第14話 七回、最後の三人

 最初の一球がストライクとコールされたあと、敦はもう一度深く息を吸った。


(よし……一球は、ちゃんと入った)


 マウンドの土を、右足のスパイクで軽くならす。

 バッターボックスには、相手の五番打者。がっしりした体つきだが、先ほどの打席では高木のスライダーに泳がされていた。


 佐伯がサインを出す。

 ミットはやや外角寄り、低め。


(ストレートでいい、か)


 敦は小さくうなずいた。


 二球目。

 少し力が入ったが、なんとかゾーンの隅に決まる。


「ストライク、ツー!」


(よし、0-2)


 カウント優位。

 だが、ここからが本当の勝負だということも、プロ野球を見ていて嫌というほど知っている。


(ここで“簡単に決めに行く”と、甘くなって打たれるパターンだ)


 佐伯が、もう一度サインを出す。

 今度は、外にはずれるスライダー。


(見せ球、だな)


 敦は、わずかに腕の振りを変えずに、ボール球になる軌道をイメージした。


 投げたスライダーは、狙いどおりストライクゾーンの外側に曲がっていく。

 打者は手を出しかけて、なんとかこらえた。


「ボール!」


 審判の声が響く。


――カウント:1-2


(まだ、こっちが上)


 佐伯は、ミットを胸の前でトントンと軽く叩いた。

 それから、もう一度サインを出す。


 外角低め、ストレート。

 狙いは“コースいっぱい”。


(行くか……)


 敦は、一瞬だけ迷いかけてから、自分の意思でうなずいた。


 振りかぶり、腕を振る。

 さっきまでより、ほんのわずかだけ出力を上げたストレートがホームへ向かう。


(低く、低く――)


 ミットが構えている位置より、数センチだけ高く入った。


 五番打者のバットが唸る。


「しまっ――」


 打球はライナーになって、ショートの左を強烈に襲った。


「うわっ」


 敦の口から、思わず声が漏れる。


 だが、打球方向に一歩目を切っていたショートが、横っ飛び気味にグラブを伸ばし、その先端で吸い込んだ。


「アウト!」


 審判の右手が上がる。


「ナイスキャッチ!!」


 グラウンド中に声が響く。

 ショートは派手なガッツポーズもせず、軽くボールを投げ返してきた。


「助かった……!」


 敦は、心の底からそう思った。


――一死 走者なし


 スクリーンが静かに表示する。


 鼓動はまだ早い。

 だが、最初のアウトを取れたことで、足の震えは少しだけおさまっていた。


     *


 次の打者は六番。

 体格はそこまで大きくないが、コンパクトなスイングでしっかりと捉えてくるタイプに見える。


(長打で一気に、というより、しぶとくつないでくる系かな)


 佐伯のサインは、外角へのストレートで様子を見るものだった。


 初球。

 敦は、さっきよりは少しだけ肩の力を抜いて投げる。


 ボールは、やや高めに浮いた。


 六番は、迷いなくスイングした。


「やば――」


 打球は、ライナー性でセンター方向へ飛ぶ。


(抜ける……!)


 と思った瞬間、センターが鋭い一歩目で前進し、最後はわずかにスライディングを交えてグラブに収めた。


「アウト!」


 二つ目のアウトが、守備陣の好プレーで転がり込んできた。


「ナイス、センター!!」


 敦は、マウンド上から全力で叫んだ。


 センターが軽く帽子のつばに手をやり、こちらに合図を返してくる。


(完全に、野手に守られてるな、俺)


 ありがたい、という気持ちと同時に、どこか申し訳なさも少しだけ湧く。


――二死 走者なし


 スクリーンの文字が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。


     *


「あと一人!」


 ベンチから、声がひときわ大きくなる。


 バッターボックスには七番。

 構えは少しオープンスタンスで、初球から積極的に振ってきそうな雰囲気だ。


(ここで余計なこと考えると、最後の最後でつかまるパターンだ)


 敦は、グローブの中で握ったボールに意識を集中させる。


(四球は出さない。甘く入れすぎてもダメ。

 でも、“怖くて置きに行く”のが一番良くない)


 佐伯がサインを出す。

 外角低め、ストレート。


 敦はうなずき、最初の一球を投げ込んだ。


 ストライクゾーンからわずかにはずれたが、七番は見逃し。


「ボール!」


 カウント1-0。


(悪くはない……けど、このカウントでビビってボール先行させると面倒だ)


 二球目のサインは、インコース寄りのストレート。

 “見せ”の意味が強い球だ。


 敦は、ほんの少しだけ狙いより外し気味に、しかししっかりと“近さ”を意識して投げた。


 打者はわずかにのけぞり、バットは出てこない。


「ボール!」


 カウント2-0。


(うわ、2-0か……)


 スクリーンが、即座にアラートを出す。


――警告:カウント不利

 ・ここでさらにボールを続けると、四球リスク急上昇

 ・推奨:カウントを戻すための「取りに行くストライク」を1球


(わかってる。ここでストライク取れないと、勝負どころを相手に渡す)


 佐伯がサインを出した。

 外角いっぱい、ストレート。


 敦は、一度首を振りかけて――やめた。


(いや、これでいい。ここを怖がったら、この先ずっと同じことを繰り返す)


 自分に言い聞かせるようにうなずく。


 振りかぶり、足を上げる。

 腕を振るときに、“置きに行かない”ことだけを意識した。


 ボールは、思った以上に気持ちよく指から抜けていく。


 ミットのやや上側に収まる、重い音。


「ストライク!」


 審判の右手が上がった。


(戻した……!)


