第18話 テスト勉強とブルペンのあいだで
水曜日の朝。
敦は、目覚ましが鳴る少し前に目を開けた。
(……眠い)
体の疲れというより、頭の奥が重い。
ここ二日、部活のあとに世界史と英語をやり直していたせいだ。
制服に袖を通したところで、視界の端にスクリーンが立ち上がる。
――本日コンディション
・身体疲労:小
・睡眠不足:ごく軽度
――本日の優先タスク(提案)
① 授業:特に世界史・英語の内容をしっかり押さえること
② 部活動:投手としてのフォーム確認中心
③ 夜:テスト勉強 90分(世界史:英語=2:1)
「……どんどん管理が細かくなってないか、お前」
小さく愚痴をこぼしながらも、敦はネクタイを結び直した。
(でもまあ、完全にズレてるわけでもないんだよな)
*
HRが終わったあと、教室の後ろから名前を呼ばれた。
「山下、ちょっと職員室まで来なさい」
世界史の担当教師だった。
(来たな)
心当たりがないわけではない。
最近の小テスト、世界史は安定して点が低かった。
職員室に入ると、先生は新聞を机の端に寄せ、ノートを開いた。
「野球部、だよな」
「はい」
「練習、大変なのはわかる。試合もあるし、疲れてるのも知ってる」
そこまでは柔らかい口調だったが、次の言葉のトーンが少しだけ変わった。
「だけどな、山下。
高校は“野球をしに来る場所”じゃない。わかってるな」
「……はい」
「お前の最近の世界史の点数、これだ」
先生は小テストを数枚、机の上に並べた。
赤ペンでつけられた点数は、どれもギリギリ合格ラインか、それより下をさまよっている。
(うん、見事にバラついてるな)
「中間考査、これ続けてたら普通に危ないぞ。
赤点取ったら、補習だけじゃ済まない可能性もある。部活との両立、どうするつもりだ」
敦は、一度だけ息を吸い込んだ。
「……世界史と英語を、優先してやります。
部活のあと、少し時間を決めて、毎日やるようにします」
「“やるようにします”は、今まで何人も聞いてきたセリフだ」
先生は、少しだけ目を細めた。
「具体的には?」
「まず、今日からテストまでの二週間で、世界史は“範囲の通史を一周”、英単語はプリントの分だけ毎日見ます」
「ふむ」
「部活がある日は、最低でも一日30分は世界史に使います。
英語は、寝る前に15分。
それと、授業中に黒板を写すだけじゃなくて、“授業受けた日”のうちにノートを見返すようにします」
先生は少し驚いたように目を上げた。
「……ずいぶん具体的に出てくるな」
「昨日、家で時間の使い方を考えました」
本当はスクリーンと相談したのだが、そこは“自分で”ということにしておく。
「そうか」
先生は、机に肘をつき、敦をじっと見た。
「野球で本気を出したいなら、なおさら勉強から逃げるな。
“勉強もできる野球部”は、学校にとっても強い武器だ」
「……はい」
「中間の世界史、目標点は?」
少しだけ考えてから答える。
「最低でも、七十点です」
「いきなり高く出たな」
「前のテストのままだと、監督と親の機嫌が悪くなる未来が見えたので」
思わず本音が混ざると、先生は吹き出しそうになってから咳払いをした。
「まあいい。七十点取れたら、“野球部でありながらよくやった”と認めてやる」
「わかりました」
「約束だぞ」
「はい」
職員室を出るとき、スクリーンが小さく表示を出した。
――新規学習ミッション
『中間考査 世界史で70点以上を取れ』
・達成ボーナス:
― 集中力ステータス 微増
― 家族・監督からの評価 上昇(予定)
「ゲームみたいに言うなよ……」
苦笑しながら教室へ戻った。
*
六時間目が終わり、部室でユニフォームに着替える。
中村が隣でシャツのボタンを止めながら、プリントをチラチラと見ていた。
「なあ」
「ん?」
「世界史、やばい?」
「やばい」
即答した。
「先生に呼ばれた?」
「呼ばれた」
「やっぱりか。俺もギリギリラインうろうろしてんだよなあ」
中村は大きくため息をつく。
「でも、お前の顔見たら、なんか逆に安心したわ」
「どういう意味だよ」
「“あ、こいつも同じくらいやばいんだな”って」
「仲間を見つけて安心するな」
二人でくだらないやり取りをしているうちに、気持ちの重さは少し軽くなった。
*
グラウンドに全員が集まり、村井がメニュー表を片手に立つ。
