第23話 二刀流の入口
月曜日の朝。
目が覚めた瞬間、敦はまず両脚の感覚を確かめた。
(……よし。昨日よりだいぶマシだ)
布団から降りてみると、ふくらはぎと太ももの張りはまだわずかに残っているが、階段を降りるのをためらうほどではない。
日曜日の回復とストレッチが、確かに効いている。
制服に袖を通したとき、視界の端にスクリーンが立ち上がる。
――コンディション
・下半身:筋肉疲労(ごくわずか/動作にはほぼ支障なし)
・上半身:良好
――今日の推奨
・授業:小テスト結果の確認に備え、心の準備
・部活:投手メニュー+バッティングの可能性
(“バッティングの可能性”って何だよ)
自分で突っ込みながらネクタイを締める。
能力オールSの中には、投手だけでなく打撃能力も含まれているはずだが、ここまではあまり前に出していない。
(ピッチャー、キャッチャー、外野まで守れる設定なんだから、バットの方もいつか試すことになるか)
そう思いながら、家を出た。
*
ホームルームが終わると、担任が黒板の前に立った。
野球部顧問とは別の、クラス担任の数学教師だ。
「えー、中間考査まで二週間を切った」
教室のあちこちから、わかりやすいため息が漏れる。
「部活やってるやつも、そうでないやつも、点数は平等に出るからな。
“忙しかったので”は、言い訳として受け付けない」
担任はそう言ってから、プリントを配り始めた。
「これは各教科の出題範囲と、小テストの平均点。
自分の位置をちゃんと見ておけ」
敦のところにもプリントが回ってくる。
世界史の欄に目をやると、「前回小テスト平均 18.2点/30点」と書かれていた。
(ギリギリ平均ちょい上、か)
自分の「24点」を思い出しつつ、英語の欄に目を移す。
こちらは「13.5点/20点」。
敦は、先週の「18点」を頭の中で並べ、少しだけ安堵した。
「成績表には、定期テストだけじゃなく、小テストの積み重ねも反映されるところがある。
“いつもテスト前だけ頑張る”タイプにならないようにな」
担任の言葉に、教室の何人かがよそ見をやめて前を向いた。
(前の人生は完全に“テスト前だけ頑張る側”だったな……)
苦笑しながら、敦は配られたプリントを二つ折りにして筆箱の下に挟んだ。
*
昼休み。
窓際の席で弁当箱を開けると、いつものように中村が椅子を引きずってきた。
「おーい、生存確認」
「生きてる。筋肉痛はだいぶ抜けた」
「まあ、あんだけ走ったら多少は残るよな」
中村も椅子に座り、弁当のふたを開ける。
「そういえばさ」
唐揚げをつまみながら、中村が言った。
「テスト前の練習メニュー、今日からまた変わるって聞いたぞ」
「どんなふうに?」
「先輩からちらっと聞いた感じだと、
“投手はブルペン控えめで、そのぶん守備とバッティングも見る”ってさ」
「バッティング?」
「そうそう。
監督、最近“投げるだけじゃなく、自分で点も取りに行ける投手は強い”って言ってたし」
スクリーンの“バッティングの可能性”という表示が、頭の中でつながる。
(いよいよ、バット握る番か)
中村は、じっと敦の顔を見てくる。
「お前、打つ方はどうなん?」
「昔ちょっと草野球でバット振ってた程度」
「“ちょっと”の範囲広そうなんだよな、お前の場合」
中村は半分呆れたように笑った。
「まあ、どうせそのうちわかるか。
今日の練習、楽しみにしとくわ」
「ハードル上げるな」
そう言いながらも、敦の胸の奥は少しだけ落ち着かない。
(投げる方は、ある程度“やれる”ってわかってきた。
でも、打つ方はまだ未知数だ)
弁当のご飯を口に運びながら、前の人生でバッティングセンターに通っていた頃のことを思い出す。
速度表示が「130km」とか「140km」と書かれたレーンに、無謀にも挑んでは空振りしていた日々。
(あのときは、身体がついていってなかった。
でも、今は――)
今は、オールSの土台と、若い体がある。
(使い方さえ間違えなければ、前とは違う場所まで行けるはずだ)
*
放課後。
部室で着替えを終えた部員たちが、グラウンドに集まる。
「集合!」
メニュー表を片手に、村井がいつものように立っていた。
「中間考査まで、残りおよそ一週間と少し。
今日からは、時間をさらに絞って、“必要なところだけを叩く”」
部員たちの視線が自然と集中する。
「まず、投手陣」
名前を呼ばれ、敦は矢部、高木、田所たちと一緒に一歩前へ出た。
「投手陣は、今日は“軽いブルペン”プラス“守備と打撃”。
投げ込みはしない。フォーム確認と肩慣らし程度だ」
