第46話 サインを減らす

翌朝のグラウンドは、昨日の歓声が嘘みたいに静かだった。秋の空は高いのに、土だけがまだ夏のまま乾いていて、ラインの白がやけに眩しい。


敦はライトの奥でキャッチボールをしながら、指先の感覚を確かめていた。勝った。秋の初戦を越えた。けれど胸の奥には、まだ昨夜の九回が残っている。


——田島のブロック。タッチ。球審の手が上がった瞬間の、あの息の抜け方。


(助けられて勝った。……でも、助けられる場所が増えたのは悪くない)


ベンチ前に全員が集められたのは、アップが終わった直後だった。監督が短く手を上げる。


「先に言う。佐伯、捕手は当分やらせない」


一瞬、空気が止まる。


佐伯はベンチの端に立っていた。左手の指に白いテーピングが巻かれている。昨日のファウルチップの鈍い音が、敦の中でまた鳴った。


「折れてはいない。だが腫れが引くまで、捕手で衝撃を受けるな。悪化させたら秋どころじゃない」


「……分かってます」


佐伯の声はいつもより少しだけ低かった。悔しさが混ざっているのが分かる。捕手はグラウンドの中心だ。中心が抜ける怖さは、全員が知っている。


篠原が一歩前へ出た。主将になってから、話す前に呼吸を置く癖がついた。


「じゃあ、誰が受けますか」


監督は迷わず視線を移した。


「田島。お前だ」


田島の肩が小さく跳ねる。昨日の九回で受けたばかりだ。だが、受けたことがあるという事実が、今日の命令の根拠になる。


「……はい」


返事は小さい。でも逃げていない。


「ただし条件がある」


監督が続ける。


「サインは減らす。配球は複雑にしない。守りのミスで試合を壊すな。投げる側もだ。無理に“全部”やろうとするな」


敦はその言葉で、自分の中の余計な欲が少しだけ引っ込むのを感じた。勝った次の試合ほど危ない。強くなった気がして無理をする。勝った分だけ、負け方の罠が増える。


佐伯が手を挙げた。


「監督。俺、一塁なら出られます。投げるのは大丈夫です」


監督は一瞬だけ考える顔をした。手元の腫れだけでなく、チームの喉元の不安も見ている。


「捕手は無理だ。だが一塁なら、状況を見て判断する。痛みが出たら下げる。意地は要らん」


「はい」


佐伯は頷いた。悔しさを飲み込んだ頷きだった。


——その結果、長谷川がベンチスタートになった。誰も文句は言わない。秋は短い。勝つための形を、今ここで選ぶしかない。



昼前、ブルペンの端で田島がミットを構えた。昨日より低いしゃがみ方。膝の角度が少しだけ安定している。敦はボールを握り直し、佐伯の言葉を思い出す。


“捕まえようとするな。体で止めろ”


「山下、七割でいい。まず受けさせろ」


篠原が横から言う。主将の声は落ち着いていた。焦りを見せると、田島の呼吸が乱れる。そこまで計算している。


敦は頷いて、外角低めに投げた。ボールはミットへ吸い込まれ——小さく弾いた。


田島が慌てて体を前へ倒し、弾いた球を胸で止める。


「いい。今のだ」


佐伯が一塁用ミットを抱えたまま、近くから言った。


「ミットの中で勝とうとするな。前で負けるな。体で勝て」


田島は息を吐いて、もう一度構える。敦は二球目を同じところへ放った。今度は弾かない。ミットが鳴る。乾いた、短い音。


「……見えてます」


田島が言った。


「見えてるなら、次は呼吸だ」


敦は間を置いた。鼻から吸って、口から吐く。佐伯がいつもやっている動作を、そのまま真似る。


投げる前に、敦は田島に確認する。


「サインは減らす。基本は外角低めのストレートだ。迷ったら首を振っていい」


田島が頷く。


「変化球は?」


「二つだけ。スライダーと落ちる球。無理に合わせるな。合わせにいくと、ズレる」


言いながら敦は思う。自分が言っているのに、自分のためでもある。投げる側が欲を出すと、サインは増える。増えた分だけ、ズレる。


(線は一本でいい。一本を太くする)



