第16話 二つのポジション、二つの未来
月曜日の朝、敦はアラームが鳴る前に目を覚ました。
肩と背中の張りは、昨日より少しだけ引いている。
完全には取れていないが、「ちゃんと回復に向かっている」種類の痛みだ。
(この程度なら、走るメニューくらいは問題ないな)
布団の中で軽く肩を回してみてから、敦はゆっくりと起き上がった。
視界の端に、スクリーンが立ち上がる。
――本日コンディション
・筋肉疲労:小〜中
・投球負荷:中強度まで許容
推奨:
・ダッシュ系は本数注意
・ブルペン入りは“全力”ではなくフォーム確認中心で
「了解」
小さく答えてから、敦は制服に袖を通した。
*
朝食の席では、父が新聞、母がテレビのニュースを見ていた。
「今日は普通に六時間?」
トーストをかじりながら、母が尋ねる。
「うん。六時間目まで授業あって、そのあと部活。今日はミーティングじゃなくて練習だと思う」
「投げさせてもらうの?」
「どうだろう。肩を作るメニューはあると思うけど、本格的に投げるかはわからない」
そう答えると、父が新聞から視線を上げた。
「昨日、自分で振り返りはやったか」
「一応、頭の中で整理した。どの球が良くて、どこが危なかったか」
「そうか」
それだけ言うと、父はまた新聞に目を落とした。
だが、その口元はわずかに緩んで見えた。
*
自転車で学校へ向かう途中、いつものように中村が追いついてくる。
「おーい」
「おはよう」
「昨日のミーティング、思ったよりガッツリ言われたな」
「だな。“勝ったけど課題だらけ”って、あそこまでハッキリ言うとは思わなかった」
「でも、投手陣はだいぶ名前出されてたじゃん。矢部先輩と高木先輩と、それからお前」
「“結果は上出来、内容は課題だらけ”って言われた」
「それ、だいぶ褒めてるよな」
「そうなのか?」
「初登板で最終回任されて、ちゃんと三人で締めて、“課題だらけ”って言われるくらいには期待されてるってことだろ」
言われてみれば、そうかもしれない。
「まあ、その分これからメニュー増えるんじゃない?」
「それは覚悟してる」
そう答えながらも、敦は少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。
*
月曜の授業は、正直、身体より頭の方が重かった。
一時間目の現代文。
二時間目の数学。
三時間目の英語。
四時間目の化学。
五時間目の世界史。
六時間目の保健体育。
(中間テストまで、あと二週間くらいか)
黒板の文字を写しながら、敦は内心でカレンダーをめくる。
(部活に本気で打ち込むなら、成績で足を引っ張るわけにはいかないしな)
問題集のページに、スクリーンが小さく重なる。
――学習モード簡易起動
・中間テストまで残り日数:13日
・現時点の危険科目:世界史・英語
「わかってる」
心の中で短く返す。
(野球だけやっていればいいほど、甘くはない)
五十歳まで生きてしまった人間としての感覚が、そこだけやけに現実的だった。
*
放課後、部室で着替えを済ませると、全員がグラウンド脇に集められた。
「では、昨日言ったとおり、今日からまた通常練習に戻る」
村井が、メニュー表を手に立っている。
「とはいえ、練習試合を一つ終えたあとの“通常”は、試合前とは違う。“試合の結果を踏まえた通常”だ。そのつもりでやれ」
その言い方に、部員たちの表情が少しだけ引き締まる。
「野手は、まずノックの前に走塁と基本動作の確認。打撃は、状況を想定したバッティング練習を多めに入れる」
そう言ってから、村井は投手陣の方を向いた。
「投手は――」
一瞬の間を置いて、名前を読み上げる。
「矢部、高木、そして山下」
「はい」
敦は返事をして、前に出る。
「今日は三人とも、ブルペンに入る。矢部はいつもどおり、球数を抑えた調整。高木は、六回の反省を踏まえて、カウントを意識した投球を重点的に。山下は――」
そこで村井の視線が敦に止まる。
「フォームの確認をしながら、出力を少しずつ上げていく。全力はまだ要らない。その代わり、“どこまでなら無理なく投げられるか”を自分でつかめ」
「わかりました」
「それから山下」
「はい」
「お前は、捕手としての練習も続ける」
「……え?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
「捕手のメニューも、ですか?」
「ああ」
村井は当然のようにうなずく。
「お前の捕球センスと配球の考え方は、投手としても必ず生きる。逆も然りだ。どちらかを捨てるには、まだ早い」
「でも――」
思わず口を開きかけた敦を、村井は手で制した。
「もちろん、“あれもこれも”と中途半端にやらせるつもりはない。優先順位は、その都度俺が決める」
そこで、少しだけ声を低くする。
「だが、お前自身は、どちらの可能性も捨てるな」
その一言が、思いのほか胸に響いた。
(投げるか、受けるか。
どちらか一つを選べと言われることの方が、普通は多いのに)
