第33話 八回、揺れる流れ

 八回表。

 スコアボードには、相変わらず「1―1」が並んでいる。


(ここをどう乗り切るかで、九回の意味が変わる)


 この回の先頭は二番・北村。

 右打席に入った北村は、バットを低めに構え、いつもより少し長めに呼吸を整えた。


 相手投手も、さすがに疲れが見え始めている。

 帽子のつばをさわる仕草が、少しだけ増えてきた。


 初球、外角高めのストレート。

 北村は動かず、見送る。


「ボール!」


 二球目、外角低めのスライダー。

 今度はストライクゾーンに入ってきたが、北村は腰を落として見送った。


「ストライク!」


 カウント1―1。


(三球目は、ストレート系でストライクを取りにくる)


 そう読んで、北村はバットを握り直した。


 三球目、外角寄りのストレート。

 思ったより少しだけ内に寄ってきた。


 北村は迷わずスイングする。


 カキン、と乾いた音。

 打球はショートの左を抜けるかという高さのライナーになった。


「抜けろ!」


 ベンチから声が飛ぶ。


 だが、ショートが一歩目を素早く切り、ジャンプしてグラブを伸ばした。

 白いボールが、その中に収まる。


「アウト!」


 北村は、悔しそうに小さく舌打ちしながらベンチへ戻ってきた。


「悪くない。今のはショートを褒めるしかない」


 佐伯が、そう言って肩を軽く叩く。


     *


 一死走者なし。

 打席には三番・佐伯。


 キャッチャーは、最初から外角低めにミットを構えた。


 初球、外角低めのストレート。

 佐伯は見送る。


「ストライク!」


(二球目、変化球で誘ってくる)


 そう思いながら、佐伯はわずかにスタンスを広げた。


 二球目、外角へのスライダー。

 ボール半分ほど、ゾーンから外れている。


 見送り、ボール。カウント1―1。


 三球目、再び外角へのストレート。

 今度は、少しだけ高めに来た。


(逃していい球じゃない)


 佐伯は、強引ではなく、コンパクトに振り抜いた。


 打球はライト方向へ飛んでいく。

 最初はライナー気味だったが、途中から伸びが止まり、やがて失速した。


 ライトが一歩下がって、胸の位置でキャッチする。


「ライトフライ、ツーアウト!」


 佐伯は一塁を少し越えたところで足を緩め、静かにヘルメットのつばを押さえた。


(芯でとらえた感じはあるのに、最後にもうひと伸びが足りない)


 ベンチの前を通り過ぎるとき、大塚がぽつりと言った。


「風、ちょっと逆になってきてるかもな」


「そうですね……」


 佐伯は頷き、バットをラックに戻した。


     *


 ツーアウト走者なし。

 四番・大塚が打席に向かう。


 ここまで、内角を厳しく突かれ、なかなか快音が出せていない。


 初球、内角高めのストレート。

 今までと同じような配球だ。


 大塚は、あえて振らずに見送った。


「ボール!」


(二球目は、必ず外を使ってくる)


 読み通り、キャッチャーのミットは外角寄りへ動く。


 二球目、外角へのスライダー。

 きわどいコースだったが、審判の手は上がらない。


「ボール!」


 ツーボール・ノーストライク。


(ここから振りにいける)


 三球目、外角ストレート。

 今度はゾーンに入ってくる球だ。


 大塚は右方向を意識してスイングした。


 打球は一、二塁間への鋭いゴロ。

 セカンドが横っ飛びで抑え、そのまま一塁へ送球する。


「アウト!」


 グラウンドに響くボールの音より少しあとに、審判のコールが届いた。


 大塚は、一塁ベースをわずかに越えたところでスパイクのつま先を止めた。


(悪くない。でも、あと半歩が足りない)


 ベンチへ戻ると、誰も何も言わなかった。

 代わりに、全員が無言でバットを握りしめている。


(次の回、こっちの守備をどう乗り切るか。

 それで、九回の攻撃の意味が変わる)