試合当日。球場の外は秋の匂いがした。売店の焼きそばの煙が風に揺れ、スタンドからは吹奏楽の音が薄く聞こえる。昨日と同じ場所なのに、空気が違う。


相手はシード校だった。体格がいい。アップの時点で、打球音が重い。敦はライトの定位置で、グラブを握り直した。


先発は篠原。捕手は田島。佐伯は一塁。敦はライトで入り、終盤からマウンドへ。形は同じ。けれど中心が少しだけずれている。


一回裏、篠原の初球は外角低め。ストライク。田島のミットが沈む。昨日の九回を一度でも経験したミットの沈み方だ。


相手は二番が送りバントの構えを見せた。篠原は焦らない。低めに外して、バントをさせる球にしない。三球目で高めに一つ見せてから、四球目をまた低め。


バントはファウル。スタンドがざわつく。


ライトの敦には、マスク越しの声は届かない。風と応援の音にかき消される。それでも、田島がミットを強く叩いて篠原を促す仕草だけは見えた。篠原が一度、顎を引いてうなずくのも。


(聞こえなくても、分かる。合図は見える)


二回、三回。篠原はゴロを打たせる。中村が間を作り、村井がベースカバーへ走る。派手ではない。でも崩れない。


四回表。武庫工業の攻撃は相手の左腕に抑えられ、なかなか出塁できない。変化球が鋭い。ストレートを待つと落ちる。落ちる球を待つとインコースがくる。


敦はベンチに戻った回の間、ベンチ裏の水道で口をすすいだ。ここまで来ると、勝ちたい気持ちが強すぎて、逆に身体が固くなる。


(呼吸。余計なことは増やさない)


五回裏。相手が先頭を四球で出した。嫌な形だ。すぐ送りバントで一死二塁。


田島がマウンドへ行くべきか迷ったのが、ライトからでも分かった。足が一瞬止まる。篠原は自分から歩み寄った。捕手に余計な負担をかけない判断だった。


二人が短く言葉を交わす。敦には内容までは聞こえない。ただ、篠原の肩が一度だけ落ちて、次の瞬間に上がった。力を抜いて、入れる——その動きだけが見えた。


(大丈夫だ。線は戻ってる)


三番の打球はライト前に落ちそうなフライになった。弾道は浅い。風は横。伸びない。


(落ちる)


敦は一歩目を前へ。迷わない。グラブを伸ばす。捕った。すぐ二塁へ返す。走者は戻れない。二塁で刺せるかは微妙だが、無理はしない。確実に一つ。


村井へ中継。二塁へ。アウト。二死二塁。


ベンチから声が飛ぶ。スタンドの音に混じって、名前だけが断片的に聞こえる。敦は小さく手を上げるだけで返した。声を返すと呼吸が乱れる。今は乱さない。


次打者は三遊間へのゴロ。中村が捌く。間に合う。一塁——佐伯が捕る。


「アウト!」


ゼロで切った。大きくはない。でも、こういうゼロが秋を進める。



七回。スコアは0―0のまま。篠原の球数が増えているのが、ライトからでも分かる。肩の動きが少しだけ重い。だが投げ方は崩れていない。線は曲がっていない。


七回裏の守りが終わると、監督が敦を呼んだ。


「山下。肩を作れ」


「はい」


敦はブルペンへ向かう。田島が捕手道具を直しながら、こちらを見る。目が合う。


言葉は要らない。昨日と同じだ。今日もまた、背中を預け合う番が来る。


敦がキャッチボールを始めた瞬間、視界の端に薄いノイズが走った。


透明なスクリーン。


ピッチャー

スタミナ S

コントロール S

球速 153km

メンタル ★2(維持)


(増えてはいない。でも、維持してる)


敦はロージンを指につけ、深く息を吸う。サインは減らす。考えも減らす。一本の線を太くする。


ブルペンの向こうで、田島がミットを構え直す。篠原の最後の一球が、乾いた音を立てて収まった。


——八回が近い。


敦は外角低めへ、同じ軌道を何度も描いた。聞こえるのはミットの音と、自分の呼吸だけ。余計な情報が消えていく。


その頃、三塁側ベンチの前で篠原がベンチへ戻る。監督が短く頷き、敦に視線を送った。


「行けるな」


敦は、頷いた。


(行ける。一本で勝つ)

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