第45話 九番の意味
九月。夏の熱が引いたはずの空は高いのに、グラウンドの土はまだ夏のまま乾いていて、スパイクを踏み込むたびに砂が舞った。秋季大会。新チームになって最初の公式戦――「負けた夏」を言い訳にできない、最初の答え合わせだ。
ベンチの空気は、意外なほど静かだった。歓声で自分を鼓舞しない。怒号で相手を威圧しない。必要な声だけを切らさず、淡々と回す。篠原主将がそれを徹底させている。
「相手は県立港南。派手には振らない。バント、進塁打、外野フライで一点を拾う。守備の一球が重いぞ」
監督の言葉に、捕手の佐伯が短く頷いた。
「焦って一個アウトを取りにいくと、次でやられる。投げる側は低め。守る側はカバーを切らすな。延長になっても“九回想定”の延長線でやる」
敦はライトの定位置付近で、グラブの中のボールを握り直す。今日も形は同じだ。先発は篠原。自分はライトで入り、終盤からマウンドへ。
同じ形を繰り返すのは、逃げるためじゃない。身体で上書きするためだ。
*
試合前、ブルペンの端で田島が捕手用具を身につけ、ぎこちなくしゃがんでいた。田島は敦と同じ一年だ。普段は内野の控えで、ショートやセカンドに入ることもある。なのに今日は胸当てをつけている。
「“受けられる捕手”を増やすって話、続けるぞ」
佐伯がそう言い、田島の胸当てを指で軽く叩く。
「怖いなら、ミットで捕まえようとするな。体で止めろ」
「……はい」
敦は軽く腕を振った。外角低め。線の上を通るイメージ。
ボールは田島のミットへ吸い込まれ――次の瞬間、田島の肩が小さく跳ねた。
「今の、見えてた?」
「……見えてました。ギリギリですけど」
「見えてるなら慣れる。目は閉じるな。息も止めるな」
田島は小さく頷き、もう一度構え直す。細い体なのに、目だけは逃げない。敦はその目を見て、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
(俺が引く線を、受け止められるやつが増える。それはエースの負担が減るってことじゃない。チームの線が増えるってことだ)
*
ベンチに戻ると、スタメン表が貼られていた。一番・村上、二番・中村、三番・佐伯――と視線を下へ滑らせ、敦は自分の五番を確認してから、最後の行で止まった。
九番 田島
(九番……?)
隣でグラブの紐を結び直していた中村が、敦の視線に気づく。
「田島、九番だなって顔してる」
「そりゃするだろ。なんで九番?」
「“最後”じゃなくて“次の一回の先頭”だから」
中村は、あっさり言った。
「九番が出塁すれば、一番から上位が回る。相手の守備が一瞬でも雑になったら、そこで畳みかけられる。九番は“二番手の一番”だ」
「……なるほど」
田島は、守備固めにも代走にも出られる。バントもできる。粘って四球も取れる。そして何より、声を切らさない。夏の宝陵戦で一度だけ守備に入ったとき、田島は技術より先に声で守った。だから九番。弱いから下に置かれたんじゃない。繋ぐために置かれた。
田島が視線を上げ、敦と目が合う。照れくさそうに顎を引く。敦は小さく頷き返した。
(九番の意味は、“弱さ”じゃない。“役割”だ)
*
一回表。武庫工業の攻撃は三者凡退。港南の右腕は球速こそ目立たないが、低めの沈む球が厄介だった。打っても芯がずれる。
一回裏。篠原は立ち上がりから低めを徹底し、ゴロ二つと外野フライで三人。ライトの敦は声を切らさず、風を見て一歩だけ守備位置を動かす。
(二回、三回で焦れたほうが負ける)
試合は四回まで、両チーム無得点のまま進んだ。港南はバントの構えで内野を揺さぶり、右へ転がして進める。武庫工業は受けない。中村が間を作り、村井がベースカバーへ走り、長谷川が確実に捕る。派手さはないが、線が曲がらない。