 敦はマウンド用のグラブを握り、ゆっくりと立ち上がった。


     *


 八回裏。

 相手の攻撃は六番からだった。


 ライト前にヒットを打たれているバッター。

 敦の中でも、警戒度は高い。


 初球、外角へのストレート。

 打者は積極的にスイングしてきた。


 打球は一塁線寄りへの強いゴロ。


「任せろ!」


 長谷川が素早く横っ飛びでボールを抑え、そのまま一塁ベースにタッチする。


「アウト!」


 一球で一つ目のアウトを取れたことで、ベンチからも大きな拍手が起きた。


(理想の入り方だ)


 七番打者が打席に入る。

 先ほどはバントの構えからスイングに切り替え、ダブルプレーのきっかけになった打者だ。


 今度は、最初から普通の構えをしている。


 初球、カーブ。

 緩やかな弧を描いたボールがストライクゾーンの上に落ちる。


「ストライク!」


 二球目、外角低めのスライダー。

 打者はバットを出し、かろうじてファウルにした。


「ツーストライク!」


(ここは、あまり遊びたくない)


 三球目。

 佐伯のサインは、外角低めのストレートだった。


 敦は全力ではなく、八割ほどの力で腕を振る。


 ボールは、ミットの構える位置からほとんど動かずに収まった。


 打者は、見送るしかない。


「ストライク! バッターアウト!」


 見逃し三振。


 ツーアウト走者なし。

 ベンチから「あと一人!」の声がかかる。


     *


 打席には八番打者。

 先ほどはフォークで三振を奪っている。


(同じパターンで行くか、少し変えるか)


 初球、外角高めのストレート。

 打者は完全に見送った。


「ボール!」


 二球目、外角へのカーブ。

 ストライクゾーンの端に落ち、見逃しストライク。


 三球目、外角低めのスライダー。

 打者はバットを出しかけて止める。


「ボール!」


 カウント2―1。


(フォークを見せたいところだけど、ここで外しすぎると3―1になる)


 四球目。

 佐伯は、外角寄りのストレートを要求した。


 敦は、ストライクゾーンぎりぎりを狙って腕を振る。


 ボールは膝元の高さを通り、ストライクゾーンの隅に収まった。


「ストライク!」


 カウント2―2。


(これで、フォークもストレートも両方使える)


 五球目。

 佐伯が示したのは、またしても外角低め。


 敦は、今度こそフォークを選んだ。


 指先から離れたボールは、高めからスッと沈む。


 打者は、何とかバットの先をボールに当てた。

 かすっただけの打球が、一塁側ファウルゾーンへ転がっていく。


(しぶといな)


 カウントは変わらず2―2。


 六球目。

 佐伯は、今度はインコース寄りを指し示した。


(ここで、内角ストレート)


 敦はうなずき、思い切って腕を振る。


 内角高めのストレート。

 打者は差し込まれながらも、何とかバットに当てた。


 打球は三塁線寄りへの高いバウンド。


「来い!」


 三塁の大塚主将が前進し、ワンバウンドを体の正面で受け止める。

 そのまま一塁へ送球した。


 長谷川がジャンプしてボールをつかみ、ベースを踏む。


「アウト!」


 三者凡退。


 八回を終えて、スコアボードの相手側には、また「0」が並んだ。


     *


 ベンチに戻ってくる敦を、矢部先輩が迎えた。


「いいぞ敦。完全に向こうの流れを止めてる」


「ありがとうございます」


「腕、まだ行けるか?」


「はい。球数はそれなりですけど、しんどい感じはまだないです」


「よし。だったら、九回もそのまま行くつもりで準備しとけ。

 その前に、こっちが点を取るのが一番やけどな」


 最後の一言に、敦は小さく笑った。


(そう簡単に、とは言えないけど……)


 スコアボードを見上げる。


      1 2 3 4 5 6 7 8 9 計

 武庫工業 0 0 0 0 0 1 0 0 1

 神戸成朋 0 0 0 1 0 0 0 0 1


(次の回は、五番から始まる。俺、高倉さん……)


 九回表。

 勝ち越し点を取るなら、ここしかないと言えるような巡り合わせだ。


(ここで決められなかったら、流れはまた分からなくなる)


 敦はグラブを外し、バットのグリップに手をかけた。


 体の奥にある緊張と、それでも消えないわずかな高揚感。

 その両方を抱えたまま、九回の攻撃へと意識を切り替えていく。

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