第41話 勝ち方を覚える

 勝った翌朝の空気は、前日よりも重かった。

 歓声や拍手は昨日のグラウンドに置いてきたはずなのに、宿舎の廊下を歩く足音だけがやけに大きく響く。夏の大会は、勝てば勝つほど身体が軽くなるわけではない。むしろ、背負うものが増える。


 武庫工業は、勝ち慣れた側のチームではない。

 だからこそ、浮ついた瞬間がいちばん危ない――敦は、その危うさを怖いほど理解していた。


 試合前のミーティングは短かった。


「今日の相手は神港学園。守りが固い。四球、犠打、進塁打。形を作って一点を取りにくる。守備の一球が重いぞ」


 監督の言葉に、大塚主将が続ける。


「俺たちも同じだ。焦らず、ひとつずつ。勝つのは派手さじゃない。丁寧さだ」


 敦は背筋を伸ばしてうなずいた。

 “丁寧さ”は気合いではない。送球を乱さない。捕球で弾かない。間に合わない球を無理に刺しにいかない。やるべきことを一つずつ積み上げるだけだ。


 そして監督が最後に付け加えた。


「山下は今日は最初、ライトだ。昨日までの投球の負荷もある。終盤に勝負所が来たら行く」


「はい」


 納得できた。

 最後まで、この試合の中に居続ける――それでいい。


     *


 球場のライトは風を一番受ける。

 敦は定位置付近でキャッチボールを終え、グラブの中でボールの感触を確かめた。芝の跳ね方、フェンスまでの距離、太陽の位置。試合が始まってから気づくようでは遅い。


 ブルペンでは篠原先輩が肩を作っている。捕手は佐伯先輩。

 ベンチ前から守備確認の声が飛ぶ。


「山下、外野から声を切らすなよ」


「はい、佐伯先輩」


 それだけで十分だった。余計な言葉はいらない。

 敦は風の流れに合わせて一歩だけ位置をずらし、スパイクで土を踏み固める。風は右から左。高い打球は戻される。低いライナーは押されて伸びる。


 守備は判断の連続だ。

 判断が遅れたら、神港学園は容赦なく次の塁を奪ってくる。


     *


 一回表。篠原先輩は低めを丁寧に突き、三者凡退で立ち上がった。

 敦はライトから声を飛ばす。


「篠原先輩、いい入りです!」


 篠原先輩が軽く手を上げる。呼吸が揃う。


 神港学園の打者は、派手に振り回してこない。ファウルで粘り、甘い球だけを前に運ぶ。一本の長打ではなく、毎打席の小さな圧で守備の集中を削りにくる。


 一回裏。武庫工業は三番・佐伯先輩がセンター前に運んだが、四番・大塚主将の打球はレフト正面。

 相手投手も崩れない。どちらも“無理をしない”まま、試合が進んでいく。


 二回、三回。

 神港学園はバントの構えを見せて内野を揺さぶり、カットで球数を使い、ゴロで右方向へ転がしてくる。

 武庫工業は受けない。中村が送球を急がず、大塚主将が一歩目を速くし、長谷川が確実に捕る。外野も前進守備と定位置の切り替えを迷わない。


 敦はライトから、その連鎖を見つめながら声を切らさなかった。

 声は、守備の糸だ。誰かが黙った瞬間に、糸がたるむ。


 四回表、敦のところにも打球が来た。

 外角を流した打球が高く上がり、風に押されて想像より伸びる。敦は最初の一歩を前に踏み出した自分を即座に捨て、背走へ切り替えた。視線を切らさず、最後に身体を沈めて捕球する。


