第19話 二つの視点、ひとつのミット

 木曜日の朝。

 目覚ましが鳴る前から、敦はなんとなく浅い眠りの中でもう一人の自分とやりとりしていた。


(世界史、あとどこまで詰めるか……

 いや、その前に今日はピッチャーとして何をやるか……)


 頭が勝手に予定表を組み始める。


 結局、アラームが鳴った瞬間には、すでに目は覚めていた。


 制服に袖を通したところで、視界の端にスクリーンが立ち上がる。


――本日コンディション

 ・身体疲労:小

 ・脳疲労:中(勉強由来)

 推奨:

 ・授業中の居眠り:厳禁

 ・部活:投球は前日と同程度まで

 ・就寝目標:いつもより+30分早く


「……寝ろ、って言いたいわけだな」


 小さくつぶやいてネクタイを結ぶ。


(確かに、世界史の年号が頭の中でぐるぐる回ってる感じはある)


     *


 朝食の席。

 父は新聞、母はニュース番組に目を落としていた。


「中間テスト、範囲出たんだって?」


 母が味噌汁をよそいながら尋ねる。


「うん。六教科。二週間後」


「部活、少し軽くなるの?」


「時間はちょっと短くなった。

 その分、“成績悪かったら来学期から配慮なし”って条件付きで」


「それはなかなかシビアね」


 母が苦笑する。


「でもまあ、いいんじゃない。

 両方やるって決めたの、あんたでしょ」


「……そうだな」


 パンをかじりながら答えると、新聞から父の声が飛んできた。


「世界史、先生に呼ばれたんだってな」


「情報早いな」


「職員室でたまたま会っただけだ」


 父は新聞を畳み、敦を見る。


「七十点取るって言ったらしいな」


「言いました」


「簡単に口にする点数じゃないぞ」


「簡単だとは思ってない」


 自然と言葉が出た。


「でも、“赤点取らないように”だと、結局ギリギリをさまよう気がしたから。

 それよりは、最初から少し上を狙って落ちた方がまだマシかなって」


 父はふっと笑った。


「考え方は悪くない。

 あとは実際に取ってから、その理屈をもう一度言え」


「……がんばります」


     *


 一時間目の世界史。


 先生が教室に入ってくるなり、教卓の上にプリントを置いた。


「はい、昨日言ったとおり、今日は小テストな。

 範囲は前回の授業の分だけ。準備しろ」


 教室中から、あからさまなうめき声が上がる。


(来たか)


 敦は、慌てず筆箱からシャーペンを取り出した。


(昨日、中村と電話しながらやった範囲だ)


 プリントが後ろから回ってくる。


 ちらっと見ただけで、どこを問われているかはすぐにわかった。


(流れで覚えるって決めておいてよかったな……)


 数分後。

 答案を回収しながら、先生が言う。


「この前呼んだやつらは、特に覚悟しておけよ。

 “練習時間削るから勉強がんばります”は、何度も聞いてきた台詞だ」


 教室の空気が、少しだけ重くなる。


 世界史の授業が終わるチャイムが鳴ったころ、先生が前から何枚かの答案を持ってきて、敦の机の上に置いた。


「一応、今日の結果だ」


 そこには、小さく丸の多い答案用紙があった。


 点数欄には、「24/30」と書かれている。


(……八割)


 先生が、ふっと息を吐く。


「“中間までに本気出します”ってやつよりは、多少信用度が高まった」


「ありがとうございます」


「この調子で続けろ。

 中村にも言っとけ。あいつもギリギリだ」


「伝えておきます」


 先生が離れていく後ろ姿を見送りながら、スクリーンが視界の端で小さく点滅した。


――世界史ミッション進捗:微上昇

 ・先生からの信頼度:+1


(数字にするな)