前の人生でも、草野球でいろんなポジションをやってきた。
ピッチャーもどきの真似事をし、キャッチャーをやり、時々外野に回される。
(今度は、“真似事”じゃない)
スクリーンが、視界の端に小さく表示を出す。
――役割タグ更新
・メイン候補:投手/捕手
・サブ候補:外野手
(ピッチャー、キャッチャー、外野手……)
自分が作ったパワプロのチートキャラと、表示が重なって見えた。
*
最初のメニューは、全員でのランニングと体幹トレーニングだった。
そのあと、野手は別メニューへ。
投手陣は、ブルペン脇でストレッチと軽いキャッチボールから始まる。
「昨日、しっかり投げただろうから、今日は無理するなよ」
キャッチボールの相手をしながら、高木が声をかけてくる。
「そっちこそ。六回、けっこう球数投げてましたよね」
「まあな。でも、ああいう回を経験しておかないと、夏にもっときつい目に遭うぞ」
「……そうですね」
ボールを受けながら、敦はフォームを一つ一つ確かめていく。
右足を上げる高さ。
軸足に乗せる体重。
踏み出しの幅。
リリースの位置。
――フォームチェック・簡易診断
・リリース位置:安定
・体重移動:やや前のめり傾向あり
・改善提案:
― 上半身の力みに注意
― 下半身主導の意識強化
(上半身、か)
たしかに、七回は肩と腕に頼り気味だった感覚があった。
キャッチボールを続けていると、ブルペンから佐伯が顔を出した。
「そろそろだ。矢部から入る。高木は二番手、山下はそのあとだな」
「了解です」
矢部がマウンドに上がり、佐伯がミットを構える。
敦は、その投球を横からじっと見ていた。
フォームのバランス。
リリースのタイミング。
球の質。
(やっぱり、今の自分とは全然違うな)
スクリーンが、矢部のフォームに簡単な注釈を付ける。
――比較対象:矢部(2年)
・下半身主導の体重移動がスムーズ
・リリースまでの力の伝達が滑らか
・球速そのものより、“球持ちの良さ”で勝負するタイプ
(“球持ちの良さ”……)
自分にはまだ足りないものばかりだ。
*
順番が回ってきて、敦はブルペンのマウンドに立った。
「まずは七割で十球。そのあと、少しずつ強くしていく」
佐伯がミットを構えながら言う。
「了解」
グローブをはめる前に、一度ボールを握る。
自分で決めたスイッチを入れてから、敦は振りかぶった。
ストレート。
外角低め。
ミットに収まる音。
「今の、どうですか」
「悪くない。力は抑えてるけど、腕の振りは試合のときより自然だ」
次の球。
今度は内角寄り。
わずかにシュート回転して、コースを外れる。
「ボール」
「ちょっとこすりましたね」
「そうだな。でも、今は“こすった感覚”に気づけてるだけ前進だ」
佐伯は、ミットで軽くマウンドを指した。
「意識を全部“腕”に持っていくな。下半身の動きも一緒に感じろ」
「下半身……」
「お前、投げてるとき、自分の足の動きをあまり覚えてないだろ」
図星だった。
「投げ終わったあと、“今どれくらい踏み出したか”とか“どこに着地したか”って、意外と覚えてないはずだ」
「言われてみれば……」
「だから、一本一本、投げたあとに足元を確認してみろ。ここと決めたラインより前に出てるか、後ろか」
ブルペンの土には、すでに細いラインが引かれていた。
プレートからの歩幅を示す目印だ。
「このラインが“今の標準”。今日はここから大きくズレないように投げる。それだけでも、フォームはかなり安定する」
「わかりました」
敦は、ラインをちらりと見てから、もう一度振りかぶった。
踏み出す。
投げる。
土を踏む感触。
投げ終わってから、足元を見る。
ラインの、ほんの少しだけ手前。
「今ので、どのくらいですか」
「半歩手前だな。悪くはないけど、さっきよりは体重が前に乗り切ってない感じだ」
次の球。
今度は、ラインを少しだけ意識して踏み出す。
ミットに収まる音。
足元を見ると、ほぼライン上。
「さっきよりいい感じだ」
佐伯がうなずく。
「球速は?」
「今ので……」
スクリーンが小さく数値を表示する。
――推定球速:七割出力で 136〜138km/h
「だいたい、そのくらいだな。七割でそれなら、無理して力を入れる必要はない」
佐伯はミットを軽く叩いた。
「今は、“自分の七割がどこなのか”をきちんと覚えろ。本気で投げるのは、その先だ」
「はい」
*
ブルペンを終えてベンチに戻ると、今度は捕手としてのメニューが待っていた。
「山下、次はバッティングピッチャーの球を受けろ」
「了解です」
投手用のグローブから捕手ミットに持ち替える。
防具をつけ、ホームベース後ろにしゃがみ込む。
バッティングピッチャーのボールを受けるのは、単純なようでいて、意外と頭を使う。
ストレート、カーブ、スライダー。
ボールの回転を見て、落ちる軌道を読む。
ときどき、バッターが打ち損じたファウルチップがミットにぶつかり、腕がしびれた。
(やっぱり、キャッチャーも楽じゃないな)
それでも、敦はこのポジションが嫌いではなかった。
