第21話 走る理由、止まらない脚

 土曜日の朝。

 敦は、平日より少しだけ遅い時間に目を覚ました。


(とはいえ、この時代は土曜も午前中授業なんだよな)


 枕元の時計を見る。

 普段より一段階遅めにセットしたアラームが鳴る少し前だ。


 布団から起き上がると、視界の端にスクリーンが立ち上がる。


――本日コンディション

 ・身体疲労:中(投球+走り込み由来)

 ・睡眠:十分

 推奨:

 ・午前:授業に集中(特に世界史)

 ・午後:走力・持久力中心メニューに備えたウォームアップ

 ・夜:学習は短時間(30〜45分)に抑え、回復優先


(今日は走りメインの練習ってことか)


 苦笑しながら制服に袖を通した。


     *


 朝食の席では、父が新聞、母がテレビのニュースを見ていた。


「今日は午前中授業だけ?」


「うん。四時間目まで。

 そのあと昼飯食べて、午後から部活」


「テスト前やのに、午後もいつも通り?」


「練習時間はちょっと短くなってるけど、走るのは走るっぽい」


「まあ、足腰は裏切らないからね」


 母はさらっと言う。


「テスト勉強は?」


「世界史はだいぶマシになってきた。

 英語は、単語は少しマシ。長文は……これから」


「正直でよろしい」


 そこで、新聞をたたんだ父が口を開いた。


「土曜の午後くらい、身体の方に全振りしてもいい。

 その代わり、夜は無理に詰め込もうとするな」


「勉強しなくていいって意味ではないよな」


「当たり前だ。

 “詰め込むより、ちゃんと寝て覚える”って意味だ」


「了解」


 トーストを口に運びながら、敦はふと新聞のスポーツ欄に目をやった。


 プロ野球の結果。

 春の高校野球地区予選の記事。

 その隅に、小さく知らない高校の名前が載っている。


(ここに、自分の高校の名前が載る日が来るのかどうか)


 そんなことをぼんやり考えながら、家を出た。


     *


 土曜の一時間目は国語、二時間目は数学、三時間目は世界史、四時間目は英語だった。


(三時間目と四時間目、うまくできてるよな……)


 眠気と戦う時間帯に、よりによって“危険科目二連続”が並んでいる。


「じゃあ、前回の続きからな」


 世界史の先生が教卓に立つ。


 ノートを開きながら、敦はスクリーンの端に出ている表示をちらりと見る。


――世界史 中間考査まで:残り 12日


(まだ12日、もう12日)


 板書を写しながら、前回の小テストのことを思い出す。

 “24/30”という数字は、悪くないが、それで安心していいほどでもない。


「ここ、大事だぞ。テストにも出すからな」


 先生の言葉に、教室のあちこちでペンの音が少しだけ早くなる。


(テスト範囲にマーカー引きすぎるタイプだったな、先生)


