第42話 一本の線
球場に着いた瞬間、相手の「揃い方」が違うと分かった。神戸国際大附属。アップの列が乱れず、キャッチボールの返球は一直線で、ノックの送球も迷いがない。声が大きいのではなく、動きが揃っている。その静かな圧が、スタンドのざわめきより先に胸へ入ってきた。
武庫工業は三塁側ベンチ。敦はライトの定位置でグラブを握り直す。先発は篠原先輩。敦は途中から投げる準備をしつつ、守備で流れを切らさない。それが今日の役目だった。
捕手の佐伯先輩が、マスク越しではなく素顔のままベンチ前で声を落とす。
「山下。相手は粘ってくる。焦ってストライクを取りに行くと痛い目を見る。低めで、外野は声を切らすな」
「はい、佐伯先輩」
大塚主将が内野陣に目を配り、短くうなずく。普段より言葉が少ない。言葉が少ないのは、余計なものを削っている証拠だった。
敦の視界の端で、透明なスクリーンが一度だけ灯った。
【集中:高い】
【呼吸:浅い】
敦は誰にも言わず、鼻から息を吸って、ゆっくり吐く。スクリーンより、自分の身体の反応のほうが正直だ。吐いた分だけ胸が落ち着いた。
*
一回表、武庫工業の攻撃。先頭は一番・村上。
村上は初球の外角を右へ転がすが、二塁手が回り込み、一塁アウト。一死。
二番・中村は四球を選ぶ。一死一塁。
三番・佐伯先輩は低めを強く叩き、鋭いライナー――だが二塁手の正面。捕られて二死一塁。
四番・大塚主将は三ゴロ。三塁手が確実に一塁へ送って三死。
相手の守備が、こちらの「いい当たり」を平然とアウトに変える。敦はライトで小さく舌を噛んだ。焦るな。今日の相手は、焦りを点に変える。
一回裏。篠原先輩の立ち上がり。
先頭を遊ゴロで一死。
二人目にセンター前を許し、一死一塁。
次打者は送りバント。三塁線に転がされたが、篠原先輩が素早く三塁へ送って封殺――と思った瞬間、三塁手が一瞬迷った。だが大塚主将が迷いを切り、ベースを踏んでアウトを取る。二死一塁。
四番は外角低めを打たせて二ゴロ。三死。
守備の一瞬の迷いを、主将の一歩が消した。ベンチの空気が少しだけ締まる。
*
二回表。この回の先頭は五番・敦。
敦は外角低めを叩き、二ゴロ。一死。
六番・長谷川が左前へ運ぶ。一死一塁。
七番・村井が粘って四球。一死一、二塁。
八番・高倉がバントの構えを見せる。相手三塁手が前へ出た。捕手も立ち上がり、球種を読みにくくしてくる。
高倉はサインを確認し、今度はきっちり転がした。投手の前。投手が三塁を見るが間に合わない。二塁へ送って封殺、そして一塁へ――送球は間に合わず一つだけ。二死一、三塁。
九番・篠原先輩。バットを短く持つ。
初球を見送り、二球目の外角を逆らわずに運ぶ。打球はセンター前に落ちた。
三塁走者の長谷川がホームへ滑り込む。送球は速い。土煙。捕手のタッチ――
「セーフ!」
武庫工業が先制。1―0。
二塁走者の村井は無理をせず二塁で止まる。二死一、二塁。
一番・村上が続く。村上は外角球を叩きつけて一、二塁間へ。しかし二塁手が追いつき、一塁アウト。三死。
追加点は取れない。それでも、先に一点を取れた意味は大きい。
二回裏、神戸国際大附属の攻撃。
先頭が四球。無死一塁。
次打者は迷いなく送りバント。一死二塁。
三番は右へ転がす進塁打。二死三塁。
相手は形を崩さない。篠原先輩の球数を増やし、確実に一点を取りにくる。
四番が打席に入ったところで、敦はライトから声を飛ばす。
「篠原先輩、低めです!」
篠原先輩がうなずいた。外角低め。打球は浅いセンターフライ。センターの村上が前へ出て捕り、すぐにホームへ投げる。三塁走者がタッチアップ。
