第35話 九回、最後の一球
九回表の攻撃が終わり、敦はベンチへ戻った。
スコアボードには、変わらず「1―1」が並んでいる。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
武庫工業 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
神戸成朋 0 0 0 1 0 0 0 0 1
(結局、九回表も点を取り切れなかったか)
ベンチ前で息を整えていると、主審が両ベンチの前まで歩いてきた。
まず三塁側、神戸成朋ベンチの監督と短く話し、次に一塁側の武庫工業ベンチに視線を向ける。
「監督さん、この回で最後にしましょう。時間もきていますので」
監督はうなずいた。
「わかりました。九回裏までで結構です」
そう答えると、ベンチ内を見回す。
「おい、聞いたな。これが最終回だ。九回裏を抑えたら、今日は1対1の引き分けだ」
視線が敦のところで止まる。
「山下、まだ行けるか」
「はい。大丈夫です」
「よし。最後まで行こう。一本でも抜ければ、そのままゲームセットになる。
ランナーが出ても慌てるな。いつもどおりでいい」
「はい」
敦は立ち上がり、グラブをはめ直した。
ベンチを出るとき、矢部先輩が背中を軽く叩く。
「ここまで来たら、最後まで締めてこい。お前のゲームだぞ」
その一言で、胸の奥のざわつきが少しだけ静まった。
*
マウンドに向かう途中、敦はもう一度スコアボードを見上げた。
(1対1。ここで一本出ればサヨナラ。
でも、ここをゼロで終わらせれば、内容としては十分“戦えた”試合になる)
プレートを踏み、帽子のつばを軽くさわる。
右手の中のボールが、少しだけ汗ばむ。
キャッチャーの佐伯がマスク越しに、いつもと変わらない声をかけた。
「行こう。先頭から、ひとりずつ」
敦は静かにうなずいた。
*
九回裏、先頭打者は九番。
細身の右打者が、バットを肩に乗せたまま打席に入る。
佐伯のミットは、まず外角高めを指した。
初球、外角高めのストレート。
敦は、全力よりわずかに力を抜きながらも、腕をしっかり振る。
ボールはミットの少し上を通り、ストライクゾーンの角に引っかかった。
「ストライク!」
審判の右手が上がる。
(二球目は、目線を変える)
二球目、外角低めのカーブ。
ふわりと浮き上がるように見えたボールが、ストライクゾーンの端に落ちる。
打者は、手を出さない。
「ストライク!」
あっという間に、ツーストライク。
(ここで遊びすぎる必要はない。決めにいく)
佐伯は、ミットを少し沈めた。
外角低め。フォークのサインだった。
敦は、指先の感覚に集中する。
三球目。
高めに出たように見えたボールが、途中からストンと沈んだ。
九番打者は、慌ててバットを出す。
しかし、白い球はバットの下をすり抜けていった。
空振り。
「三振!」
ベンチから、小さく安堵の声が漏れた。
(まず一人)
敦はマウンドの土を一度スパイクで踏み固め、深呼吸をした。
*
一番打者が、バットを軽く立てながら打席に入る。
この試合、何度も粘られて、簡単にはアウトになってくれない相手だ。
(ここを出すと、一気に嫌な流れになる)
佐伯のミットは外角低め。
初球、外角低めのストレート。
敦は、思いきりよく腕を振った。
ボールは狙いどおりのコースに決まり、ミットに収まる。
「ストライク!」
二球目、内角寄りのスライダー。
敦は、少しだけボールゾーンに外れるイメージで投げる。
打者は腰を引きつつ、バットを出そうとしてやめた。
「ボール!」
カウント1―1。
(三球目は、もう一度外でいい)
佐伯は、再び外角低めにミットを沈める。
ストレートのサイン。
敦は、同じ軌道をトレースするように腕を振った。
三球目、外角低めのストレート。
打者は、今度は迷わずバットを出した。
カツンという音とともに、打球は一塁側ベンチ上のファウルゾーンへ飛び込む。
「ファウル!」
カウント1―2。
(追い込んだ。ここからが勝負だ)
フォークで空振りを狙うか、ボール気味のストレートでつり上げるか。
敦が迷うより先に、佐伯のミットは外角高めへと移動した。
見せ球のストレート。
(上で振らせる)
四球目。
敦は、少しだけ力を込めて外角高めにストレートを投げ込んだ。
打者は、それが「フォークの出だし」に見えたのか、一瞬ためらいながらもバットを振りにいった。
しかし、ボールはバットの上を通り過ぎていく。
空振り。
「スイング、バッターアウト!」
二者連続三振。
スタンドのざわめきが、一瞬だけすっと引いた。
(よし、二人)
敦は、マウンド上で握っていた拳をそっと開いた。
*
ツーアウト、走者なし。
打席には二番打者が向かう。
ここまでしぶとく粘り、簡単には三振していない相手だ。
とはいえ、今はツーアウト、ランナーなし。
一本長打を浴びないかぎり、この回がいきなり終わることはない。