 内心でそんなことを思いながらも、敦は真面目にノートを取った。


     *


 四時間目が終わり、昼休み。


 教室の窓際の席で弁当箱を開けると、すぐに中村が椅子を引きずって近づいてきた。


「よっ」


「おつかれ」


「世界史と英語、脳みそ持ってかれたわ……」


「さっき先生に“テスト出すぞ”って言われたとこは、素直に出ると思う」


「それはそうなんだけどさ」


 中村は弁当のふたを開けながら、疲れた顔で空を見た。


「午後、絶対走るよな、今日」


「監督の顔見てたら、走る気満々だったろ」


「やめろ、その不吉な予言」


「土曜って、走り込み多い日多くないか?」


「“多い日多い”って、日本語までしんどそうだな」


 愚痴りながらも、箸は普通に動いている。


「テスト前だから、ちょっとは軽くしてくれると信じたいんだけど」


「“時間は短くするけど、中身は濃くする”ってパターンな気がする」


「あー、それ一番しんどいやつだ」


 二人で同時にため息をつき、また同時に笑った。


「でもまあ……」


 中村が、弁当箱の隅の唐揚げをつつきながら言う。


「走るのサボって、夏バテした状態で試合出るとか、嫌だもんな」


「それはさすがに嫌だな」


「だったら、今は文句言いながらでも走っとくしかないか」


「“文句言いながら”は、やめる気ないんだな」


「そこは譲らない」


 変なところで頑固な親友を見て、敦は少しだけ笑った。


     *


 昼食を早めに切り上げ、野球部の部室へ向かう。


 土曜の午後ということもあって、平日より少し早めに部員が集まってきていた。


「よーし、全員そろったな」


 村井がメニュー表を手にグラウンド中央に立つ。


「今日はテスト前の土曜日だ。

 練習時間は、いつもより一時間短くする」


 その言葉に、わずかな安堵の空気が流れる。


「その代わり、“走らない”とは言っていない」


 すぐに、別の意味のため息が重なった。


「いいか。

 夏の大会まであと何カ月ある?」


「……三カ月ちょっとです!」


 誰かが声を上げる。


「そうだ。

 この“三カ月ちょっと”のあいだに、何回“全力で走る日”を作れるかで、夏の七回、八回、九回の足が決まる」


 村井は、ゆっくりと部員たちを見回した。


「テスト前だからといって、体力面の準備を止めるつもりはない。

 ただし、時間を切って、“やるべきことだけを詰める”」


 メニュー表をひらりとめくる。


「今日のメニューは――

 ・アップ

 ・インターバル走

 ・ベースランニング

 ・ポジション別の軽い守備&キャッチボール

 ・締めの補強」


(やっぱり走るのメインか)


 敦は、覚悟を決めて息を吸い込んだ。


     *


 アップが終わると、グラウンドの外周にマーカーが置かれていく。


「まずは、外周のインターバル走だ」


 村井が説明する。


「一周、全力の八割で走る。

 そのあと半周、軽いジョグ。

 それをセットで五本。

 ポジション関係なく全員同じだ」


「五本……」


 誰かが小さくつぶやく。


「“五本だけでいい”と思うか、“五本もある”と思うかは自由だ。

 ただし、どっちにしろサボるな。

 これは“走らされている”練習じゃなく、“自分の足を強くする”練習だ」


 そう言われると、簡単には弱音を吐けなくなる。


 ラインの後ろに並び、笛の合図を待つ。


「一本目、行くぞー。

 よーい……スタート!」


 笛の音と同時に、全員が一斉に走り出した。


 砂の感触。

 スパイクが地面を蹴る音。

 呼吸が、少しずつ早くなっていく。


(八割。

 全力ではないけど、手を抜いてもいない、くらいのスピード)


 スクリーンが、視界の端で小さく数値を出す。


――現在ペース:

 ・心拍:上昇中

 ・オーバーペース傾向 ほんのわずか


(一本目から飛ばしすぎるなってことね)


 少しだけ力を抜く。

 それでも、自分の中では“まあまあしんどい”くらいの速さは維持した。


 ゴールラインを越え、半周のジョグに切り替える。

 足を止めないまま、呼吸だけ整えていく。


『二本目からが本番だ』


 前の人生で聞いたことのある言葉が、ふと頭の中に浮かんだ。


     *


 二本目、三本目と進むうちに、足の重さがはっきりしてくる。


 太ももにたまる乳酸の感覚。

 ふくらはぎが張ってくる感じ。


「あと、二本!」


 誰かの声が、半分悲鳴混じりで響く。


「口動かす余裕あるなら、脚動かせ!」


 上級生の怒鳴り声に、苦笑いが漏れる。


(でも、こうやって一緒にしんどいことやってるときが、妙に楽しかったりするんだよな)


 四本目の終盤、スクリーンが小さく点滅した。


――スタミナ経験値:上昇中

 ・持久力:わずかに向上

 ・フォーム維持力:高負荷時に微妙な乱れあり


(最後の一本、フォーム意識して走れってことか)