「昨日のシート打撃の内容と、中間考査の日程を踏まえて、今日からしばらく練習メニューを調整する」
その一言で、ざわっと部員たちの間に小さな波が走る。
「テスト前だからといって、練習を完全に軽くするつもりはない。
ただし、“量を減らして質を上げる”形に変える」
村井は、指でメニュー表を軽く叩いた。
「具体的には――
・全体の練習時間を30分短縮
・そのぶん、集中してやるメニューを絞る
・家での勉強時間を、各自きちんと確保すること」
何人かが、ほっとしたように息をつく。
「勘違いするなよ。
これでテストの点が上がらなかったら、“練習を削る意味がなかった”ってことになる。
そのときは、来学期以降、テスト前の配慮は一切なしだ」
「それは困ります」
思わず声が出てしまい、周りが笑った。
「じゃあ、その言葉の分だけ、ちゃんと勉強しろ」
「はい」
笑いと緊張が入り混じった空気の中で、その日の練習が始まった。
*
まずは全員でのランニングと体幹トレーニング。
そのあと、野手と投手でメニューが分かれる。
「投手陣、集まれ」
矢部、高木、田所と一緒に、敦も村井の前に並ぶ。
「今日は投げ込みは少なめにする。その代わり――」
村井は、足元のマウンドを軽く蹴った。
「フィールディングを重点的にやる。バント処理、ピッチャーゴロ、牽制。
“打たせて取る”投手を目指すなら、ここから逃げるな」
「はい」
「山下」
「はい」
「お前は、途中で捕手ミットもつける。投げる側と受ける側、両方からフィールディングを見ろ」
「わかりました」
まずはピッチャーゴロの処理練習。
村井がマウンドの少し前から、前方に転がるゴロや、わざとイレギュラーしそうなゴロを打ってくる。
「前へ!」
声と同時に、敦は一歩目を強く踏み出す。
グラブでボールを掬い上げ、その勢いのまま一塁へ送球。
「もう一歩、前だ。
“取ってから投げる”じゃなくて、“投げるために取る”意識を持て」
「はい!」
繰り返しの中で、足の運びと体の向きが少しずつ揃ってくる。
汗が額を伝う頃、スクリーンが視界の端で小さく点滅した。
――フィールディング経験値:上昇中
・反応速度:わずかに向上
・送球フォーム:安定傾向
(黙って見てるだけじゃなくて、たまには球拾いも手伝えよ)
心の中で悪態をつきながらも、敦はボールを拾いに走った。
*
途中からキャッチャーミットに持ち替え、今度は投手のフィールディングを後ろから見る。
矢部の一歩目、高木の体の開き、田所の捕ってからのステップ。
それぞれ癖が違う。
(矢部先輩は、最初の一歩がとにかく早い。
高木先輩は、捕ってからのスローイングがきれい。
田所先輩は、逆シングルがうまいな)
自分の中で、良いところと直したいところを整理していく。
「山下」
村井の声が飛ぶ。
「今見てて、お前のフィールディングに足りないのは何だと思う」
「……迷いです」
「具体的に」
「“前に出るか、待つか”の判断が、半歩遅いです。
さっきも何本か、“もう一歩前に踏み込めた”打球がありました」
「ほう」
村井は、少しだけ口元を緩める。
「その“半歩”を埋めるのは、スピードじゃない。決断だ。
“行く”と決めたら、行け。
その代わり、行くと決めた分だけ、投げるところまで責任を持て」
「はい」
フィールディング練習が終わる頃には、ユニフォームの膝からスパイクまで土まみれになっていた。
いつもより短い練習時間なのに、内容は濃かった。
*
練習が終わり、片付けも済んだあと。
部室で着替えていると、中村が制服のポケットからプリントを取り出した。
「なあ、敦」
「ん?」
「帰ってから、ちょっとだけ世界史やらね?」
「……今の“やらね?”は、“一緒に”って意味で合ってるよな」
「もちろん。“お前に教えてもらう”って意味でもあるけど」
「そこまで頼られても困るんだけど」
そう言いながらも、敦は悪い気はしていなかった。
「じゃあ、今日は世界史な。
英語は各自でどうにかしろ」
「了解です、先生」
「先生じゃない」
二人で笑いながら、帰り支度を終える。
*
家に帰ると、母が台所から顔を出した。
「今日はちょっと早いじゃない」
「テスト前で、練習少し短くなった」
「あら、珍しいこともあるのね」
「その代わり、“その時間でちゃんと勉強しろ”って言われた」