打者の構え。
投手のフォーム。
カウント。
走者の位置。
それらを全部見ながら、「今ここで何を投げるべきか」を考える。
投げる側と、受ける側。
どちらの視点も持てることは、自分の武器になる。
(プロに行けるかどうかはまだわからない。
でも、もし行けたとしたら――)
マウンドに立ち、打席にも立つ。
そんな未来を、ほんの少しだけイメージしてしまう。
*
練習が終わる頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
片付けを終え、部室で着替えていると、矢部が声をかけてきた。
「山下」
「はい」
「投げる方も、受ける方も、欲張りだな」
冗談めかした口調だが、責めるような響きはない。
「でも、その欲張りは悪くないと思うぞ」
「……ありがとうございます」
「どっちか一つに絞れと言われるのは、多分もう少し先だ。今のうちに、どっちも“中途半端じゃないレベル”まで引き上げておけ」
矢部はそれだけ言うと、自分のロッカーに戻っていった。
その背中を見送りながら、敦は軽く息を吐く。
(中途半端じゃないレベル、か)
自分でハードルを上げている自覚はある。
でも、その高さに、どこかでワクワクしている自分もいた。
*
家に帰ると、ちょうどテレビでプロ野球中継が始まるところだった。
画面には、甲子園球場の外観が映る。
観客席には、まだ夕暮れの光が残っていた。
「今日、阪神戦?」
「ああ」
父がソファに座りながら答える。
「お前も、少し見るか」
「宿題終わったら見る」
そう言って自分の部屋に向かいかけて、敦は足を止めた。
(いや――)
「……やっぱり、少しだけ見る」
向きを変えて、父の隣に座る。
画面には、プロのピッチャーがマウンドに立っていた。
セットポジションから、迷いのないフォームで投げ込む。
(あのマウンドは、同じ“マウンド”でも、まだ全然別物だな)
高校の硬式野球と、プロの世界。
距離は遠い。
けれど、完全に断絶されているわけではない。
スクリーンが、視界の端でささやくように表示を出す。
――長期ルート案(参考)
・高3夏:甲子園出場
・大学 or 社会人:投手として、あるいは捕手・外野手として経験を積む
・その先に、“プロで二つのポジションを続ける可能性”あり
(本当に、そんなところまで行けるかはわからないけど)
敦は、画面の中の投手のフォームを目に焼きつけながら思った。
(行けるかどうかを決めるのは、“今日の一本”とか“今日の一球”の積み重ねなんだろうな)
「さっきから、真剣な顔で見てるな」
父が、少しだけ笑いながら言う。
「何か考えてるのか」
「……自分が、ここまで行けるかどうか」
正直に言葉にしてみる。
「行きたいのか」
「行きたい。
できるなら、投げて打って守れる選手として、あの場に立ってみたい」
父はしばらく黙って画面を見ていたが、やがて短く言った。
「なら、今は“明日の練習に遅れない程度の時間”、野球を見て、残りは勉強に回せ」
「勉強か……」
「成績を理由にベンチから外されたくはないだろう」
「それは、絶対に嫌だ」
「なら、両方やれ」
言い方は淡々としているが、それが父なりのエールだということくらいは、敦にもわかるようになっていた。
「わかった。
この回が終わったら部屋に戻る」
「それでいい」
*
部屋に戻って机に向かうと、問題集の横にノートを一冊取り出した。
表紙には、まだ何も書かれていない。
「……野球用のノートも、作るか」
表紙の端に、ボールペンで小さく書き込む。
『野球ノート』
その下に、さらに小さな文字で付け足す。
『投手/捕手/外野用』
ページをめくり、最初の一枚の上の方に日付を書く。
『1990年 ○月○日』
その下に、今日の練習の内容と、自分なりの反省を短くまとめていく。
・ブルペン 七割出力ストレート
― 下半身の使い方がまだ不十分。ラインを意識すると安定する
・捕手練習
― 回転を見る意識を続ける。ファウルチップの処理
(こうやって一つ一つ書いておけば、どこかで必ず役に立つ)
勉強用のノートとは違う、もう一つの「教科書」。
それを自分で作っていく感覚が、敦には少し心地よかった。
最後に、ページの隅に小さく書き足す。
『目標:
・一年のうちに公式戦登板
・どのポジションでも、“中途半端じゃない”と胸を張れるようになること』
ペンを置いたところで、スクリーンがそっと一行だけ表示を変えた。
――新規サブミッション登録
『自分だけの“二刀流ノート”を作れ』
「……名前のセンスは微妙だけど」
敦は小さく笑った。
「悪くない宿題だな」
窓の外では、夜の気配がゆっくりと濃くなっていく。
マウンドに立つ自分。
ホームベース後ろで構える自分。
外野から全力で送球する自分。
三つの姿が、まだぼんやりとした輪郭のまま、同じ未来のどこかで重なり合っているような気がした。
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