 五本目。

 呼吸はきつい。足も重い。

 それでも、腕の振りと一歩一歩の着地を意識する。


「ラストー! 脚止めるなー!」


 声が飛ぶ。

 ゴールラインを越えた瞬間、敦は膝に手をついて大きく息を吐いた。


「……しんど」


 隣で中村が、同じように肩で息をしている。


「お前、後半ちょっとペース上げただろ……」


「フォーム崩さないようにしてたら、勝手にそうなった」


「そういうとこだよ」


 文句を言いながらも、中村の顔はどこか充実していた。


     *


 インターバル走のあとは、水分補給を挟んでベースランニングだった。


「今度は、塁間の動きだ」


 村井がホームベースのそばに立つ。


「一塁到達、二塁到達、三塁到達、ホームイン。

 それぞれのタイムを測る。

 タイムの数字だけ気にするな。

 “どう走れば速くなるか”を、自分の体で覚えろ」


(そういう言い方の方が、この監督らしいな)


 敦は内心苦笑しながらも、スタートラインに立った。


 まずはホームから一塁。

 右打者としてのスタート。

 一歩目の方向と、スタートの姿勢。


(プロの映像で、こういう細かいところばかり見てた時期もあったな)


 村井の合図で走り出す。

 全力で走る中でも、最後の一、二歩を伸ばす意識を忘れない。


「……よし。

 次、ホームから二塁!」


 何本か走るうちに、呼吸はまた早くなっていくが、敦の頭は意外と冷静だった。


(ピッチャーとしてマウンドに立つときも、この“走ってきたランナー”のイメージを持っておいた方がいい)


 一塁にランナーがいるときのクイック。

 二塁への牽制。

 三塁ランナーのスタート。


(“走る側”の気持ちを知っておくと、“止める側”の考え方も変わってくる)


 スクリーンが、さりげなく一行付け加える。


――走塁理解度:微増


(そこ、数字にする必要あるか?)


 思わず心の中で突っ込んだ。


     *


 走りメニューが一通り終わると、最後にポジション別の軽い守備とキャッチボールをやって、この日の練習は締めになった。


「よし、今日はここまで!」


 村井が声を張る。


「テスト前だから早めに切り上げている。

 その意味を、勘違いするなよ」


 部員たちの視線が集まる。


「“楽できてラッキー”じゃない。

 “自分の時間を作ってもらっている”と思え。

 ちゃんと勉強に使え」


「はい!」


「特に一年!」


 矢が飛んでくるように、一年の列に視線が刺さる。


「ここで成績を落として、“野球のせいで勉強できませんでした”なんて言い訳をされるのが、一番腹が立つ。

 お前らが野球を続けるためにも、教室での顔もちゃんと作ってこい」


 その言葉に、敦は自然と背筋を伸ばした。


(“野球のせいで”なんて、絶対に言いたくない)


 前の人生で、仕事のせいにして逃げたことがないわけじゃない。

 だからこそ、今度は言い訳を減らしたかった。


     *


 練習終わり、部室で着替えていると、中村が制服のシャツを半分着た状態でこちらを向いた。


「なあ、今日さ」


「ん?」


「ちょっと、図書室寄ってかね?」


「学校の図書室?」


「そう。

 土曜は五時まで開いてるって、先生言ってたろ」


「世界史と英語、どっちやるつもりだ」


「世界史……かな。

 英語は、家帰ってから単語やる」


「じゃあ、世界史のプリントとノート持ってくか」


「助かる」


 中村は、いつもより少し真面目な声で言った。


     *


 午後、まだ陽の高い時間。

 学校の図書室は、思ったより静かだった。


 自習席に二人並んで座り、世界史のプリントとノートを広げる。


「さっきの授業の、ここ、まだあやしいんだけど」


 中村が指さしたのは、ちょうど敦も“あやしい”と思っていたところだった。


「じゃあ、ここだけ流れでまとめ直すか」


「流れ?」


「出来事と出来事の“前後関係”を、短く書いて線でつなぐ。

 単語だけバラバラに覚えようとすると、すぐに飛んでいく」


「なるほどな……」


 ノートに矢印を書きながら、敦は説明していく。


 中村は最初こそ渋い顔をしていたが、何本か矢印がつながるうちに、表情が少しだけ明るくなってきた。


「……あれ、意外と覚えやすいかも」


「“意外と”は余計だ」


「いや、マジで。

 俺、単語だけ見てても全然頭に入ってこなかったからさ」


「じゃあテストまで、ここのまとめは何回か一緒にやるか」


「助かる」


 小声で交わされるやり取りの中で、勉強が少しだけ“野球に似たもの”に見えてきた。


(ノートに書いた矢印も、“プレーの動き”みたいなものかもしれない)


