第17話 バットを握る理由
火曜日の朝、敦は、前日よりも軽くなった体の感覚を確かめながら制服に袖を通した。
(肩の張りは、だいぶまし。
走るのも投げるのも、普通メニューなら問題なさそうだな)
視界の端でスクリーンが立ち上がる。
――本日コンディション
・上半身疲労:小
・下半身疲労:小〜中
推奨:
・投球:中強度まで可(30球以内推奨)
・打撃:通常メニュー問題なし
「よし」
小さくつぶやき、鞄を肩にかける。
*
ホームルームの時間、担任が教卓に進み出た。
「はい静かにー。大事なお知らせな」
その声に、教室のざわめきが少しだけ弱まる。
「中間考査の日程と範囲が出た。ちゃんとメモしろよ」
教室のあちこちから、ため息とうめきが混ざったような声が漏れた。
「国語、数学、英語、世界史、物理、化学。合計六教科。
日程は――」
黒板にチョークの音が走る。
(うわ、本気で二週間後か)
スクリーンが即座に反応する。
――警告表示:
・学業タスク密度:上昇
・部活動との両立難度:やや上昇
(わかってる。ここで成績落としたら、監督や親に何言われるか)
五十歳まで生きた記憶があるとはいえ、教科書の内容は細かいところが違っている。
年号やカリキュラムの変更もある。
「特に世界史と英語、最近の小テストで点数が低かったやつは、提出物と一緒にちゃんとやっとけ。わかったな?」
担任の言葉に、何人かの視線が前の方に向けられる。
(……世界史と英語、思い切り刺さってるな)
スクリーンが小さく表示する。
――危険科目:世界史・英語(再確認)
「放課後は部活だろうけど、帰ってからの時間配分、ちゃんと考えろよ」
そう言って、担任はプリントを配り始めた。
*
昼休み。
窓際の席で弁当を広げていると、中村がトレイを持って近づいてきた。
「隣、いい?」
「いいよ」
中村が腰を下ろすなり、さっきもらったテスト範囲のプリントを机に放り出した。
「中間考査ってさあ……現実突きつけてくるタイミング完璧すぎない?」
「まあ、高校だしな」
「お前、そういうとこだけ妙に落ち着いてるよな。
プリント見た瞬間の顔、“ああ来たか”って感じだったぞ」
「心の中ではちゃんと動揺してる」
「それを出さないのが余計ムカつくんだけど」
言いながらも、中村の表情はどこか楽しそうだ。
「そういやさ」
ご飯を口に運びながら、中村が少し身を乗り出す。
「昨日、『ノート作る』って言ってただろ。あれ、やっぱ野球用?」
「ああ。練習のこと忘れないように、少しずつ書いていこうかなって」
「やっぱりな。なんかそういうのやってそうな顔してるもん」
「顔で決めるな」
「でも、野球ノートって、たぶん意味あると思うぞ。
小学校のときの監督がさ、“上手いやつと伸びるやつは、だいたいメモ魔”って言ってた」
「じゃあ、お前もやればいいじゃん」
「まずプリント無くさないとこから始めるわ」
「それはノート以前の問題だな」
二人で笑う。
他愛ない会話をしながらも、敦の頭の片隅では別のことが引っかかっていた。
(今日は、投げるだけじゃなくて、打つ方も見られるかもしれない)
昨日の練習の終わり、村井がふと言った言葉を思い出す。
『そろそろ、一年にもシート打撃で打席に立たせていく。試合を想定した形でな』
(投げるだけじゃなくて、バットでも何か残さないと――)
スクリーンが視界の端でそっとにじむ。
――本日予定メニュー(予測)
・シートノック
・シート打撃(投手:二年中心/打者:上級生+一部一年)
(やっぱり来るか)
*
放課後。
部室で着替えを済ませてグラウンドに出ると、すでに先に来ていた上級生たちがアップを始めていた。
「集合!」
村井の声に全員が集まる。
「今日は守備と打撃を、試合に近い形で確認する。
