第22話 日曜日のテレビとノートの余白

 日曜日の朝。

 敦は、いつもより少しだけ長く布団の中でうつ伏せになっていた。


(……思ったより、全然動けるな)


 昨日のインターバル走とベースランニングを考えれば、もっと足が鉛みたいになっていてもおかしくない。

 ふくらはぎと太ももに張りはあるが、「階段を下りたくないレベル」には程遠い。


 布団から抜け出すと、視界の端にスクリーンがふっと立ち上がる。


――本日コンディション

 ・下半身:筋肉疲労(軽)

 ・上半身:疲労 少

 ・睡眠:良好


――身体能力ベース値(投手用)

 ・スタミナ:S(現在解放率 40%)

 ・回復力:S(効果発動中)


(そりゃ、これだけ“土台”があったら、あれだけ走ってもこの程度か……)


 昨日の自分の走りを思い返し、敦は小さく息を吐いた。


(オールSがフル解放になったら、むしろ扱いきれなくなりそうだな)


 そんなことを考えつつ、制服ではなくジャージに袖を通す。

 日曜なので学校はない。部活も、この日はオフだ。


     *


 リビングに降りると、父はすでにスポーツ欄を開いていた。

 食卓にはトーストと目玉焼き、サラダ。母がキッチンからコーヒーを運んでくる。


「おはよう」


「おはよう。今日は部活は?」


「休み。テスト前だから、一応」


「“一応”ってつけるあたりが怪しいわね」


 母が笑う。


「何かしら、自主トレはするんでしょ?」


「まあ、キャッチボールとストレッチくらいは」


 そう答えると、父が新聞を畳んでテーブルに置いた。


「昨日はだいぶ走ったらしいな」


「なんで知ってるんだよ」


「帰ってくるときの歩き方でわかる。

 ただ、今日の顔色と動き見てると、回復は早いな」


「体力は、まあまあ自信ある」


 “まあまあ”と口では言いながら、敦は内心でスクリーンの「スタミナS」を思い出していた。


「テスト前で練習時間を短くしてくれているうちは、ちゃんと勉強もやっておけ」


「わかってる」


 トーストをかじりながら、敦は父の前に置かれたスポーツ紙に目をやった。

 プロ野球の結果の横に、高校野球の地方大会の記事が小さく載っている。


 「星稜」「愛工大名電」

 そんな名前が、見出しや対戦カードの中に混じっていた。


(同い年や一つ上のやつらが、もう“名前が新聞に載る”場所で野球してる)


 前の人生でも、テレビや新聞でそういう高校球児たちを何人も見てきた。

 ただの視聴者として。


(今度は、こっち側から見たい)


 その感覚が、じわじわと胸の内側から広がる。


「食べ終わったら、少し外歩いてこい」


 父が言った。


「いきなり座って勉強すると、昨日の疲れが余計に重くなる」


「了解」


     *


 朝食のあと、敦はスニーカーに履き替えて家の周りを軽く歩いた。

 ゆっくりとしたペースで住宅街を一回りする。


(筋肉痛“軽”って表示は伊達じゃないな……)


 昨日のメニューを思えば、脚はもっと重くなっていてもおかしくない。

 呼吸もすぐに整い、歩きながら自然とストレッチしたくなる程度の張りだ。


(スタミナも回復も、ちゃんと“オールSの途中経過”って感じか)


 そう思いながら家に戻ると、父が軒先でボールとグローブを持っていた。


「十分くらいキャッチボールするか」


「いいのか?」


「こっちの肩のほぐしも兼ねてる」


 父のグローブは、少し古びてはいるが、よく手に馴染んだ革の匂いがした。


 家の前の少し開けたスペースで、二人で距離を取り、軽くボールを投げ始める。


 一球目を握った瞬間、敦はわざと指先の感覚に意識を集中させた。


(ボールの縫い目の引っかかり方、指の腹の圧力……

 昔の自分より、細かい感覚が拾いやすくなってる)