 心の中で突っ込みつつ、答案をファイルに挟んだ。


     *


 昼休み、屋上に続く階段の踊り場で、中村が弁当を広げながら聞いてきた。


「で、小テストどうだった?」


「そこそこ」


「そこそこって何点だよ」


「二十四点」


「お前の“そこそこ”のハードル高くない?」


 中村は自分の答案を取り出した。

 点数欄には「17/30」。


「……悪くはないけど、よくもないな」


「そのくらいなら、巻き返しは効く」


「その顔で言われると説得力あるような、ムカつくような」


 ぶつぶつ言いながらも、中村の表情はどこか軽くなっていた。


「放課後、また世界史やる?」


「今日は英語もやりたいから、世界史30分、英語30分ってとこだな」


「じゃあ俺は世界史だけ参加して、英語は各自解散で」


「そこは自力でなんとかしろ」


 二人で笑う。


     *


 放課後。

 部室でユニフォームに着替え、グラウンドに出る。


「集合!」


 村井がメニュー表を手に立つ。


「昨日に続いて、今日もテスト前メニューだ。

 時間は短くするが、そのぶん中身は濃くする。覚悟しておけ」


 その言い方に、何人かが苦笑する。


「野手はシートノックと連携。

 投手陣は――」


 一拍置いて、村井が名前を呼んだ。


「矢部、高木、田所、山下。今日はフィールディングとバント処理、それからキャッチャーとの連携確認だ」


「はい」


 敦は返事をして、一歩前に出る。


「山下は、途中からマスクもかぶる。

 投げる側と受ける側、両方の視点で“ピッチャーの一歩目”を見ておけ」


「わかりました」


     *


 最初は、前日と同じくピッチャーゴロの処理からだった。


 村井が、マウンドの前に立って、さまざまなゴロを転がしてくる。


「前!」


 声に合わせて、敦は一歩目を強く出す。

 ボールをグラブで拾い、一塁へ素早く送球。


「今のはよし。次!」


 低く弾むゴロ、途中で跳ねるゴロ、右足側に切れていくゴロ。

 体の向きと足の運びを調整しながら、何度も繰り返す。


 汗がじわじわと滲むころ、村井が声をかけた。


「よし、フィールディングは一旦ここまで。

 山下、ここからマスクかぶれ」


「はい」


 敦は投手用のグローブを外し、捕手用のミットと防具を身につける。


 胸当てを締め、レガースのベルトを確認し、マスクを手に持ってベース後ろへ向かった。


(何度か経験はあるけど……

 “本気の矢部先輩の球を受ける”のは、まだ慣れていない)


 ホームベースの後ろでしゃがみ込むと、視界の高さが変わる。


 マウンドの上の矢部が、いつもより少し大きく見えた。


「矢部、まずはストレートから。

 フィールディングもセットで見るから、打球は俺が打つ」


 村井がバットを持って立つ。


「はい」


 矢部がプレートに足をかけ、セットポジションに入る。


「構えるぞ、山下」


「お願いします」


 ミットを構えた瞬間、指先にわずかな緊張が走る。


(投げるときとは、景色がまったく違うな)


 一球目、インコース寄りのストレート。

 矢部の球がミットに飛び込んできた瞬間、前腕にズンと重みが乗る。


「ナイスボール」


 敦は少し強めにミットを叩いた。


 自分で投げていたときには気づかなかったが、投手の球質を“受ける側”から見ると、ほんのわずかな回転の違いがよくわかる。


(二年生でこれだけまとまってるのか……

 自分が同じマウンドに立つには、まだまだやることがある)


 二球、三球とストレートを受けたあと、村井が軽くうなずく。


「よし、じゃあここからは打球も出す。

 矢部、ピッチャーゴロとバント処理を中心に」


「はい!」


 村井が、マウンドの少し前からバットを構える。

 矢部が投げた球を、芯を外しながらコントロールしてゴロや小フライに変えていく。


 正面のゴロ、三塁側に転がるバント、マウンド横の緩い当たり。

 矢部は、一歩目の反応とステップで、次々と処理していく。


(やっぱり、フィールディングの“迷いのなさ”がすごい)


