第40話 九回、逆転の一撃
スコアボードには、変わらず冷たい数字が灯っている。
宝陵高校2―1武庫工業。
八回を終えても、その差は埋まらなかった。
敦は八回のマウンドを投げきったところで監督に肩をたたかれ、ライトの守備位置へ回っている。
代わってマウンドに上がったのは、二年生右腕・篠原だ。
(ここをゼロで抑えれば、まだ望みはある)
ライトの守備位置から、敦は篠原の背中をじっと見つめていた。
*
九回表、宝陵の攻撃。
先頭打者が、初球を狙い澄ましたようにセンター前へ運んだ。
「ノーアウト一塁!」
スタンドがざわつく。
続く打者は、初球からはっきりとバントの構えを見せた。
篠原の投じたストレートを、三塁線へきっちりと転がす。
大塚主将が素早く前進して捕球し、一塁へ送球。アウト。
その間に、一塁ランナーは二塁へ進む。
「ワンアウト二塁!」
(ここをしのげるかどうかだな……)
三番打者は、勝負強さで知られる右打ち。
篠原は低めへの変化球と外角のストレートを丁寧に続け、簡単には甘い球を投げない。
粘られた末、カウント2―2。
五球目、外角寄りのストレートを合わせられた。
打球は、やや前に落ちるライト前へのフライ。
「前!」
コーチャーの叫びと同時に、二塁ランナーが三塁を蹴って本塁へ突っ込んでくる。
(来る!)
敦は前進しながらワンバウンドで打球をつかみ、体をひねってそのままホームへ全力でボールを放った。
低く伸びる送球。
白球は一直線にキャッチャーミットへ吸い込まれる。
「ホーム!」
佐伯がホームベース手前でボールを受け、そのまま滑り込んでくるランナーの足元にタッチした。
「アウト!」
球審の右手が高く上がる。
スタンドが大きなどよめきに包まれた。
「ナイススロー、山下!」
篠原がマウンドから叫び、敦はグラブを軽く掲げて応えた。
打者走者は一塁に残り、ツーアウト一塁。
続く四番打者には、篠原が外角低めへのスライダーを続け、最後はショート正面のゴロに打ち取る。
中村が落ち着いて一塁へ送球し、スリーアウトチェンジ。
(よし……これで、まだ終わらない)
敦は胸の奥の緊張をひとつ吐き出し、守備位置からベンチへと駆け戻った。
*
九回裏。
スコアは、宝陵2、武庫工業1のまま。
ベンチ前に全員が集まり、円陣が組まれる。
「この回は七番からだ」
大塚主将が、ひとりひとりの顔を見回す。
「ここで逆転して終わらせるぞ。自分のスイングをしろ。ビビったやつから先に終わる」
「はい!」
返事は少し嗄れている。
それでも、その目に諦めの色はなかった。
*
バッターボックスに向かうのは、七番・村井。
二塁を守るその小柄な体からは想像しにくいが、コンタクト能力はチームでも随一だ。
初球、外角低めのストレートを見送ってボール。
二球目、真ん中寄りのスライダーをファウル。
三球目、外角高めのストレートをコンパクトなスイングで弾き返した。
打球はセンター前へ、きれいに抜けた。
「ナイスバッティング!」
ノーアウト一塁。
スタンドのざわめきが、一段階大きくなる。
続く八番・高倉には、すぐに送りバントのサインが出た。
初球はボール。
二球目、真ん中低めに入ってきたストレートを、高倉はきっちり一塁側へ転がす。
ピッチャーが前進して捕球し、一塁へ送球。アウト。
村井は二塁へ進む。
「ワンアウト二塁!」
九番・矢部は、この試合でまだヒットがない。
それでも、バットを強く握りしめて打席に入った。
外角のスライダーに空振り。
高めの釣り球を見送り、カウントは1―1。
だが、三球目のフォークにタイミングを外され、最後は空振り三振に倒れた。
「ツーアウト二塁!」
(ここから上位打線。まだ望みはある)
一番・村上が、静かに打席へ向かう。
初球は外角ボール。
二球目のストレートをファウルで後ろへ飛ばす。
三球目、内角をえぐるストレートをよくよけてボール。
カウント2―1。
外角のスライダーを見送り、フルカウント。
そして六球目。
外角ぎりぎりのストレートを、村上はバットを振り出しかけて止めた。
球審の右手は、上がらない。
「フォアボール!」
ツーアウト一、二塁。
ここで二番・中村。
守備ではここまで何度もピンチを救ってきたショートストップが、バットでも役目を果たそうとバッターボックスに入る。
初球、外角低めのストレート。見送りストライク。
二球目、同じコースのスライダーをファウル。
「ノーツー……」
スタンドから、思わず息をのむ気配が伝わってくる。
(三振だけは避けたい。前に飛ばす)
三球目、インコース寄りに甘く入ったストレート。
中村は、必死に食らいつくようにバットを出した。
カキン。