(でも、最後まで気を抜くわけにはいかない)
初球、外角へのストレート。
敦はコースを丁寧に狙い、やや抑えた力感で投げる。
ボールは外角寄りのストライクゾーンに収まり、ミットが軽い音を立てた。
「ストライク!」
二球目、カーブ。
今度はやや高めに浮き気味だったが、打者はバットを出してこなかった。
「ボール!」
カウント1―1。
(三球目で、甘い球だけは避けたい)
佐伯は、外角低めのスライダーを要求した。
敦は、ストレートより少しだけ腕の振りを遅らせるイメージでボールを離す。
三球目、外角低めに滑り落ちるスライダー。
打者は、一歩踏み込んでバットを出した。
カツン――。
打球は三塁線方向へのゴロになった。
「来た!」
三塁の大塚主将が前に出る。
ワンバウンドを体の正面で受け止め、そのまま一度だけ握りを確かめてから一塁へ送球した。
長谷川が、一塁ベースの上でしっかりと捕球する。
「アウト!」
三者凡退。
神戸成朋の九回裏の攻撃は、あっけないほどあっさりと終わった。
*
主審がマスクを外し、両ベンチの方を向く。
「試合、終了! 一対一の引き分けです!」
球場に、ふっと力の抜けるような空気が広がった。
敦はマウンドの上で、もう一度だけスコアボードを見上げる。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
武庫工業 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
神戸成朋 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1
(勝てなかった、って気持ちは正直ある。
でも、強豪相手に一失点で投げ切った、っていう事実もここに残っている)
そんなことを考えながら、敦はゆっくりとマウンドを降りた。
*
両チームが一塁側と三塁側に整列する。
互いに頭を下げ、「ありがとうございました!」の声がグラウンドに響いた。
挨拶を終えてベンチへ戻る途中、大塚主将が並んで歩きながら口を開く。
「お疲れ。よく投げたな」
「ありがとうございます」
「内容だけ見れば、十分合格点だ。
もちろん、点をやらなければ一番いいけどな」
そう言って、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべる。
「でもまあ、これでうちの“エース候補”がどういうボールを投げるか、全員にしっかり見せられた。
今日のところは、それでよしとしよう」
敦は、その言葉を頭の中で何度か反芻した。
(エース候補、か)
言葉の一つひとつが、まだ自分には少しだけ大きく感じる。
それでも、胸のどこかで、否定する気持ちはなかった。
ベンチに戻ると、矢部先輩がタオルを投げてよこした。
「ほら、汗ふけ。顔がちょっと疲れてるぞ」
「そうですか?」
「うん。でも、こんな接戦で九回まで投げ切ったのはデカいよ。
前の練習試合は完封で勝ったけど、今日みたいに一点もやれない空気の中で投げ続けられたのは、本当に自信にしていい」
「……はい」
「まだまだ伸びしろだらけだってことだ」
敦はタオルで顔を拭きながら、ゆっくりと肩を回した。
腕の重さはある。それでも、「もう投げられない」というほどではない。
(前は完封勝ち。今日は強豪相手に引き分け。
結果は違うけど、どっちも“次につながる”試合だ)
監督がベンチの前に立ち、選手たちを集めた。
「よし、今日はここまでだ。1対1の引き分け。
結果だけ見れば悪くない。内容はいろいろ課題があるが、それはまたあとで整理する」
全員の顔をひと通り見回すと、監督は少し声のトーンを落とした。
「ただ、一つだけ言っておく。
今日、相手は“本気の大会”じゃない。うちはもちろん本気だが、まだ始まったばかりだ。
勝った負けたに一喜一憂するよりも、何を掴んで次に持っていくかを考えろ」
それから、敦の方を見た。
「山下。よく投げた。
でも、お前のポテンシャルは、今日見せた分で終わりじゃないはずだ」
「……はい」
「これから先、もっと厳しい場面がいくらでも来る。
今日みたいな内容を“普通”にできるようになったときが、本当のスタートだ」
敦は、しっかりと正面からその言葉を受け止めた。
(まだスタートライン、か)
九回を投げ終えたばかりの腕が、じんわりと重く感じる。
けれど、その重さは嫌なものではなかった。
(ここからどこまで行けるか。
プロを目指すなら、こんなところで満足していられない)
グラウンドを見やると、もう次のチームがアップを始めていた。
日常の野球部の風景に、さっきまでの緊張感がすっと溶け込んでいく。
敦はグラブを持ち直し、小さく息を吐いた。
(次の登板では、“勝ち”を取りに行く)
胸の中で、そう静かに決める。
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