第15話 同学年の怪物たち

 日曜日の朝、敦は、いつもより少し遅く目を覚ました。


 体を起こした瞬間、肩から背中、太ももにかけて、じわりとした張りが走る。


(……来たな、筋肉痛)


 予想していた痛みだ。

 嫌な痛みではない。

 むしろ「ああ、ちゃんと投げたんだな」と体が教えてくれているようで、どこか嬉しかった。


 視界の端で、スクリーンが静かに立ち上がる。


――翌日ステータス

 ・筋肉疲労:中

 ・関節ダメージ:なし

 推奨:

 ・朝:軽いストレッチと散歩程度

 ・キャッチボール、全力投球は本日NG


「わかってるよ」


 敦は、ベッドのふちに腰を下ろしながら小さく答えた。


(今日くらいは、肩を休ませないとな)


 そのかわり、やるべきことは決まっている。


「昨日の、振り返りだな」


     *


 朝食を済ませ、部屋に戻ると、敦は机の上に肘をついてスクリーンを見つめた。


「昨日の試合、再生できるか?」


 問いかけると、スクリーンの表示が切り替わる。


――映像ログ検索

 ・校内カメラ映像:未接続

 ・個人視点データ:あり


「個人視点?」


――説明:

 ・投球時、打席時など一部プレーは「自分の視点からのイメージ」として記録

 ・厳密な映像ではなく、“感覚ベースのリプレイ”


「なるほどな……イメージトレーニングの逆再生版、みたいなものか」


 少しおもしろくなってきた。


「じゃあ、七回のマウンド、最初から見せてくれ」


――再生開始


 視界が切り替わる。

 そこには、昨日の「自分の目線」があった。


 マウンドから見下ろすホームベース。

 佐伯のミット。

 相手の五番打者の構え。


 一球目のストレート。

 ミットに収まる音と同時に、「ストライク!」という審判の声が、少しだけくぐもって響く。


(こうやって見ると、そんなに派手なボールじゃないな)


 二球目。

 そして、外にはずれるスライダー。


「……うわ、今の腕の振り、ちょっと弱いな」


 自分のフォームを客観的に見て、敦は思わず顔をしかめた。


 そのあと――

 ショートの横っ飛びキャッチ。

 センター前進のダイビング気味キャッチ。

 最後の七番打者とのフルカウント勝負。


 スクリーン越しの「自分の視点」は、どれも昨日より落ち着いて見えた。

 見返している今だからこそ、冷静に分析できる。


 最後の一球。

 外角高めに伸びていくストレート。


「ストライク! スリー!!」


 審判の声とともに、映像がふっと止まった。


――個人視点リプレイ終了


 少しの余韻を残したまま、スクリーンの表示が切り替わる。


――自己評価フォーム(簡易版)

 ・今の登板を10点満点で自己採点せよ


「自己採点かよ……」


 敦は少し考えた。


(野手にかなり助けられた。球数も少ないし、たまたまハマった部分もある。

 でも、四球ゼロで終わらせたのは事実だし……)


「……6点」


 そう口にすると、スクリーンの数字が「6」で確定する。


――自己評価:6/10

 ・控えめだが、妥当なライン

 ・今後の目標設定に利用


(満点つけるほど自惚れてはいないし、3とか4ってほど悲観もしてない)


 数字を見て、敦は自分の中のバランス感覚にちょっとだけ安心した。


「じゃあ次は、“これから”を見せてくれよ」


――“これから”とは?


「この時代の高校野球。

 俺が今いる年が何年で、同じ年代にどんな選手がいるか。

 プロで活躍する連中の“高校時代”の一覧みたいなの、ないのか?」


 少し間を置いて、スクリーンに別のメニューが立ち上がる。


――時代情報モード:高校野球編

 ・現在:1990年度

 ・ユーザー学年:高校1年

 ・同学年/前後の主な有望選手(抜粋)


「お、来た」


 敦は、身を乗り出した。


     *


 まず表示されたのは、「一学年上」の欄だった。


――一学年上(現2年)

 ・鈴木一朗(愛工大名電/投手・外野手)

  特徴:右投げ左打ち。細身だが柔らかいしなりのあるフォームから、キレのあるストレートと変化球。

     打者としても俊足巧打・強肩。投打ともに将来性大。


「鈴木一朗……」


 敦は、思わずその名前を指先でなぞる。


(イチローだ)


 前の人生で、何度テレビで見たかわからない選手。

 安打製造機。

 メジャーでの大記録。

 WBCでの決勝打。


 でも、この時代のイチローは――


(まだ“ピッチャーでもある”んだよな)