*
五回表。先頭の佐伯が四球で出塁し、敦の打席が回ってきた。
篠原がベンチ前で短く言う。
「形を作れ」
「はい」
敦は初球の外角低めを見送り、二球目の甘く入った球を右方向へ叩きつけた。二塁手の正面――だが走者が動いている。ヒットエンドラン。二塁封殺は間に合わず、一死一、二塁。
「ナイス、最低限!」
佐伯が二塁ベース上で声を出す。一死一、二塁から六番が送り、二死二、三塁。七番の村井は外野へ運んだ。浅いが、港南の外野の一歩目が遅れる。三塁走者がタッチアップ。
「セーフ!」
武庫工業が先制。1―0。敦はベンチ前でヘルメットのつばを押さえ、息を吐いた。
(取れる一点を取った。ここからは守り切る時間だ)
*
しかし港南は簡単には折れなかった。
六回裏。先頭が内野安打で出塁。送りバントで一死二塁。
三番が右へ転がす。進塁打の形――だが打球が弱く、二塁手が捕って一塁へ送る。
送球がわずかに遅れ、打者走者は滑り込むように駆け抜けた。
「セーフ!」
一死一、三塁。嫌な形で、同点の匂いが濃くなる。
四番の打球は浅いライトフライになった。敦のところだ。
(追い風。前に落ちる)
敦は一歩目を前へ。迷いはない。捕球してすぐ本塁へ――と一瞬考え、すぐ捨てた。三塁走者のスタートが早い。間に合わない。
(刺せない。なら、次を止める)
敦は二塁へ返球し、走者の進塁を一つ潰す。それでも三塁走者は生還し、1―1の同点。
ベンチから佐伯の声が飛ぶ。
「いい判断! 次を切れ!」
同点は嫌だ。だが、崩れるよりずっといい。敦はグラブの中で拳を握り、視線を切らさなかった。篠原が次打者を低めで詰まらせ、内野ゴロ。追加点は許さずに終えた。
*
七回。篠原は踏ん張り、同点のまま八回へ入った。球数が増え、肩が重くなっているのがライトからでも分かる。ベンチで監督が敦を呼んだ。
「山下。八回から行く」
「はい」
マウンドへ向かう途中、敦は一度だけ深く息を吸った。視界の端に、透明なスクリーンが淡く灯る。
ピッチャー
スタミナ S
コントロール S
球速 153km
メンタル ★2
(外角低め。線を曲げない)
捕手は佐伯。ミットが低く沈む。敦は頷き、先頭を外角低めのストレートで詰まらせて二ゴロ。次はスライダーで外野フライ。
三人目は粘った。二球目、バットの先が触れた打球が、佐伯のミットの先を叩く。
カツ、と鈍い音。
佐伯の肩が一瞬だけ跳ねた。だが顔に出さない。ミットを落とさない。敦は間を置かず、次の球をフォークで落とす。バットが空を切る。
三振。三者凡退。
ベンチへ戻ってから、佐伯がようやく小さく息を吐いた。
「……指、曲がらねえ」
篠原が即座に顔を上げた。
「捕手、無理か」
「九回は無理だ。受けると開かねえ」
監督が短く言う。
「田島。用具だ。九回はお前が受ける」
田島が頷き、無言で防具を抱えた。
*
八回裏。二死から田島の打席だった。
田島は初球のボール球を見送り、二球目のストライクをファウル。三球目、外角の沈む球にも食らいつき、またファウル。四球目、内角を詰まらされる――が、折らずに前へ飛ばした。
三塁前の弱いゴロ。だが田島の一歩目は速い。全力疾走。一塁への送球が一瞬遅れ、判定は――セーフ。
九番が粘って塁に出る。狙いどおり。続く一番の村上が右前へ落とし、二死一、三塁。二番の中村が粘って四球を選び、二死満塁。
三番の佐伯が打席に入る。指は痛む。だからこそ、振らないと決めた顔だった。ストライクを一つ見送り、ボールを二つ見送る。カウントが揺れるたび、港南の投手の肩が少しずつ上がる。
フルカウント。六球目。外角低め――わずかに外れた。
「ボール! フォアボール!」
押し出し。三塁走者の田島が生還し、武庫工業が勝ち越す。