前半はポジション別ノック。後半はシート打撃だ」
ざわ、と空気が少しだけ変わる。
「シート打撃は、投手が矢部、高木、田所。佐伯が受ける。
打つのは上級生を中心に、一年からも何人か入れる。
守備はほぼレギュラー想定の布陣。打つ方は順番でどんどん回していく」
村井が手元の紙をめくる。
「一年で打席に入るのは……中村、山下、三宅。この三人だ」
(来たな)
敦は、小さく息を飲んだ。
「投手希望の一年も、一度は打席に立たせておきたい。
“投げるだけ”の野球は、うちではさせない。心しておけ」
「はい」
敦は短く返事をした。
*
ポジション別ノックが一段落し、内野にベースが整えられていく。
シート打撃の準備が進むあいだ、敦はベンチ脇でバットを手に素振りをしていた。
金属バットの感触。
グリップの重さ。
高校の公式球を想定したバットは、中学のものよりわずかに長く、わずかに重い。
(前の人生で草野球やってたときは、もう少し軽いバット使ってたな)
スクリーンが、打撃の簡易ステータスを表示する。
――打撃ステータス(現時点推定)
・コンタクト:C〜B
・パワー:B(潜在 A〜S)
・選球眼:C
備考:
・現時点では“当てに行く”バッティングが安定
・本気のスイングは、まだ体が振り切れていない
(本気を全部出すのは、もう少し先でいい)
そう思う一方で、
(でも、“ただの一年”としてしか見られないのも困る)
という思いもあった。
シート打撃が始まり、打者が順番に呼ばれていく。
「じゃあ、上級生からいくぞー。最初、二年の内野陣。順番に打席入れ」
村井の声に、数人がバットを持って打席に向かう。
矢部がマウンドに立ち、佐伯がホームベース後ろに構える。
守備陣は、それぞれ自分のポジションで全力プレーの準備をしていた。
「プレイ!」
村井の声とともに、シート打撃が始まる。
カウントを取り、ランナーを想定しながらの打撃。
打球が飛べば、守備も全力で反応する。
(矢部先輩の球、やっぱり試合形式だと見え方が違うな)
ブルペンで見た時よりも、ストレートが重く感じる。
変化球も、ストライクからボールになる軌道でしっかり振らせている。
(ここに割り込んでいくのか……)
そんなことを考えているうちに、打席は少しずつ進んでいった。
*
何人かの上級生の打席が終わったところで、村井の声が飛ぶ。
「一年、中村! バット持って打席入れ!」
「よっしゃ」
中村がヘルメットをかぶり、バットを片手にベンチを出る。
「見とけよ」
打席へ向かう前に、ちらっと敦の方を見てニヤリと笑った。
「いつもみたいに空振りしなきゃいいけど」
「うるさい。今日はちゃんと当てる」
短いやりとりのあと、中村はバッターボックスへ入った。
初球、ストレート。
中村はきっちり見送り、ストライク。
二球目、外角寄りのスライダー。
今度はバットを出しかけて止め、ボール。
三球目。
少し高めに甘く入ったストレートを、コンパクトに振り抜いた。
「おっ」
打球はライト前に落ちるクリーンヒット。
「ナイスバッティング!」
ベンチから声が飛ぶ。
一塁ベース上で、中村は気まずそうに笑いながらも、どこか誇らしげだった。
(やるな)
敦は、ほんの少し感心していた。
(チャンスに強いタイプかもしれないな、あいつ)
そのあとも上級生の打席が続き、やがて――
「次、一年! 山下、準備しろ!」
ついに敦の名前が呼ばれた。
*
ヘルメットをかぶり、バットを持ってベンチを出る。
打席へ向かう足取りは、できるだけ普段どおりを装っていたが、心臓の鼓動は思った以上に早かった。
(練習とはいえ、“投手・矢部”相手の初打席だ)
バッターボックスに入る前に、軽く素振りを二回。
左足を踏み入れ、スタンスを決める。
矢部がサインにうなずき、セットポジションに入った。