 画面のプロフィールには、しっかりと「投手・外野手」と並んでいる。


(愛工大名電で、エース格としてマウンドにも上がって、打席でも打ちまくる。

 高校時代のイチローって、ほぼ二刀流みたいな存在だったんだよな)


 自分も、いずれは「投げて、打って、守れる」選手を目指している。

 プロで二刀流、なんて言われる未来を、ぼんやりとした形で思い描いている。


(なのに、一つ上には“先輩二刀流”がもういるのか)


 おかしさと、妙な悔しさが混ざったような感情が胸に残った。


(愛工大名電ってことは、愛知。

 甲子園で当たる可能性がある、ってことか。

 投げるイチローと、投げる俺。

 もしそんなカードが実現したら……)


 敦は、そこで一度思考を止めた。


(いや、妄想する前に、まず地区予選だ)


 自分で自分にツッコミを入れて、視線を「同学年」の欄に移す。


――同学年(現1年)

 ・松井秀喜(星稜/内野手→外野手予定)

  特徴:長打力突出。将来的に“高校野球史に残る4番打者候補”

 ・その他、全国に複数の強打者・好投手


 その名前を見た瞬間、敦は息を呑んだ。


「……松井」


 星稜。

 ホームラン。

 巨人の四番。

 メジャー。

 そして――


(五打席連続敬遠)


 記憶の奥底から、あの甲子園の映像がよみがえる。

 3年夏、準々決勝。

 明徳義塾が、あえて「勝つために」選んだ徹底敬遠。


 スクリーンが、敦の脳の動きを読んだかのように小さく表示を追加してくる。


――将来イベント(ネタバレ注意)

 ※ハイライトのみ表示

 ・1992年夏の甲子園

 ・星稜 vs 明徳義塾

 ・松井秀喜:五打席連続敬遠


「……おい、普通にネタバレしにきたな」


 敦は思わず突っ込んだ。


(いや、俺はもう知ってるからいいけど)


 むしろ、その年が自分にとっても「高校最後の夏」になる。


 1990年度が一年。

 1991年度が二年。

 1992年度が三年。


(ってことは――)


「松井と同じ“最後の夏”に、俺も甲子園に立つ可能性があるってことか」


 声に出してみると、言葉の重みが一気に現実味を帯びる。


(星稜。

 愛工大名電。

 それ以外にも、名前が残るような連中が全国にごろごろいる)


 スクリーンが、さらに情報を追加する。


――長期ミッション候補


 ◆ミッション:

 『3年夏、甲子園のマウンドに立て』


 ・サブ条件案:

  ① 同学年の“怪物打者”と公式戦で対戦せよ

  ② 「伝説の大会」に、自分の名前を残せ

  ③ 一学年上の“二刀流の先輩”と、同じ甲子園に立て


「……だいぶハードなことを、さらっと言うな」


 敦は苦笑した。


 しかし、胸の奥では、さっきから別の感情が膨らんでいる。


(本当に、同い年なんだよな)


 スクリーンに表示された「松井秀喜 星稜/1年」の文字。

 そして「鈴木一朗 愛工大名電/2年」。


 プロでの圧倒的な活躍。

 国民的スター。

 その「スタート地点」が、今この瞬間、自分たちと同じ「高校一年、二年」の春にある。


(俺は――この世界で、そいつらと同じ土俵に立ててるのか?)


 問いかけるように拳を握る。


     *


 ドアがノックされ、母の声がした。


「ちょっとあんた、部屋で何か言ってるけど、大丈夫?」


「あ、平気。自分自身と喧嘩してただけ」


「余計に心配なんだけど?」


 ドア越しに、わずかにあきれた気配が伝わってくる。


「ちゃんとストレッチくらいはしなさいよ。明日、学校行けなくなったら笑えないからね」


「わかってるって」


 返事をしながら、敦は立ち上がった。


「……そうだな。まずは、現実的なところからだ」


 スクリーンに向き直る。


「長期ミッション、設定していい。ただ――」


――条件の変更?


「“甲子園に立て”はそのままでいい。

 そこに、“その前にやるべきこと”を段階的に入れてくれ」


――段階的?


