低め。ストレート。
打球は浅いセンターフライになった。村上が前へ出て捕る。
二死。
あと一人で、九回へ一本のリードを持っていける。敦はロージンを指につけ、息を吐いた。田島がミットを一度叩く。聞こえない声の代わりの合図だ。
三人目。初球はボール。二球目、外角低めでストライク。三球目、ファウル。カウント1―2。
四球目、落ちる球のサインが出た。敦は一瞬迷う。だが迷いは、投げる直前に消せる。迷っていいのは考えるためじゃない。決めるためだ。
敦は腕を振った。低めへ沈む。
空振り。
三振。三者凡退。
敦はマウンドを降りながら、田島と一度だけ目を合わせて頷いた。言葉はいらない。合図は見えた。呼吸も見えた。
*
九回表。追加点が欲しい。だが相手左腕も意地で抑えにくる。武庫工業は簡単に出塁できない。
先頭が内野ゴロ。次が外野フライ。二死。
敦の打順が近づくが、監督は無理に動かない。今の一点を守ることが最優先だ。秋の試合は、勝てば次がある。負ければ終わる。
結局、追加点は取れないまま九回裏へ入った。
1―0。
ベンチへ戻ってきた篠原が、ライトの守備手袋を外しながら敦を見る。言葉は少ない。主将になってから、余計な言葉を削る癖がついた。
「一本でいい」
敦は頷いた。
(一本で勝つ)
*
九回裏。敦はマウンドに立つ。捕手は田島。ミットは低く構えられる。サインは少ない。考えも少ない。一本の線だけを太くする。
先頭打者。初球、外角低め。ストライク。二球目、同じところ。ファウル。三球目、外角低め。もう一つファウル。カウント0―2。
四球目。敦はスライダーを選んだ。二つだけの変化球、その一つ。外へ逃げる。
バットの先が空を切る。
三振。一死。
次打者。初球を打って一塁側へ強いゴロ。佐伯のところだ。
佐伯は一塁ミットで前へ出る。捕って、自分でベースを踏む。
二死。
あと一人。
スタンドの音が近くなる。応援の音が、急に耳へ入ってくる。だが敦はそれを押し返すように息を吐く。スクリーンは出ない。出なくていい。出たら、余計な情報が増える。
最後の打者。相手ベンチが代打を送る。体格のいい右打者。バットのヘッドが重い。
田島がミットを叩いた。敦は頷く。
初球、外角低めのストレート。ストライク。二球目、ファウル。カウント0―2。
三球目。落ちる球のサインが出た。敦は首を振らない。欲張るな。一本でいい。一本を太くするだけ。
腕を振る。ボールは低めへ沈む――が、打者が止めた。バットの先に当たり、打球が三塁線へ転がる。強い打球ではない。だがイヤなところだ。
村上が横へ滑って捕る。体勢が崩れる。時間がない。
村上は無理に二つ取ろうとしない。確実に一つ。握り直して一塁へ送る。
送球は少し高い。佐伯が伸びて捕る。ベースは踏んでいる。
「アウト!」
試合終了。1―0。
敦は一度だけ、深く息を吐いた。肩の重さが遅れてくる。指先が熱い。でも足は震えていない。あの九回裏二死二塁の線が、今日は曲がらなかった。
ベンチへ戻ると、篠原が先に迎えた。大声は出さない。ただ、肩を叩く。
「よくやった」
田島はマスクを外して、息を吐いた。笑う余裕はない。それでも目だけは、少しだけ明るい。
敦の視界の端に、薄いノイズが走る。
透明なスクリーン。
ピッチャー
投球:2回 失点0
スタミナ S
コントロール S
球速 153km
メンタル ★3(上昇)
(上がったのは、球じゃない)
敦はグラブの中で拳を握った。一本の線は、引き直せる。線を太くすれば、揺れなくなる。勝ち方は、少しずつ身体に刻まれていく。
秋は続く。勝ったぶんだけ、また重い一回が来る。だが今は、その重さを受け止められる気がした。
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