(初球は、たぶんストレート)
スクリーンが、ささやくように表示を出す。
――配球予測:
・初球:外角寄りストレート(様子見)
・球威:ブルペン時よりやや上
(わかってても、打てるとは限らないんだけどな)
矢部が足を上げる。
投じられたボールは、予測どおり外角寄りのストレートだった。
敦は、初球から振るつもりはなかった。
腰をわずかに引きながら、球筋だけを目に焼き付ける。
「ストライク!」
村井の声。
(やっぱり、重い)
球速そのものは、プロの映像で見た数字ほどではない。
それでも、“高校のストレート”としての質感は十分だった。
二球目。
佐伯のミットが、わずかに内寄りに構えられる。
(インコース寄り。ストレートか、少し動く球)
敦は、“振る”つもりで構えを少し強くする。
投じられたボールは、やや内寄りのストレート。
ストライクゾーン高め、甘く入ってきた。
(打てる)
体がほとんど反射で動く。
だが、完全なフルスイングではなく、中学まで染みついた「当てに行く」スイングだった。
ガン、と金属音が響く。
打球はライナー性でショートの頭上を越え、レフト前へと落ちる。
「よし!」
ベンチから歓声。
一塁へ走りながら、敦はほんの少しだけ苦笑していた。
(悪くない。悪くないけど――)
本気で振り切ったわけではない。
あくまで、「確実にヒットにする」ためのスイングだった。
一塁ベース付近で、コーチ役の先輩が声をかけてくる。
「ナイバッティン。初球からちゃんと見られてたな」
「ありがとうございます」
「次の機会があったら、もうちょい思い切って振ってみてもいいぞ」
「……はい」
敦はうなずきながら、心の中でスクリーンに問いかける。
(今ので、どのくらい出してた?)
――打撃解析(簡易)
・スイング出力:全力の約65%
・打球速度:高校平均をやや上回るレベル
・評価:
― “確実性重視”としては良好
― 潜在パワーは、まだほとんど使われていない
(やっぱり、六割ちょっとか)
この世界で、どこまで本気を出すべきか。
出しすぎれば、周囲の目を一気に引きつける。
出さなさすぎれば、埋もれていく。
(投げることもある。
捕ることもある。
打つことまで一気に目立ちすぎると、さすがにバランス崩れるか……)
そんなことを考えながら、敦は一塁ベース上からグラウンド全体を見渡した。
自分のヒットで、一塁にランナーがいる。
次の打者が構え、守備陣はいつもどおりのポジションを取る。
(高校野球の“中”に、本当に入ってきたんだな)
前の人生では、テレビの向こう側でしか見られなかった景色。
それが今は、自分の足の下に広がっている。
*
シート打撃が一通り終わり、ランニングと片付けも済んだ頃には、空は薄暗くなり始めていた。
全体解散のあと、村井が敦に声をかける。
「山下」
「はい」
「少し、いいか」
「はい」
グラウンドの隅、人のいない場所まで歩いていく。
「今日の打席、どう感じた?」
「……まだ、“当てに行った”感覚が強かったです。
本気で振り切れてはいないと思います」
「だろうな」
村井は、特に驚いた様子もなくうなずいた。
「それでも、あの打球が打てるなら、“本気で振ったとき”はもっと違う打球が飛ぶだろう」
「はい」
「ただし」
村井の表情が少し引き締まる。
「お前は今、投手として育てている。捕手としても練習を続けている。
そこに“打者としてもフル稼働”を重ねると、体を壊すリスクが出てくる」
「……はい」
「だから、しばらくは“打てる投手候補”くらいに考えておけ。
打撃の全力は、ここぞという場面に取っておいていい」
「ここぞ、という場面……」
「公式戦や大事な練習試合。
どうしても一本欲しいときに、出し惜しみしないで済むように、“普段からの準備”だけはしておけ」
