第34話 九回、覚悟の打席
九回表。
スコアボードには、まだ「1―1」が静かに並んでいる。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
武庫工業 0 0 0 0 0 1 0 0 1
神戸成朋 0 0 0 1 0 0 0 0 1
(ここで点を取れるかどうかで、この試合の意味が決まる)
この回の先頭は五番・山下敦。
自分がマウンドで投げ続けてきた試合を、自分のバットで動かすことができるかどうか――そんな、わかりやすい状況だった。
ヘルメットをかぶり直し、敦はゆっくりと打席へ向かう。
相手投手の表情には、さすがに疲労の色がにじんでいた。
額の汗を手の甲でぬぐい、何度も帽子のつばをさわっている。
(あっちも、球数はそれなりに投げている。そろそろ細かいコントロールに乱れが出てもおかしくない)
敦はバットを肩の高さで軽く揺らしながら、投手のフォームを視線でなぞった。
*
初球。
キャッチャーは外角低めにミットを構えている。
(ここは様子見のストレートか)
予想どおり、外角低めのストレート。
敦は腰を落として、しっかり見送った。
「ボール!」
わずかに低かった。
(二球目は、さっきと同じ軌道でストライクを取りにくるか、それとも変化球か)
キャッチャーのサインに、投手が小さくうなずく。
二球目。
また外角寄りだが、今度はわずかに高い。
ストレートではなく、少しだけ抜いた球だった。
(逃げていく球だ)
敦は強振ではなく、「芯に当てる」ことを優先してバットを出した。
カツン、と控えめな音。
打球は一塁側スタンド手前のファウルゾーンへころころと転がっていく。
審判は右手を横に振り、「ファウル!」とコールした。
スコアボードのカウントは、1ボール1ストライクに変わる。
(三球目。ここからが本当の勝負だ)
キャッチャーは、今度は内角寄りにミットを動かした。
(内角で詰まらせにくるか……)
敦は、ほんの少しだけスタンスを狭め、バットの位置を上げる。
三球目、内角寄りのストレート。
厳しいコースだ。
それでも、「見逃したくない」という気持ちが、体を半歩だけ前へ出させた。
スイング。
バットの根元寄りでボールをとらえた感触。
打球は三塁線ぎりぎりを転がっていく。
「フェア!」
三塁塁審の右腕が、内側を指した。
三塁手が前に出てボールを拾い上げるが、敦はすでに一塁を駆け抜けている。
「セーフ!」
一塁ベース上でブレーキをかけながら、敦は大きく息を吐いた。
(よし、とにかく出た)
ノーアウト一塁。
九回表、先頭打者出塁。
ベンチから、ざわめきにも似た声が上がる。
「ナイスバッティング!」
大塚主将がネクストサークルから叫ぶ。
そこへ、ベンチから監督がゆっくりと歩み出てきた。
(代走か?)
一瞬だけ、不安がよぎる。
自分がマウンドに立ち続ける以上、走塁で無理をさせたくない――そう判断されても、おかしくない場面だった。
しかし監督は、一塁ベース付近で立ち止まると、敦の方を見て軽く首を振った。
「代走は出さない。お前で行く」
「はい」
「無理なスタートは切らなくていい。確実に、打者の邪魔にならないリードだけ取れ」
「わかりました」
必要最低限の言葉だけを残し、監督はベンチへ戻っていった。
(信じてくれている、ということだ)
敦はそう解釈して、スパイクの裏で一塁ベースの感触を確かめた。
*
打席には六番・高倉。
ここで送りバントか、それとも打たせにいくか――ベンチの空気が、わずかに緊張を増す。
サインは、一度だけ。
高倉は、それを確認すると、ゆっくりとバッターボックスに入った。
最初の構えは、普通の打撃フォーム。
しかし、投手がセットポジションに入ると同時に、静かにバントの構えへと変えた。
(やはり送ってくる)
相手内野陣が、前進してくる気配がマウンドからでもわかる。
初球、外角高めのストレート。
少し浮いたボールだったが、高倉は無理にバットを出さずに見送った。
「ボール!」
(二球目で決めにくる)
敦はそう予想しながら、リードを一歩だけ広げる。
二球目。
今度はゾーンにしっかり入るストレートが来た。
高倉は、バットの上側でボールを殺すように当て、一塁線寄りに転がした。