「2―1!」
ベンチは騒がない。次の守りの準備に入る。佐伯は一塁へ歩きながら、篠原へ目だけで合図した。
(九回、受けるのは無理だ。頼む)
篠原が頷き返す。
*
九回表。敦はマウンドに立つ。捕手は田島。八回の走塁の息が、まだ残っている。
「田島、呼吸」
敦が言うと、田島は鼻から息を吸い、ゆっくり吐いた。
先頭打者。外角低めのストレート。ストライク。二球目、同じところ。ファウル。三球目、フォーク。空振り。
「一人!」
二人目は粘る打者だった。低めのファウルで食らいつき、最後は三遊間へ転がした。中村が深い位置で捕って投げる――間に合わない。内野安打。
「ワンアウト一塁!」
港南ベンチの声が、急に大きくなる。
(九回は、一本の線だけで終わるほど甘くない)
三人目が送りバント。ここは定石。守りの形が試される。田島のミットが胸の前で小さく揺れ、敦はうなずいた。高めに外す。次の球。バント。投手前。
敦は迷わず一塁へ。確実に一つ。ツーアウト二塁。
四人目。外角低めを狙われ、ライト前へ落とされた。二塁走者が三塁を回る。ホーム突入は微妙だが、港南は迷わない。回す。
ライトの篠原が前進して捕り、中継の村井へ。村井は迷わず本塁へ。
田島が体を投げ出すようにしてワンバウンドを止め、ボールを探る。その一瞬、走者はホームへ滑り込んだ。
――セーフになってもおかしくない。
だが田島は、膝でベース前を塞ぎながらボールを握り直し、タッチに行く。
「アウト!」
球審の手が上がった。スタンドがどよめき、武庫工業ベンチの誰かが息を吐いた音が聞こえた。
2―1。初戦突破。
敦はマウンドで、胸の奥の固いものを一つだけ崩した。
(背中を預けるって、こういうことだ。俺が完璧じゃなくても、線が切れない)
*
整列が終わり、ベンチへ戻ると、田島がマスクを外して深く頭を下げた。
「すみません……最後、止めるので精一杯でした」
「謝るな」
篠原が言う。
「止めた。握った。タッチした。全部できた。お前は逃げなかった。それで十分だ」
佐伯はベンチの隅で指を冷やしながら、口だけ動かした。
「田島……よく受けた。球、怖かったろ」
「……怖かったです。でも、目は閉じませんでした」
敦も田島の肩を軽く叩く。
「九番の意味、分かったな」
「……はい。出るのも、繋ぐのも、受けるのも……全部」
「そう。“繋ぐ”だ」
田島の目が、ほんの少しだけ強くなる。
*
夜。寮の自室。敦がノートを開いた瞬間、視界にノイズが走った。
透明なスクリーン。
【秋季大会 一回戦 勝利】
【投球:2回 失点0】
【打撃:進塁打】
【守備:判断 成功】
【臨時バッテリー:成立】
【メンタル ★2(維持)】
(増えてはいない。でも、落ちてもいない)
敦は机の隅に置いた、縫い目のほつれたボールに指を置く。助けられて勝った。今日も助けられて勝った。それでいい。背中を預けられる場所が増えたなら、次は自分が誰かの背中になる。
敦はノートに一本の線を引いた。外角低め。ほんの少しだけ下。
そして九番の名前の横に、小さく書く。
――「繋ぐ」。
夏で切れた線は、もう一本だけじゃない。線は、チームの人数分ある。それを同じ方向へ伸ばせたとき、武庫工業はもっと強くなる。
敦はスクリーンを消えるまで待たず、ノートの端に小さく三つだけ書いた。
良かったこと:九回でも呼吸を切らさなかった。
直すこと:勝負球の高さを、あと指一本だけ下げる。
直すこと:捕手が変わっても、迷いを増やさない。
眠りに落ちる直前、敦は小さくつぶやいた。
「九番は、最後じゃない。次の一回を始める場所だ」
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