――球質関連ステータス

 ・ボールコントロール感覚:高

 ・指先の感覚:投手用補正中


 スクリーンが、さりげなくそう表示する。


 軽く腕を振っただけなのに、ボールはまっすぐ父の胸元へ吸い込まれた。


「……今の、力抜いてるよな?」


 父が受けた手を少し振りながら言う。


「抜いてる。七割も投げてない」


「ボールの伸びは“七割以上”に見えたぞ」


「そういうところは、ちょっと恵まれてるのかも」


 自分でも、自覚があった。

 スピードガンの数字以上に、“打者から見たときにどう見える球か”という部分で、すでに普通の一年とは違うものを持っている感覚。


「昨日、球速測ったって言ってたな」


 一球受けてから、父が言った。


「うん。七割くらいで投げて、ちょっとだけ本気寄りの球も」


「数字は?」


「秘密」


「何だそれは」


 苦笑しながらも、父はそれ以上聞いてこなかった。


「まあ、今は数字よりフォームだ」


「監督にも同じこと言われた」


「なら、いい監督だ」


 ぽん、と受けたボールの音が、日曜の静かな住宅街に小さく響く。

 敦は、フォームの流れを乱さないように、胸の前から腕をスムーズに振り抜いた。


 十分ほど投げ合ったところで、父が手で合図した。


「このくらいにしておくか。テスト前に肩を張らせても意味がない」


「ありがとう」


 グローブを外しながら礼を言うと、父はボールを手のひらで転がしながら続けた。


「数字は秘密でもいいが、

 “こういう投げ方をしたときに、肩と肘がどう感じたか”くらいは、そのノートに書いておけ」


「……うん」


「将来、“あのときの感覚の延長線上に今がある”って思えるときが来る。

 そういう感覚を残しておけば、変に迷子にならずに済むこともある」


 前の人生では、そんなふうに自分の体と向き合ったことがあっただろうか。

 敦は一瞬だけ、トラックのシートの固さと、ハンドルの重さを思い出した。


(今度は、ちゃんと覚えておこう)


     *


 午前中の残りは、教科書とノートを見返す時間にあてた。

 特に世界史と英語。


 机に向かう前に、スクリーンが“本日の学習メニュー案”を出してくる。


――学習メニュー(案)

 ・世界史:昨日まとめた範囲の再構成(25分)

 ・英語:単語プリント+教科書の重要表現確認(25分)

 合計:50分(集中モード前提)


(前より時間短くて、内容は濃いな)


 敦は少しだけ笑った。

 確かに最近、勉強に関しても“頭の回転が一段階上がっている”感覚がある。


(もともとオールSの中に、きっと“頭のキレ”とか“記憶力”も含まれてるんだろうな)


 まずは世界史ノートを開いた。

 昨日、中村と一緒に矢印でまとめたページだ。


(ここ、一回教科書見ずに、どこまで書けるかやってみるか)


 空いているページに、教科書を閉じたまま“流れだけ”を書き起こす。

 前なら絶対に抜けていたような固有名詞も、案外すらすら出てくる。


(あれ……思ってたより残ってるな)


 十五分ほど書き続けてから教科書を開き、答え合わせをする。

 細かい年号の一部は怪しかったが、大きな流れはほとんど合っていた。


――学習関連ステータス

 ・理解力:S(解放率 高め)

 ・記憶の定着:通常より効率良


(もっと早く、この能力で学生生活送りたかったな)


 苦笑しながら、世界史は二十五分で切り上げ、英単語プリントに切り替えた。


 昨日のテスト範囲の復習と、次の小テストで出そうなところ。

 一度書いた単語は、読みだけならほとんど迷わず出てくる。


(書く方は、まだ手が追いついてないな)


 だが、それでも前より明らかにミスは減っていた。


(“やれば普通に伸びる”どころか、やったぶん以上に伸びてる感じがある。

 オールSの恩恵、勉強にもちゃんと来てるな)


 そんな手応えを確認しつつ、英語も二十五分で区切りをつけた。


     *


 昼食をはさんで、午後。

 さすがに集中力が切れてきたところで、リビングからテレビの音が聞こえてきた。


「高校野球のダイジェスト、やってるわよー」


 母の声に呼ばれて、敦は教科書を閉じてリビングへ向かった。


 テレビでは、地方大会の試合ダイジェストが流れていた。

 画面の下には「春季大会」「地区予選」といったテロップ。

 その合間に、プロ野球のニュースも混ざる。


 画面が切り替わり、北陸の強豪校・星稜の試合が映る。

 大柄な打者がスタンドに飛び込むホームランを打ち、その名前がテロップに出た。


(……松井)


 その姓に、敦はほんのわずかに反応した。

 画面の端に出た学年表示は「1年」。


(同い年、か)