「そうだな――」


 敦は、指折り数えながら口にしていく。


「① 一年のうちに、公式戦で一度はマウンドに立つ。

 ② 二年のうちに、“勝ちゲーム”を任される。

 ③ 三年の夏までに、“チームの柱として投げる”状態まで持っていく」


 スクリーンに、それがそのまま箇条書きで反映されていく。


――長期ミッション更新


 ◆最終目標

 『3年夏、甲子園のマウンドに立て』


 ◆段階目標

 ① 高1:公式戦登板を経験せよ(イニング数問わず)

 ② 高2:勝ち試合の終盤を任される立場になれ

 ③ 高3:チームの「核」としてマウンドに立て


「……最終的に、松井と正面から勝負できるくらいにはなりたい。

 できれば、“投げるイチロー”と同じ大会にも立ちたい」


 そこまで思って、敦は口をつぐんだ。

 言葉にしてしまうと、夢の大きさに自分で押しつぶされそうだったからだ。


     *


 軽くストレッチをして、近所をぐるりと一周歩いたあと、敦は再び机の前に戻った。


「なあ」


――何か質問?


「もし仮に、だ。

 俺が甲子園に行って、星稜と当たる可能性ってどれくらいある?」


――現時点データ不足により、正確な確率算出は困難


「だよな」


――ただし参考情報:


 ・星稜高校

  ― 石川県代表として、当時から甲子園常連校候補

 ・愛工大名電

  ― 愛知の強豪校。複数回の甲子園出場歴あり


 ・ユーザー所属校(武庫工業高校)は、現時点で“全国的知名度は低いが、潜在的伸びしろあり”と推定


「最後の一行が、一番曖昧で一番ムズムズするな」


 敦は笑った。


(つまり、“お前次第”ってことか)


 未来の年表では、大きく取り上げられることのない学校。

 少なくとも、自分のいた世界では、「武庫工業高校」という名前が甲子園の常連として出てきた記憶はない。


(でも、歴史は変えられる)


 そう信じているからこそ、今ここにいる。


「なあ」


――はい


「もし、俺が甲子園に行って、星稜と当たることになったら――」


 言いながら、自分で自分の言葉に少し笑ってしまう。


「そのとき、松井に真正面からストレート勝負してもいいと思うか?」


 少しの沈黙のあと、スクリーンが答えた。


――その時点での能力値・状況次第


「だろうな」


――ただし、現ユーザーの嗜好・性格・過去のプレイスタイルを分析すると:


 ・“逃げて勝つ”より“ぶつかって負ける”展開を選びがち

 ・ただし、誰かを守るためなら“あえて敬遠を選ぶ”可能性もあり


「性格まで分析されてるのかよ」


 敦は苦笑した。


(五打席連続敬遠――)


 あの試合を、観客として見ていたときと、今の感覚はまったく違う。


(もし、自分がマウンドにいて、相手に“高校野球史に残る怪物”が立っていたとしたら)


 勝負を避けてでも、チームの勝利を優先するのか。

 それとも、負けるのを覚悟でぶつかっていくのか。


(今決めることじゃない)


 敦は、深く息を吐いた。


(その場になって、チームの状況と、自分の状態と、全部ひっくるめて考えて――それでも、最後に後悔しない選択をするしかない)


 スクリーンが、小さく文字を表示する。


――長期テーマ:

 『勝利と“勝負”の両立を考えろ』


「大きく出たな、お前」


 敦は、笑いながらもその言葉をしっかりと目に焼きつけた。


     *


 昼前になって、キャプテンから連絡が来た。


『今日の夕方、短いミーティングだけやるって監督から。

 練習じゃなくて、昨日の試合の振り返りと、今後の方針の話らしい』


 メッセージを読み終えて、敦はスマホを置いた。


(そりゃそうだよな。勝ったとはいえ、課題だらけだ)