 グラブが乾いた音を立てた。


「ナイス!」


 内野から声が飛ぶ。

 敦は無理に刺しにいかず、二塁へ確実に返球した。焦りは一つのミスを呼び、ミスは連鎖する。神港学園の野球は、そこを狙っている。


     *


 試合が動いたのは五回表だった。


 先頭打者に四球。

 続く打者が迷いなく送り、一死二塁。


 三番は右へ転がす。狙いすました進塁打。二死三塁。

 「一点」を取る形が、最初から決まっている。


 四番。篠原先輩の外角低めを逆らわずに運ばれ、打球は三遊間を抜けた。

 三塁走者が生還し、0―1。


 派手ではない。だが、最も嫌な失点だった。

 敦はライトから内野へ声を飛ばす。


「まだ一点です! 大丈夫です!」


 篠原先輩は表情を崩さず、次の打者へ向き直った。

 失点直後に崩れるのは球が悪いからじゃない。“次の一球”から逃げるからだ。篠原先輩は逃げない。


 ベンチへ戻るタイミングで、敦は深く頭を下げる。


「篠原先輩、まだ一点です。次もお願いします。僕も外から支えます」


「……任せろ」


 短い返事に迷いはない。

 その声で、敦の胸の奥の焦りが少しだけ落ち着いた。


     *


 六回。篠原先輩は踏ん張り、相手に追加点を与えない。

 こちらも走者を出すが、神港学園の守備が固い。外野も一歩目が速い。三塁が遠い。


 六回裏は一番から始まって、三番で止められた。

 だから七回裏の先頭は――四番だ。


 そして七回表。監督が敦を呼んだ。


「山下。行くぞ」


「はい」


 敦はグラブを握り直し、マウンドへ向かった。

 交代に伴い、篠原先輩がライトへ回る。打順は変わらない。九番は九番のままだ。


 捕手は佐伯先輩。ミットが乾いた音を立てる。


「山下、低めでいい。先頭を簡単に出すな」


「はい、佐伯先輩」


 初球、外角低めのストレート。

 二球目、スライダーで空振り。

 三球目、沈む球で詰まらせて二ゴロ。


 テンポを渡さない。打者に“待つ時間”を与えない。


 次は外野フライ。打球はライトへ上がる。

 篠原先輩が落ち着いて一歩目を取り、風に押される前に前進して捕る。


 最後はショートゴロ。三者凡退。


 ベンチへ戻ると、佐伯先輩が一言だけくれる。


「いい。今のまま続けろ」


「ありがとうございます」


 その一言が、背中を真っすぐにした。


     *


 七回裏。先頭は四番・大塚主将。


 大塚主将がセンター前へ運び、無死一塁。

 続く五番、敦の打席。


 一塁上の大塚主将が、ほんのわずか腰を沈める。

 走る合図――ヒットエンドラン。


(併殺を消して、二塁を取る)


 初球、大塚主将がスタート。

 敦は外角の球を右へ叩きつけ、二塁手の前へ転がした。


 二塁手は二塁を見たが、走者はもう通過している。

 封殺を捨てて一塁へ。


 敦はアウト。だが大塚主将は二塁へ。


「ワンアウト二塁!」


 ただ転がしたわけじゃない。

 “次へ進むため”のアウトだ。


 六番・長谷川が粘って四球。一死一、二塁。

 七番・村井が低めを拾い、センター前へ。


 二塁走者の大塚主将は三塁を回る。センターは前進守備で返球も速い。

 それでも三塁コーチは回した。


 ホームでクロスプレー。土煙。

 球審の腕が横に広がる。


「セーフ!」


 1―1。追いついた。


 続く八番・高倉は外野フライで二死。

 九番・篠原先輩は粘ったが、最後は内角球を詰まらされて三ゴロ。チェンジ。


 敦はベンチで、打順を頭に刻む。


(八回裏の先頭は一番・村上)


 こういう当たり前を曖昧にしない。

 それが、勝つための最低条件だ。


     *


 八回表。敦はゼロで抑えた。

 先頭をゴロで取り、次を外野フライ。最後は見逃し三振。三人で終える。


 八回裏。

 先頭は一番・村上。


 村上がセンター前へ運ぶ。ノーアウト一塁。

 二番・中村は初球で送りバント。一死二塁。


 ここで三番・佐伯先輩。

 相手は外角で逃げ、ボールが先行する。ストライクを取りに来た球だけが、わずかに甘くなる。


 三球目。外角寄りの球。

 佐伯先輩は逆らわずに振り抜いた。


 打球は一、二塁間を抜け、ライト前へ。

 二塁走者の村上が三塁を回る。ライトが前で捕って返すが――間に合わない。


「セーフ!」


 2―1。逆転。


 スタンドが沸く。だがベンチの空気は浮つかない。

 ここからが“勝ちきる”時間だと、全員が知っている。


 四番・大塚主将は、進塁打の意識で右方向へ転がす。二死二塁。

 五番・敦は外角を見極めて四球。二死一、二塁。追加点を狙える形は作った。

 けれど六番の打球は外野フライ。チェンジ。


 追加点は取れない。

 それでもいい。神港学園相手に必要なのは、守り切れる一点だ。


     *


 九回表。

 敦はマウンドで一度だけ深く息を吸った。視線の先には佐伯先輩のミット。


「山下、先頭を出すな」


「はい、佐伯先輩」


 初球、外角低めでストライク。

 二球目、沈む球で詰まらせ、ショートゴロ。ワンアウト。


 二人目は粘る。ファウルが続く。

 敦は焦らない。球数が増えても、投げる場所は変えない。低めを外さない。


 最後はセカンドゴロ。ツーアウト。


 最後の打者。

 球場が立ち上がる。視界の端で、篠原先輩がライトからじっと見ているのがわかった。


 敦は腕を振った。

 外角低め。ミットが鳴る。打者のバットが空を切る。


「ストライク、スリー!」


 試合終了。2―1。

 八回でひっくり返し、九回を締めて勝った。


     *


 敦はマウンドを降り、まず佐伯先輩に深く頭を下げた。


「佐伯先輩、ありがとうございました。最後、落ち着けました」


「お前が低めを外さなかったからだ。よくやった」


「ありがとうございます」


 次に大塚主将へも頭を下げる。


「大塚主将、七回のサイン、助かりました。あれがなかったら形になっていませんでした」


「形にしたのはお前だ。次も同じだぞ。勝ち越したら、最後まで締める」


「はい」


 派手なサヨナラではない。

 だが、武庫工業にとっては確かな一勝だった。


 勝ち方は、劇的な一瞬だけで覚えるものじゃない。

 一球を大事にして、一つ進めて、最後まで崩れない――その積み重ねが、武庫工業を前に進めている。


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