一塁手が前へ出て捕球し、そのまま一塁ベースを踏む。
「アウト! ランナー二塁!」
敦は、スタートで無理をせず、それでいて全力で二塁へ駆け込む。
スライディングの土煙が上がり、セーフのコールが聞こえた。
(ノーアウト一塁から、一死二塁。最低限は作ってくれた)
ベンチから「ナイスバント!」の声が飛ぶ。
高倉はベンチへ戻りながら、軽くヘルメットのつばに手を添えた。
一死二塁。
打席には七番・村上。
*
(ここで一本出れば、かなり大きい)
村上はバットを握る手に、汗がにじむのを感じていた。
それでも、打席に入ると表情はいつもと変わらない。
相手バッテリーも、村上を「簡単に打ち取れる打者」とは思っていないようだった。
キャッチャーがマウンドに歩み寄り、何度か指でサインを示しては首を振られ、ようやくうなずきを得ている。
初球、外角へのスライダー。
村上は腰を落として見送った。
「ストライク!」
(思ったより甘い……振りにいってもよかった)
二球目、外角高めのストレート。
さっきよりも外へ逃げていくボール。
村上はバットを出しかけて止めた。
「ボール!」
カウント1―1。
(三球目、どっちだ)
キャッチャーは、また外角低めにミットを構える。
三球目、外角低めのスライダー。
村上は「見極めよう」としたが、わずかにストライクゾーンにかかっていた。
「ストライク!」
カウント1―2。
(追い込まれた……)
四球目。
今度は内角寄りのストレート。
村上は、詰まるのを承知でバットを出した。
だが、ほんの少しだけ振り遅れる。
空を切る音が、マスク越しのキャッチャーミットの音と重なった。
「スイング、バッターアウト!」
二死二塁。
村上は、悔しさを隠すようにヘルメットのつばを下げ、無言でベンチへ戻っていった。
(あそこまで外中心で来られると、内が一球だけでも余計に速く見えるんだよな……)
敦は二塁ベース上で、その配球を頭の中に刻んでいた。
*
打席には八番・河合。
「ここでお前が何とかしないと、下位打線がただ回っているだけになるぞ」
ベンチから、誰かが半分冗談、半分本気の声を飛ばす。
「わかっていますよ!」
河合は笑いながら返し、打席に入った。
小柄だが、力の抜けた良い構えだった。
初球、外角低めのストレート。
河合は見送る。
「ボール!」
二球目、外角へのスライダー。
今度はストライクゾーンに決まった。
河合は迷わずスイングする。
だが、わずかに上を叩いてしまい、セカンド正面へのゴロになった。
「二!」
相手セカンドは、落ち着いてボールをつかみ、一塁方向をチラリと見るだけで、そのまま一塁へ送球した。
敦はスタートを切るべきタイミングがなく、二塁ベースに戻るしかない。
「アウト! スリーアウト!」
ベースを駆け抜けた河合が、悔しそうに空を仰ぐ。
二塁走者の敦も、ヘルメットを軽くたたきながらベンチへと戻っていった。
(九回表、無得点。
あとは自分が九回裏をどう抑えるか)
ベンチに戻ると、矢部先輩がすぐに声をかけてきた。
「とりあえず、先頭で出たのはさすがだよ。あとは九回裏をゼロで締めるだけだな」
「はい」
敦は、まだ息の上がり方がそこまできつくないことを、自分で確認していた。
(ここまでの投球は悪くない。腕も振れている。
ただ、九回裏は下位打線からとはいえ、一つのミスがそのまま試合を終わらせる)
グラブを握り直しながら、敦はベンチの中で立ち上がる。
スコアボードを見上げると、数字はさきほどから動いていない。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
武庫工業 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
神戸成朋 0 0 0 1 0 0 0 0 1
(ここから先は、もう本当に“一点勝負”だ)
マウンドへ向かう足取りは、決して重くはなかった。
ただ、一歩一歩に乗る重さだけは、確実に八回までとは違っていた。
(九回裏。
ここからが、本当の勝負だ)
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