その言葉に、敦は少しだけほっとする。
土曜のスピードガンのあと、肩に無理はさせたくないと自分でも思っていた。
「野手は、シートノックと連携、それからバッティング。
特に、ランナー二・三塁の場面で、どう点を取りに行くかを重点的にやる」
メニュー表を折りたたみながら、村井は続けた。
「それから――」
視線が、再び投手陣に戻ってくる。
「投手も、交代でバッティングに入る。
“どうせ投げるだけだから”と思っているやつには、少し反省してもらう」
部員の何人かが苦笑する。
敦は、心の中で息を整えた。
(来たな)
「いいか。
ピッチャーが打てると、打線の組み方も変わる。
相手にとっても嫌な存在になる。
“打てるに越したことはない”どころか、“打てる投手はそれだけで武器だ”」
村井の言葉は、どこか敦の背中を押してくるようだった。
「じゃあ、各自アップを済ませて、メニューに入るぞ!」
*
ランニングとストレッチ、キャッチボールを終えたあと、まずは投手陣がブルペンに入った。
今日は本当に「肩慣らし」の言葉どおり、軽くフォームを確認する程度だ。
「山下、今日は全体の流れだけ見せてくれればいい」
「はい」
敦はマウンドに立ち、七割にも満たない力で、ストレートとカーブを数球ずつ投げた。
肩も肘も、土曜の疲れは残っていない。
(状態は悪くない。
むしろ、土曜より体が軽いくらいか)
スクリーンも、それを裏付けるように小さく表示を出す。
――肩・肘コンディション:良好
・故障リスク:低
その表示に、敦は黙ってうなずいた。
*
ブルペンが一段落すると、今度はバッティングゲージの方から声がかかった。
「ピッチャー陣も、順番に打席入れよー!」
二つあるゲージの片方では、すでに野手たちがマシン打撃に入っている。
もう片方が、投手陣用に空けられていた。
「山下、行けるか?」
先にバットを手にしていた矢部が声をかけてくる。
「行きます」
敦はバットを一本選んで握った。
感触を確かめるために、軽く素振りをする。
(……重さも長さも、高校の標準的な金属バット。
でも、前よりずっと“振れる”)
前の人生で同じようなバットを握ったときの、「重い」「先が回らない」という感覚は、今はない。
代わりに、「いくらでも振れそうだ」という余裕があった。
――打撃関連ステータス(抜粋)
・ミート力:S(現時点の解放率 50%)
・パワー:S(現時点の解放率 40%)
・バットコントロール:高
(……本当にオールSなんだな、これ)
あらためて数字を見せつけられて、敦は小さく息を吐いた。
「山下ー、最初はマシンの球速落としてあるからな」
バッティングピッチャーの役割をしているコーチが声をかけてくる。
「ミートポイントとスイング軌道の確認だ。
いきなり飛ばそうとするなよ」
「はい」
そう返事をして、敦はゲージの中に入った。
*
最初の数球は、腰の高さに来る比較的ゆっくりとしたボールだった。
タイミングを計るように一球、二球と見送る。
(トップを作る位置、軸足の残し方……)
前の人生で、プロのスローモーション映像を何度も見てきた。
そのイメージを、今の身体でなぞるように構える。
「そろそろ振っていいぞー」
声が飛ぶ。
敦は、次のボールがマシンから出てくる瞬間に合わせて、バットを振り抜いた。
カン、と乾いた金属音。
打球は鋭いライナーになって、ピッチャー返しの方向へ飛んでいった。
「お?」
ゲージの外から、小さなどよめきが聞こえた。
続く二球目、三球目。
敦は、わざと力を入れすぎないようにしながら、同じスイング軌道を意識してバットを振った。
打球は、センター返しから右中間あたりへ、ほぼ同じスピードで飛んでいく。
(……前と全然違う)
内心で驚きながらも、敦は顔には出さない。
前の人生なら、同じ球を打たされても、空振りか詰まったゴロになるのがオチだった。
(身体が、ちゃんとボールのスピードに間に合ってる)
そう感じられることが、何より大きかった。
「よし、じゃあ少し球速上げるぞー」
マシンのダイヤルが回される音がする。
今度は、先ほどより一段階速い球がミットの位置へ向かってくる。
敦は、さっきと同じタイミングで足を上げ、スッと下ろす。
バットの軌道が、自然にボールの少し内側を通っていく。
カキーン。
今度の打球は、やや角度のついたライナーとなり、レフト線寄りへ一直線に飛んだ。
「……おいおい」
ゲージの外で、矢部が思わず声を漏らす。
「普通にうまいんだけど」