 さらに、別の地区のダイジェスト。

 愛工大名電の試合では、投手が打者を次々と打ち取っていく映像が流れ、アナウンサーがそのフォームや将来性についてコメントしていた。


 名前に「鈴木」という文字が見えたが、フルネームまでは一瞬で流れてしまった。


(あの辺りの世代が、この先プロの世界を賑わせるのは知っている)


 前の人生で見ていたはずのニュースと、今こうして目の前で流れる高校野球の映像が、妙な重なり方をしている気がした。


(自分は、オールSっていう反則みたいな土台を持ってる。

 それでも、“何もせずにあそこに立てる”ほど甘くはない)


 テレビ画面の向こうで歓声を浴びている高校球児たちは、みな「今」を全力で生きている顔をしている。


(こっちは、“準備時間をもう一回もらった側”だ)


 どこか、悔しさに似た感情と、妙な優位性の感覚が同時に胸の奥でざわついた。


「あんまり見過ぎると、勉強に戻れなくなるわよ」


 母が笑いながら言う。


「わかってる。これは“イメトレ”だから」


「便利な言い訳ね、それ」


 ひと通りダイジェストを見終わったところで、敦はテレビの前から離れた。


     *


 自分の部屋に戻ると、教科書ではなく「野球ノート」を開いた。


 ページの上部に、日付を書き、その下に今日の項目を足していく。


『1990年 ○月○日(日)』


 ・朝、父さんとキャッチボール

  ― 七割以下の力でも、ボールの伸びは十分

  ― 肩と肘の張り:問題なし


 ・高校野球ダイジェスト

  ― 星稜、愛工大名電など強豪校のプレーをテレビで見る

  ― 同世代が、すでに“名前が出る場所”で戦っている現実


 ペン先を止めて、少し考える。


(身体能力オールS、解放率はまだ途中。

 それでも、高校一年としては明らかに“反則気味”な土台はある)


 ページの下の方の余白に、もう少しだけ書き足した。


 ・今日の気づき

  ― 体力・回復力・理解力は、明らかに普通より一段階上。

   だからこそ、“どこでブレーキをかけるか”も自分で決める必要がある。

  ― 「努力したぶん以上に伸びる」感覚に甘えすぎない。


 さらに、短く一行。


『まとめ:

 ・オールSの土台は“ズルさ”じゃなく、“上限の高さ”。そこまで届くかどうかは使い方次第。』


 書き終えた瞬間、スクリーンが静かに点滅した。


――メンタルステータス更新

 ・自己認識:

  「普通の一年」 → 「高性能だが、使い方次第の一年」に変化

 ・慢心度:低


(“慢心度:低”って、いちいち評価されるのもどうかと思うけど)


 心の中でそう突っ込みながらも、その評価に少しだけ安心している自分もいた。


     *


 夕方。

 休憩をはさんで、世界史と英語にもう一度だけ短く時間を割き、今度こそ勉強は切り上げることにした。


(今日は、頭も身体も“いい疲れ方”してるな)


 そう判断して、敦は机の上を片付けた。


 部屋の隅に置いてあるグローブが、夕方の光を受けて少しだけ色を変えて見える。


(明日から、また授業と部活。

 テストも近づくし、ブルペンにも入るだろう)


 長いようで短い一週間。

 その中で、テスト前というイベントと、夏に向けた練習が同時進行していく。


 ベッドに腰を下ろしながら、敦はぼんやりと天井を見上げた。


(世界は、前の人生と同じように回ってる。

 プロ野球も、高校野球も、きっと同じ結果に向かって進んでる)


 ただ一つだけ、大きく違うものがある。


(そこにいる“自分の性能”と、“立ち位置”だけは、前とはまるで違う)


 スクリーンが、そこに小さな文字を浮かべた。


――長期ミッション:

 『同世代の中で、“観客席から名前を呼ぶ側”ではなく、“呼ばれる側”に立てるか』


 それは、ゲームのクエストにしては、やけに重い一文だった。


「……簡単じゃないから、いいんだろうな」


 小さく口にした言葉は、誰に聞かせるでもなく部屋の中に溶けていく。


 その夜、敦はいつもより少しだけ早く電気を消した。

 まぶたの裏には、テレビ画面で見た見知らぬ高校球児たちの姿と、

 オールSという土台をどこまで使い切れるかという、自分への問いがぼんやりと浮かんでいた。


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