 原因があって、結果がある。

 走るから、足が強くなる。

 投げるから、腕が強くなる。

 でも、無茶をすれば壊れる。


(世界史も、それに近いのかもな)


 そんなことを考えていると、スクリーンが静かに表示を出した。


――学習&部活 両立モード:良好

 ・身体:疲労中だが許容範囲

 ・頭:集中モード維持

 ・総合コメント:

  「今日は、よく走って、よく座っている」


(コメントのセンス、たまにどうにかならないのかな)


 思わず苦笑が漏れ、横で中村が首をかしげた。


「どうした?」


「いや、なんでもない」


「世界史に変なツボ見つけた?」


「それはない」


 二人で小さく笑った。


     *


 夕方近く、図書室を出て校門まで歩く。


 西日が、少しだけ眩しい。


「なあ」


 中村が、手に持ったプリントを軽く振った。


「走るのもしんどいし、勉強もしんどいけどさ」


「うん」


「どっちも、“一人でやるよりマシ”って思える相手がいるだけで、ちょっと楽になるな」


「……そうだな」


 前の人生では、仕事の重さも、体のしんどさも、どこかで“自分一人のもの”だと思い込んでいた。


 今は違う。


 同じメニューを走って、同じプリントに頭を抱えているやつが、すぐ横にいる。


「まあ、そのうち、“同じマウンド”にも立ってくださいよ、エース候補さん」


 中村が、軽く肩を肘でつついてくる。


「お前も、一緒に守ってくれ」


「もちろん。

 打球飛んできたら、ちゃんと取るからさ」


「頼りにしてる」


 そう言って、二人で校門の前で別れた。


     *


 家に帰ると、母が冷蔵庫から麦茶を取り出していた。


「おかえり。

 今日は走ってきた?」


「走ってきた。しっかりと」


「それは良かった。

 ちゃんとストレッチしてからお風呂入りなさいよ。明日になってから“足が動きません”とか言われても困るから」


「そのあたりは学んだ」


 笑いながら自分の部屋に入り、鞄からノートを取り出す。


 机に向かい、「野球ノート」を開いた。


『1990年 ○月○日(土)』


 日付のあとに、今日のメニューを書き込んでいく。


 ・インターバル走 外周 1周全力の8割+半周ジョグ ×5本

  ― 一本目で飛ばしすぎない

  ― 四本目・五本目でフォーム意識


・ベースランニング


  ― ホーム〜一塁、ホーム〜二塁など

  ― ピッチャーとして、“走る側”の距離感としんどさを知っておく


 その下に、今日の感想を短くまとめた。


 ・“走らされている”と思っているうちはしんどいだけ。

 ・“夏に楽するために走っている”と思うと、ギリギリ耐えられる。


 ページの隅に、もう一行、書き足す。


『今日のまとめ:

 ・走る理由も、たぶんそのうち言葉になる。今は「夏まで脚を持たせるため」で十分』


 ペンを置いた瞬間、スクリーンが静かに点滅した。


――スタミナステータス:微増

 ・持久力:+

 ・回復力:+


「その“回復力”ってやつ、明日の朝ちゃんと発揮してくれよ」


 そうつぶやき、今度は世界史のノートをほんの少しだけ開いた。

 図書室で書いた矢印の列を眺めて、ページを閉じる。


(今日はこれで十分だ)


 窓の外では、土曜の夕方らしい、どこかのんびりした空気が流れている。


 でも、敦の頭の中では、今日走った外周の感覚と、ホームから一塁までの数歩が、まだくっきりと残っていた。


(投げるために、走る。

 最後まで立っているために、走る)


 そのシンプルな理由だけでも、今は悪くない。


 いつか、甲子園のマウンドで――

 最後の一球を投げ終わったあと、ベンチへ戻る足取りが重くても前に出るために。


「……よし、今日は早めに寝よう」


 敦は立ち上がり、部屋の電気を少し早めに落とした。


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