「“ちょっと草野球やってただけ”ってレベルじゃねえぞ」
中村も、半分あきれながらゲージの横から覗いている。
「山下、今の感じで、あと十球」
コーチの指示にうなずき、敦は残りの球を淡々と打ち返していった。
多少の詰まりや差し込まれもあったが、完全な空振りは出ない。
(ミート力Sって、こういうことか……)
スイングを止めてゲージを出たときには、額にうっすら汗がにじんでいた。
「ナイスバッティング」
待っていた矢部が短く言う。
「ピッチャーでそれだけ打てたら十分だろ」
「いや、十分どころじゃないって」
中村が、呆れ半分、感心半分の顔で続けた。
「今の球速で、あれだけセンター返しできる一年って、普通に怪物なんだけど」
「大げさだろ」
「大げさじゃない」
そう言って、中村はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「そのうち、“ピッチャーだから打てなくても仕方ない”とか言えなくなるぞ」
「……それは、それで困るな」
苦笑しながらも、敦の胸の奥は少しだけ高揚していた。
(投げるだけじゃなく、打つ方でも“戦力になれるかもしれない”)
その現実味が、はっきりと見えてきた瞬間だった。
*
全体練習の最後は、軽い守備練習とランニングで締めた。
解散の号令がかかったあと、村井が「一年、ちょっと残れ」と声をかける。
一年の列が前に出ると、村井は少しだけ表情を和らげて言った。
「テスト前で時間が限られている中でも、
“今やれることをちゃんとやっている”やつと、“なんとなくいるだけ”のやつの違いは、もうはっきり出始めている」
誰かを名指しするわけではなく、全員を見る目だった。
「勉強も野球も、“急に上手くなる魔法”はない。
ただ、“急に周りからの見られ方が変わる日”はある」
敦は思わず、今日のバッティングゲージでのことを思い出す。
「自分でも気づかないうちに積み上げていたものが、ある日まとめて顔を出す。
今日の練習で、それを少し感じたやつもいるかもしれない」
村井の視線が、一瞬だけ敦の方をかすめた気がした。
だが、特に何も言わず、すぐ全体へと戻る。
「だから、テスト前だからといって、どちらかを捨てるな。
短い時間でもいい、“ちゃんと考えて使う時間”を増やせ」
「はい!」
一年たちの返事が、少しだけいつもより揃っていた。
*
帰宅後。
夕食を終え、敦は自室で机に向かった。
教科書を開く前に、まず「野球ノート」を開く。
『1990年 ○月○日(月)』
・ブルペン
― 肩慣らし程度。状態良好。
・バッティング練習(マシン)
― 初速:低めからスタート → 徐々に球速アップ
― センター返し〜右中間、レフト線へのライナー多め
― 完全な空振りなし
ペンを走らせながら、今日の打席を頭の中で巻き戻す。
(フォームはまだ固まってないけど、
“ボールに振らされてる感じ”はほとんどなかった)
ページの下に、今日の気づきを書き足す。
・気づき
― 投手だけでなく、打者としても“オールSの土台”を持っている実感。
― 逆に言えば、“雑に振っても当たる”危険もある。
→ 今のうちから、“いいスイングの形”を身体に覚えさせる必要あり。
さらに、一行。
『まとめ:
・「投げるだけのピッチャー」で終わるか、「自分で点も取りに行ける投手」になるか。選ぶ時間は今のうち。』
書き終えたところで、スクリーンが静かに表示を変える。
――打撃ステータス微更新
・ミート感覚:+
・フォーム再現性:+
・「二刀流適性」フラグ:点灯
(そのフラグ、勝手に立てないでほしいんだけど)
半分ため息、半分笑いながら、敦はノートを閉じた。
(ただ――)
前の人生でテレビ越しに見ていた、「投げて、打って、試合を動かす」選手たちの姿が脳裏をよぎる。
あのときはただの憧れでしかなかったが、今は少し違う。
(オールSの土台があるなら、
“投げる”か“打つ”かを選ぶんじゃなくて、
“どこまでやれるか試してみる”って選び方も、アリかもしれない)
そんな考えが、自然と浮かんでくる自分に気づいた。
「……とりあえず、今は目の前のテストだな」
声に出して、自分に言い聞かせる。
世界史のノートを開き、昨日の続きから矢印を引き直し始めた。
バットを握った感触と、ボールを投げた感覚。
そして、教科書の活字。
その全部が、今の敦にとっては同じ一本の線の上にある気がしていた。
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