送球はワンバウンドで捕手へ。佐伯先輩が体で止めて、落ち着いてタッチ――
「アウト!」
同点を許さず、三死。
*
三回、四回。点は入らない。互いに「形」は作る。だが、最後の一本が出ない。
四回裏、神戸国際大附属がついに同点に追いつく。1―1。
武庫工業のベンチは崩れない。大塚主将が内野に手を叩いて声をかけ、篠原先輩がうなずく。それだけで十分だった。
*
五回表。武庫工業は一死から佐伯先輩の二塁打と、大塚主将の四球で一、二塁を作る。
だが敦は詰まらされて二飛。長谷川も遊ゴロ。三死。
五回裏、篠原先輩は三者凡退。だが球数が増え、肩に疲れが滲み始めていた。敦はライトでボールを握り直しながら、次の準備を頭の中で反復した。
*
六回裏は九番で切られていた。だから――七回表、先頭は一番・村上。
村上が内野安打で出る。中村が送る。佐伯先輩が右前へ運び、一死一、三塁。
大塚主将がセンターへ運び、タッチアップで一点。2―1。武庫工業が勝ち越した。
追加点は取れない。それでも、取れる一点を取り切った事実が重い。
七回裏。篠原先輩が先頭を抑える。だが二人目にヒット。ベンチが動く。
「八回は山下だ」
敦はうなずき、ライトの奥で肩を作り始めた。
*
八回裏。敦がマウンドへ。篠原先輩はライトへ回る。
透明なスクリーンが淡く灯った。
【疲労:少】
【集中:維持】
先頭を二ゴロで一死。
次を四球。一死一塁。
三番は右前へ運び、一死一、三塁。
球場の空気が一気に重くなる。
四番。相手の主砲。
佐伯先輩がマウンドに来て一言だけ言う。
「低め。焦らないで」
「はい」
敦は外角低めへ投げ込む。
打球はセンターへ深いフライ。三塁走者がタッチアップで生還。2―2。
同点。だが、まだ終わりではない。二死一塁。
次打者は外角に泳がせて二ゴロ。三死。
敦は表情を崩さずマウンドを降りた。点は取られた。だが崩れてはいない。崩れたら、ここで終わる。
*
九回表、武庫工業は三者凡退。
点を取り返せないまま、最後の守りへ向かう。
敦はマウンドに立ち、深く息を吐いた。スクリーンがもう一度だけ、短く点滅する。
【呼吸:整う】
【集中:上げる】
九回裏。先頭の七番が内野安打。無死一塁。
八番が送りバントを決め、一死二塁。
九番はセンターフライ。走者は戻り、二死二塁。
二死二塁。ここで一打が出れば終わる。
敦は低めへ投げ込む。ボール先行。次のストライク。フルカウント。
(一本の線。外角低め。あの線だけは曲げない)
最後の球――外角低め。
だが、ほんのボール一個ぶん浮いた。
打球は左中間を割り、フェンスまで転がる。二塁走者が三塁を回り、ホームへ。
返球は中継に入るが、間に合わない。
「セーフ!」
サヨナラ。3―2。
神戸国際大附属が勝ち、武庫工業の夏が終わった。
*
敦はマウンド上で膝に手をついた。悔しさが喉の奥で固まる。
スクリーンが、薄く更新される。
【投球:2回 失点2】
【打撃:1安打】
【守備:無失策】
数字は慰めにはならない。だが、次に何を積み上げるべきかだけははっきりした。
ベンチ前で輪になったとき、佐伯先輩がマスクを外し、静かに言った。
「悔しい。でも、ここまで来たのは偶然じゃない。次につなげよう」
大塚主将も、全員を見渡してうなずく。
「今日で終わりではない。負け方も含めて、全部持ち帰ろう。来年、ここで勝つために」
誰も泣かなかった。
ただ、道具を丁寧に整え、グラウンドに深く一礼した。
敦は最後にもう一度だけ、マウンドの土を見た。
一本の線は切れた。でも、次の線はここから引ける。
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