 しばらくして、父がリビングから声をかけてきた。


「敦」


「何?」


「夕方、学校行くんだろう」


「うん。昨日の試合の振り返り」


「そうか」


 父は、テレビを消して、少しだけ真面目な声になった。


「監督や先輩から何を言われるか、予想はつくか?」


「ある程度は。

 ストレートで押せた場面と、カウントを悪くした場面。

 野手に助けられたこと。

 たぶん、その辺は全部言われると思う」


「そうだな」


 父は、納得したようにうなずく。


「言われたことを、そのまま“答え合わせ”に使うなよ」


「どういう意味?」


「お前の頭の中にある反省と、監督や先輩から出てくる指摘が、どれくらい重なっているかを確認してこい。

 それが一致しているなら、お前の“自己分析の目”はある程度合っているってことだ」


「……もしズレてたら?」


「そのときは、“ズレている”こと自体が収穫だ。

 そこから目をそらさなければな」


 シンプルな言い方なのに、その一言が妙に響いた。


「わかった。

 自分の反省と、チームの評価、両方ちゃんと持ってくる」


「それでいい」


 父は、それ以上何も言わなかった。


     *


 夕方、学校の部室に集まった部員たちは、いつもより静かだった。


 グラウンドではなく、教室に机を並べてのミーティング。

 ホワイトボードには、昨日の試合のスコアと簡単なメモが書かれている。


「まず、結果としては2―1で勝ち」


 村井が、いつもの落ち着いた声で話し始めた。


「だが、内容としては“課題だらけの勝利”だ。ここを勘違いするな」


 その言葉に、何人かの上級生がうなずく。


「打線は、チャンスを作りながらもあと一本が出ない場面が多かった。

 守備は大きなミスこそなかったが、“紙一重”のプレーに助けられた部分も多い」


 そう言ってから、村井の視線が投手陣に向いた。


「投手は――矢部、高木、それから山下」


 名前を呼ばれて、敦は姿勢を正した。


「矢部は、四回までよく投げた。

 ピンチでのストレート勝負は、リスクもあったが、あそこで逃げないことには今後の成長もない」


「はい」


「高木は、六回の失点は反省点だが、そのあとを最少失点で止めたことは評価できる」


「……ありがとうございます」


「そして、山下」


「はい」


「初登板で最終回、一点差の場面を任されて、打者三人で切った」


「はい」


「結果だけ見れば“上出来”だ。

 だが、内容はどうだった?」


 問われ、敦は一拍置いてから答えた。


「……野手の方に、かなり助けられました」


「具体的に」


「五番のライナーは、ショートの完全な好捕です。

 六番のセンター前っぽい打球も、センターの前進がなければヒットになってました」


「そうだな」


 村井はうなずく。


「だが、“野手に助けられた”という言葉の裏側を、もう一歩踏み込んで考えろ」


「裏側……?」


「お前の球が、ちゃんと“勝負できる球”だったからこそ、野手のプレーも生きた。

 逆に言えば、“打たれたら何をされるかわからない棒球”だったら、同じようにはならなかったかもしれない」


 思いもしなかった言い方だった。


「結果として、お前は“守られる投手”になった。

 それは、“守ってもらわないとどうにもならない投手”になったということじゃない。

 “守りたくなる投手”だったという意味だ」


 守りたくなる――。


 その言葉が、すっと胸の奥に入ってきた。


「次は、“守ってもらいながら、試合作りもできる投手”になれ」


「……はい」


「それから」


 村井は、ホワイトボードの隅にちょっとしたメモを書き加える。


「これは、個人的な期待だが――」


 そこには、簡単な文字が並んだ。


『3年夏 甲子園』


 その横に、小さく、


『同学年の怪物たちと、同じ大会に立て』


と書き足される。


「世代的に、お前らの少し上と同学年には、全国に“化け物”みたいな打者や投手がゴロゴロいる」


 村井は、投手陣だけでなく、野手にも視線を向けた。


「愛工大名電の鈴木。

 星稜の松井。

 名前を聞いたことがあるやつもいるだろう」


 部員たちの間に、ざわり、と小さな波が広がった。


「新聞や雑誌で名前が出始めている。

 投げても打ってもすごい連中だ」


 敦は、胸の内でそっと拳を握った。


「そういう連中と、同じ土の上に立つ可能性が、お前たちにはある」


 村井の視線が、一瞬だけ敦の方で止まる。


「そのために必要なのは、“今ここでの一球”だ。

 今日の反省を、明日の練習に持ち込める者だけが、“あの舞台”に辿り着く」


 ミーティングは、淡々とした口調のまま締めくくられた。


     *


 帰り道、自転車をこぎながら、敦は夕焼けの空を見上げた。


(同学年の怪物たち、か)


 星稜の松井。

 愛工大名電の鈴木一朗。


(前の人生では、テレビの向こう側にいた人たちだ)


 でも今は、自分と同じ高校生。

 同じように、グラウンドで走り、バットを振り、ボールを投げている。


(どこまで近づけるか、試してみたい)


 怖さもある。

 けれど、それ以上に、胸の奥がじわじわと熱くなる。


 スクリーンが、視界の端で小さく明滅した。


――長期ミッション、正式登録


 ◆『3年夏、甲子園のマウンドに立て』

 サブタイトル案:

 『松井と同じ大会に立て/投げるイチローと同じ時代を駆けろ』


「タイトルのセンスはともかくとして――」


 敦は、思わず笑った。


「悪くない目標だな」


 ペダルを少しだけ強く踏み込む。


 夕焼けの空の向こう側に、まだ見ぬ甲子園の大きなスタンドが、かすかに重なったような気がした。


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