「正しいわね」
母はあっさりと言った。
「ご飯はいつも通り七時半くらいだから、その前後でうまくやりなさい」
「わかった」
自分の部屋に入り、鞄を下ろす。
机の上には、すでにスクリーンが学習モードの準備を整えていた。
――学習モード:世界史(中間考査対策)
・本日の目標:
― 範囲の流れをざっくりつかむ
― “年号丸暗記”ではなく、出来事のつながり重視
「お前、たまにまともなこと言うよな」
――たまに、ではない
「自分で言うな」
苦笑しながら、教科書とノートを開いた。
しばらくすると、スマホが震える。
中村からのメッセージだった。
『世界史、今からやる?』
『やる。電話しながらでいいか?』
『助かる』
通話を繋ぐと、すぐに中村の声が聞こえた。
『なあ、範囲のここさ……』
最初の数分はただの愚痴だったが、やがて本題に入る。
「そこは、“この先生の言い方”で覚えた方がいいかも」
『先生の言い方?』
「“大きな流れを三つに分けて考えろ”って、今日の授業で言ってたろ。
あれをそのままノートに写して、見出しみたいに使う」
『あー、あれか。途中から眠くて半分聞いてなかった』
「そこからかよ」
そう言いながらも、敦は自分のノートをカメラに映して見せた。
『うわ、きれいにまとめてるな』
「いや、見た目だけだぞ。中身はこれから詰める」
『でも、それだけ整理されてたら、覚えるとき楽そうだな』
「だから、お前もプリント無くす前にノートに写せ」
『無くす前提で話すな』
二人で笑いながら、教科書とノートを追っていく。
スクリーンは、そのやり取りを見ながら、画面の隅で小さくチェックを入れていた。
――世界史インプット量:増加中
・理解優先の学習モード 良好
・丸暗記に偏る危険性:低
(何でも数値化しようとするな)
心の中で突っ込みつつ、ペンを走らせる。
*
ひと段落ついたところで、中村がふと話題を変えた。
『そういえばさ』
「ん?」
『この前のシート打撃のとき、お前けっこうあっさり打ったよな』
「たまたまだろ。球が甘かった」
『そうか?
なんか、“打とうと思ったらもっと打てるけど、今日はこれくらいにしといた”みたいな感じに見えたけど』
「買いかぶりすぎだ」
そう言いながらも、心のどこかが少しざわついた。
『投げる方もあるし、捕る方もあるし、打つ方もあるしさ。
見てて、楽しそうだよ、お前』
「……楽しいのは、認める」
『だろ?』
「怖いけどな」
『それでも楽しいんだろ』
「まあ、そうだな」
電話を切ったあと、敦はしばらくペンを止めて天井を見上げた。
(バットを握る理由、か)
昨日スクリーンに言われた言葉が、頭の中で反芻される。
チームのため。
試合に勝つため。
自分が打った一本で流れを変えたいから。
(それだけじゃ、多分足りなくなる)
投げること。
捕ること。
打つこと。
全部本気でやろうとすればするほど、理由もちゃんとしたものが必要になってくる気がした。
スクリーンが、静かに表示を追加する。
――長期テーマ更新
『“投げる・捕る・打つ”それぞれの理由を、自分の言葉で持て』
「課題を増やすの、本当に好きだなお前」
苦笑しながら、敦は野球ノートを開いた。
今日のページの端に、短く書き足す。
『今日の野球:
・フィールディングの“半歩の決断”
・勉強時間を作るための練習短縮
・バットを握る理由は、まだ途中』
ペン先が止まったところで、ふと気づく。
(俺、高校一年の五月くらいで、こんなに真面目に“理由”考えてたっけ)
前の人生の自分を思い出そうとして、苦笑した。
(いや、考えてなかったな。
せいぜい、“仕事終わってからのビールがうまい”くらいの理由だった)
今は違う。
仕事のあとにビールを飲むためじゃなく、
練習のあとに、次の練習に繋げるために、ノートを開いている。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「よし。
世界史、もう10ページだけ進めてから寝るか」
敦は教科書を持ち直し、椅子に座り直した。
窓の外では、街の灯りが静かに瞬いている。
その先に、まだ遠い甲子園の照明が、かすかに重なって見えた。
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