 ミット越しに、その一歩目を追いかけながら、敦は思った。


(自分が投げていたとき、あの一歩目をどれくらいイメージできてたか)


 スクリーンが、視界の端で小さくコメントを出す。


――投手視点と捕手視点の差分:

 ・投手時:打球の“出だし”はわかるが、角度の把握が甘い

 ・捕手時:打球の角度は見えるが、投手の一歩目の“迷い”が目立つ


(……そうか。

 だから村井は、“両方から見ろ”って言ったのか)


     *


 矢部、高木、田所と順番に投げ終わったころ、村井が敦に視線を向けた。


「じゃあ最後、山下」


 マスク越しに、思わず一瞬固まる。


「……俺も投げるんですか?」


「当たり前だ」


 村井はあっさりと言った。


「フィールディングは、投げるやつ全員がやる。

 さっきまで“受ける側”で見てたんだから、自分の一歩目も意識しやすいはずだ」


「はい」


 防具を外し、今度はマウンドへ向かう。

 佐伯が代わりにマスクをかぶって構えた。


「いつもよりフィールディング意識して投げろよ」


「わかってる」


 プレートに足をかけ、深呼吸をひとつ。


(投げる視点と、さっきの“受ける視点”。

 両方を頭の中で重ねれば――)


「行きます!」


 一球目、ストレート。

 村井が、その球を前方に転がす。


「前!」


 叫ぶより早く、体が動いた。

 さっき見ていた矢部の一歩目をなぞるような感覚で、前へ飛び出す。


 ボールを拾い、一塁へ送球。


「今のはよし」


 村井が短く言う。


「次!」


 二球目は、三塁線寄りのボテボテのゴロ。

 敦は一瞬だけ迷った。


(前に出るか、サードに任せるか――)


 迷いの一瞬が、足の出遅れとして現れる。

 結果、ボールに追いつくのが遅れ、投げ急いだ送球は一塁手が高くジャンプして捕る形になった。


「アウトにはしたが、今のは“投げさせてしまった”送球だ」


 村井の声に、敦は息を整えながらうなずく。


「前に出るか、任せるか、迷いました」


「その迷いは、どこで発生した?」


「……打球が出た瞬間です」


「違う」


 村井は首を振った。


「さっき、矢部や高木のフィールディングを後ろから見ていたとき、お前は何を考えていた?」


「投げる人によって、一歩目の出方が違うな、って」


「そこだ」


 村井は、敦の目を見て続ける。


「“どんな打球が来たら、自分が取りに行くか”は、打球が来てから決めるんじゃない。

 “投げる前”にある程度決めておけ」


「投げる前に、ですか?」


「そうだ。

 バント処理なら、“三塁線のこのあたりまでは自分が行く”とか。

 ピッチャーゴロなら、“この強さ、この角度なら自分が最優先で前へ”とか。

 曖昧なまま投げたら、迷った分だけ遅れる」


 敦は、さっきの一歩目を頭の中で巻き戻した。


(確かに、“打球が転がってから考えた”感覚があった)


「もう二、三本いくぞ。

 今度は、“どの打球なら自分が前に出るか”を、投げる前に決めてから投げろ」


「はい」


 敦はプレートの上で、一度だけ目を閉じた。


(三塁線ぎりぎりのバントはサード。

 でも、マウンド前の強くない当たりは自分。

 ショート寄りの弱いゴロも、自分が前に出る――)


 イメージを整理してから、目を開く。


「行きます!」


 三球目。

 村井が転がした打球は、マウンドの少し左側に転がる弱いゴロだった。


(自分の球!)