村井は、そこで少し声を柔らかくした。
「それに――」
「はい」
「投げること、捕ること、打つこと。
全部を“そこそこ”で終わらせるつもりは、お前にはないだろう」
図星だった。
「はい。
どれか一つを捨てろと言われたら、たぶん迷います。
でも、どれも中途半端で終わるのは、もっと嫌です」
「なら、その迷いごと連れていけ」
村井は、ふっと笑う。
「最終的にどこに落ち着くかは、三年の夏までに決めればいい。
それまでは、“投げて、捕って、打てるやつ”として道をつなぎながら、自分の限界を少しずつ探れ」
「……はい」
敦は、深くうなずいた。
「今日のヒットは、“当てに行ってもこれだけはできる”という証拠だ。
次に打席が来たときは、それより一歩だけ先を目指せ」
「一歩だけ、ですね」
「そうだ。いきなり十歩進もうとするな。膝を壊す」
「わかりました」
短いやり取りだったが、胸の奥に残るものは大きかった。
*
家に帰ると、ちょうど夕食の支度が終わるところだった。
「今日はどうだった?」
母が味噌汁をテーブルに置きながら尋ねる。
「シート打撃やった。一本、ヒット打てた」
「そうなの? すごいじゃない。お父さん」
呼ばれて、父が新聞から顔を上げる。
「ヒット打ったのか」
「まあ、当てに行った感じですけど」
「それでも一本は一本だ。
ただ――」
父は、じっと敦の顔を見る。
「その顔だと、“まだ先がある”って自分で思ってるんだろう」
「……まあ」
「なら、今日は“一本打てた”ことだけちゃんと認めて、あとは飯を食え。
反省は自分のノートの中でやれ」
「了解」
さっきスクリーンに言われたのとほとんど同じことを、父にも言われた気がして、敦は小さく笑った。
*
夕食と風呂を終え、机に向かう。
世界史の教科書とノートを開き、その横に一冊、別のノートを置いた。
表紙に「野球ノート」と書かれたそれを開く。
『1990年 ○月○日』
日付の下に、今日の練習の内容を書き始める。
・シート打撃 1打席1安打
― 初球ストレート見送り
― 二球目、インコース寄り高めストレートをコンパクトにスイング
― レフト前ライナー
その下に、自分なりの反省を書く。
・スイング出力は六割程度の感覚
・本気で振り切ったときのイメージはまだぼんやり
・次の打席では、もう少しだけヘッドを走らせる意識
(こうやって言葉にしていけば、“次”の自分への借りを作れる)
ペンを走らせながら、敦はそう感じていた。
ページの隅に、小さく付け足す。
『今日の学び:
・全部を一度に手に入れようとしない。
・“一歩だけ先”を目指す』
ペンを置くと、スクリーンが静かに表示を変えた。
――打撃経験値:微増
・コンタクト:C+
・パワー:B(変動なし)
新規サブテーマ:
『バットを握る理由を、自分の言葉で持て』
「……課題増やすのが、本当に好きだな」
敦は小さく笑いながらも、その一行をしっかりと目に焼きつけた。
投げるために走る。
捕るために構える。
打つためにバットを握る。
どれも、前の人生では「週末の楽しみ」だった。
今は、「本気で目指す道」の一部になっている。
(バットを握る理由。
そのうち、“チームのため”とか“勝つため”だけじゃ足りなくなる瞬間が来るかもしれない)
それがどんな理由になるのか、今はまだわからない。
ただ一つだけ――
(そのとき、自分でちゃんと言い切れるようにしておきたい)
そう思いながら、敦は世界史の教科書を開き直した。
ページの端で、野球ノートが静かに閉じられている。
その中には、少しずつ積み上がっていく、自分だけの“二刀流への道”が書き込まれ始めていた。
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