詰まり気味ながらも、打球はセンター前へと転がっていく。
「行けぇ!」
二塁ランナーの村井は、打球が抜けた瞬間に全力でホームへ向かっていた。
センターの前進がわずかに遅れ、三塁コーチは迷わず腕を回す。
返球と、村井のスライディング。
ホームベース上で交差する。
「セーフ!」
球審のコールに、スタンドが一気に沸いた。
同点。
スコアは2対2になる。
その間に、一塁ランナーの村上は三塁へ。
打った中村は、一塁ベース上に残った。
「ツーアウト一、三塁!」
(追いついた……でも、ここで終わらせる)
三番・佐伯が打席に向かう。
宝陵バッテリーはマウンドで顔を見合わせ、慎重にサインを交わした。
初球、外角へのストレート。わずかに外れてボール。
二球目、内角寄りのストレートをファウル。
三球目、落ちる球をしっかり見送ってボール。
2―1。
四球目、外角低めのスライダー。
佐伯はバットを動かさない。
「スリー・ボール!」
(勝負を避けられるかもしれない)
五球目、外角に外したストレート。
球審の右手は、やはり上がらなかった。
「フォアボール!」
ツーアウト満塁。
ランナー三塁・村上、二塁・中村、一塁・佐伯。
そして、打席に向かうのは四番・大塚主将。
*
ヘルメットをかぶり直しながら、敦の横を通り過ぎる瞬間、大塚はぽん、と敦の胸を軽く叩いた。
「ここで決める。見てろ」
「お願いします」
敦は、ベンチ前でバットを握りながらうなずいた。
この回、もし大塚で決着がつかなければ、次は自分だ。
(どっちに転んでも、これが最後の打者になる)
そんな予感とともに、敦は大塚の背中を見送った。
バッターボックスに入った大塚は、一度バットを肩に担ぎ、深く息を吐いた。
初球、外角の様子見のストレート。見送りストライク。
二球目、インコース寄りのスライダー。これも見送ってボール。
カウント1―1。
三球目、外角低めへのストレート。
今度はわずかにストライクゾーンを外れた。
「ボール!」
2―1。
(ここで甘く来るか……?)
キャッチャーは、外角寄りにミットを構える。
だが、ピッチャーの指先から離れた球は、ほんのわずかに真ん中寄りへ抜けた。
甘い球。
大塚は、その瞬間を見逃さなかった。
踏み込んだ左足の上で体を回転させ、フルスイングする。
カキン!
打球は高くは上がらず、ライナー性の弾道で左中間へと飛んでいった。
「抜けろ!」
レフトとセンターが全力で追いかける。
二人の間を、白球が割った。
フェンスまで転がる打球。
三塁ランナーの村上は、打球が抜けた瞬間にホームへ向かって全力で走っていた。
続いて、二塁ランナーの中村も三塁を蹴ってホームへ。
スタンドから、悲鳴にも似た歓声が上がる。
レフトからの返球が内野に戻るより早く――
村上がホームベースを駆け抜けた。
「ゲームセット! 武庫工業、逆転サヨナラ勝ち!」
アナウンスの声が、歓声にかき消される。
スコアは、3対2。
宝陵高校を相手に、土壇場での逆転劇だった。
(勝った……)
敦はベンチ前でバットを握ったまま、その場にへたり込みそうになる膝をなんとかこらえた。
次の瞬間、グラウンドの中央で大塚に飛びつく仲間たちの輪が、どんどん膨らんでいく。
「主将、やりましたね!」「さすが四番!」
ヘルメットを脱いだ大塚は、照れくさそうに笑いながらも、力強く仲間たちの肩を抱き寄せていた。
そこへ、敦も遅れて駆け寄る。
「ナイスバッティングです、主将」
「お前があそこで止めてくれてなかったら、こんな場面もなかったけどな」
大塚は、さっきのライトからの本塁送球を思い出すように、敦の肩を軽くたたく。
「次はお前が決める番だ。どんどん前に出てこい」
「……はい!」
敦は、少しだけ目頭が熱くなるのを感じながら、全力で返事をした。
*
整列と校歌斉唱を終え、ベンチに戻る途中。
敦は、満員に近いスタンドを一度だけ振り返った。
歓声は少しずつ落ち着き、代わりに拍手が長く続いている。
(タイムリープして戻ってきた高校一年の夏で――本当に、こんな試合ができるとは思ってなかったな)
胸の奥で、じわりと実感が広がる。
その肩を、大塚が横から軽くつかんだ。
「山下。ここからだぞ」
「はい?」
「ここから先は、全部“初めて”の景色だ。
遠慮せず、全部取りに行くぞ。甲子園の景色も、その先も」
大塚の言葉に、敦は小さく笑った。
「じゃあ、遠慮なく肩を並べさせてもらいます」
「上等だ」
二人は顔を見合わせて笑い、そのままベンチへと歩き出した。
(やり直した高校一年の夏は――まだ、始まったばかりだ)
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