 最初から決めていたラインの内側。

 迷わず前に飛び出し、ボールを拾って一塁へ送球。


「今のはいい」


 村井がうなずいた。


「あと二本」


 四球目、五球目。

 すべてが完璧ではなかったが、“迷って遅れる”感じは少しずつ消えていった。


     *


 フィールディング練習が終わり、全体のメニューも一区切りついたあと。

 片付けをしていると、佐伯が敦の横に並んだ。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


「今日、マスクかぶってみてどうだった?」


「ピッチャーのフィールディングって、受けてる側から見ると全然印象が違いました」


「だろ」


 佐伯は笑う。


「投げてるときって、自分では“前に出てるつもり”だったりするんだよな。

 でも、後ろから見てると、“もう一歩出ろよ”って思うことが多い」


「今日、自分もそう言われました」


「そりゃそうだろうな」


 あっさり言われて、敦は苦笑した。


「でも、お前の場合は、投げるときも受けるときも“考えてる”のがわかる。

 そこが武器だよ」


「……考えすぎて動きが遅くなることもありますけど」


「それはそのうち、“考えた分だけ早く動けるようにする”しかない」


 佐伯は、マスクを肩にかけながら続けた。


「投手の気持ちも、捕手の気持ちも、両方わかるやつは強い。

 どっちの立場になっても、“もう片方のしんどさ”が見えるからな」


「しんどさ、ですか」


「マウンドに立ってるとき、キャッチャーに“なんで今そのサインなんだよ”って思う瞬間があるだろ」


「……あります」


「逆に、キャッチャーからしたら“なんで今それ投げられないんだよ”って思う瞬間もある。

 その溝をちょっとでも埋められるやつは、どっちのポジションに行っても生き残る」


 その言葉は、敦の胸に静かに沁みた。


(前の人生で、そこまで深く“誰かの立場”で考えたこと、あったか……)


 トラックの運転席と、荷台側の人間。

 交通の流れと、荷主の都合。


 間に挟まれて、ただ疲れを貯めていた日々が、一瞬だけ頭をよぎる。


(今度は違う)


 スクリーンが、視界の端でそっと文字を浮かべる。


――新規サブテーマ:

 『投手の視点と捕手の視点、その両方でチームを見ること』


「本当に、課題好きだな」


 敦は小さく笑いながら、片付けに戻った。


     *


 家に帰ると、時計の針はいつもより少し早い時間を指していた。


「今日は何時までやるの?」


 母がキッチンから声をかけてくる。


「世界史と英語、合わせて一時間くらい。

 そのあと野球ノート書いて、できれば早めに寝る」


「いい計画だと思うわ」


 そのまま机に向かい、教科書とノートを開く。

 世界史を30分、英語を30分。

 スクリーンは、時間を区切るだけに専念し、細かい口出しはしてこなかった。


(たまには黙っていることもできるんだな)


 時計の針が目標時間を指したところで、敦はペンを置いた。


「……よし、今日はここまで」


 教科書を閉じ、代わりに「野球ノート」を開く。


『1990年 ○月○日』


 日付の下に、今日の練習の内容を書き込んでいく。


 ・投手フィールディング

  ― “前に出るか任せるか”を、投げる前に決めておくこと

  ― 三塁線ぎりぎりのバントはサード、それ以外の弱い当たりは自分


 ・捕手としての視点

  ― ピッチャーの一歩目の“迷い”が後ろから見るとよくわかる

  ― 投げる側のしんどさと、受ける側のしんどさは違う


 ・二つの視点

  ― 投げる視点と受ける視点を、頭の中で重ねておく


 ペン先が止まったところで、少し考える。


 ページの隅に、小さくこう書き足した。


『今日のまとめ:

 ・迷いはゼロにはできない。

 ・それでも、“迷う場所”を前にずらすことはできる』


 その一行を書き終えた瞬間、スクリーンが静かに点滅する。


――精神面ステータス:わずかに成長

 ・自己分析力:+

 ・他者視点の想像力:+


「……その成長、ちゃんとテストの点にも反映してくれよ」


 半分冗談、半分本気でつぶやく。


 窓の外では、街の灯りがまた夜の色を濃くしていく。

 その向こうで、まだまだ遠いはずの甲子園の光が、昨日よりもほんの少しだけ、現実味を帯びて見えた。


 

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