 2-1。

 まだ打者有利のカウントではあるが、さっきよりは呼吸がしやすい。


 佐伯は、マスクの奥で目だけを少し細めた。

 それから、今度は小さく首を横に振り、自分からタイムを取った。


「タイム!」


 敦のところに歩いてくる。


「悪くないよ」


 佐伯は、まずそう言った。


「今の球、ビビらずに投げ込んだのは、本当に良かった」


「……でも、まだカウント負けてます」


「だからだよ」


 佐伯は、ボールを受け取り、指で縫い目をなぞりながら続けた。


「ここから“どう勝負するか”で、お前の初登板の内容が決まる。結果だけじゃなくて、中身がな」


「中身……」


「ストレートで押してもいい。変化球を混ぜてもいい。ただし、“どっちか”に中途半端な気持ちで行ったら、一番危ない」


 言いながら、ボールを敦へ返す。


「何で行きたい?」


 唐突にそう聞かれて、敦は一瞬だけ迷った。

 ストレートで押し切るか、フォークを混ぜるか。


(でも――)


 頭の中に、昨日村井に言われた言葉が浮かぶ。


『マウンドでも、ホームベースの後ろでも、中途半端に立つと怪我するぞ』


(そうだ。どっちか“決めない”のが一番まずい)


「ストレートで行きたいです」


 敦ははっきりと言った。


「わかった」


 佐伯は、それ以上何も言わず、ベンチ方向をちらっと見てから、マスクをかぶり直した。


「じゃあ、“ストレートで抑える配球”にする」


 タイムが解かれ、試合が再開される。


     *


 カウント2-1。

 次のサインは、外角低めギリギリのストレート。


(ここで低めを見せておいて――)


 敦は、一球先の配球までイメージしながら、うなずいた。


 振りかぶり、投げる。

 ボールは、わずかに低く入りかけて、ギリギリでストライクゾーンをかすめた。


 七番は、迷いながらもバットを出し、打球はバックネット方向へのファウル。


「ストライク、ツー!」


(よし、フルカウント)


 3-2。

 ここまでボール先行で始まった打席が、ようやく“イーブン”になった。


(ここから先は、一球ごとに勝負)


 四球も、ヒットも、三振も、全部あり得るカウント。


 佐伯のサインは、ほんの一瞬だけ遅れて出た。

 外角高め、ストレート。


(勝負球で高め……)


 敦は、一瞬だけ迷ってから、強くうなずいた。


(ここまで低め低めで来てる。

 “低めに来る”と思っているところに、“振らせに行く高め”)


 イメージは、昨日見た高木の決め球。

 あれより少し速い球を、自分なら投げられる。


 振りかぶり、力を込める。

 全力ではないが、今の自分が“試合で出していい上限”ぎりぎりの出力。


(上から、叩き込むように――)


 ボールは、キャッチャーミットの少し上側、ゾーンの上半分に伸びてきた。


 七番打者の目線が、わずかにその軌道に遅れる。


 迷いなく振られたバット。

 空を切る音。


「ストライク! スリー!!」


 審判の右手が、大きく上がった。


 一瞬、時間が止まったように感じた。


 次の瞬間、ベンチからどっと歓声が溢れる。


「よっしゃああああ!!」


「ナイスピッチ!!」


「一年、やったぞ!!」


 敦は、マウンドの上でしばらく動けなかった。


(……抑えた)


 遅れて、スクリーンが静かに表示を変える。


――七回表結果

 ・打者3人

 ・被安打0

 ・奪三振1

・四球0

・失点0


――初登板ミッションクリア

 ① 四球で自滅しない:達成

② 初球ストライク率50%以上:達成


 その文字が、じわじわと胸の奥に染み込んでくる。


     *


 「整列ー!」


 キャプテンの声で、全員が一塁側ベンチ前に集まり、相手チームの前に並ぶ。


「ありがとうございました!」


 両チームの声が響き、礼をする。


 握手を交わし、挨拶が終わると、ようやく“試合が終わった”実感が湧いてきた。


「山下!」


 ベンチに戻ろうとしたところで、後ろから背中を叩かれた。


「ナイスピッチ!」


 高木だった。


「すみません……追いつかれた場面、俺がもっと――」


「何言ってんだよ」


 高木は、少しあきれたような笑顔を見せた。


「あそこで一点で踏ん張ったから、最後お前が投げる場面ができたんだろ」


「……でも」


「“でも”じゃない」


 高木は、少し真面目な顔になった。


「今日の一点は、俺の責任。

 でも、“最後のゼロ”はお前の仕事だ。

 どっちもちゃんと受け取っとけ」


 その言葉に、敦はうまく返事ができなかった。


「おい一年!」


 今度は野手陣がわらわらと集まってくる。


「ショート、ナイスキャッチでした」


「センターのあれもな。あれ抜けてたら危なかったぞ」


 敦が頭を下げながら言うと、ショートは肩をすくめた。


「お前の球が速かったから、ライナーの角度がちょうどよくなったんだよ」


「いや、完全に反射神経の問題でしょ」


「そこは素直に“ありがとうございます”だろ」


 センターが笑う。


 みんなの笑い声が、さっきまでとは違う響き方をしているように感じた。


     *


 ベンチに戻ると、村井がスコアブックを片手に立っていた。


「山下」


「はい」


「ナイスピッチだ」


 短い言葉だったが、その重みは十分だった。


「ありがとうございます」


「内容は課題だらけだがな」


「……そうですよね」


「最初の打者も、次の打者も、野手に助けられてアウトを取った。

 それはちゃんと自覚しておけ」


「はい」


「ただし――」


 村井は、そこではっきりと口元を緩めた。


「“助けてもらえるような球”を投げていたのも事実だ。

 打たせて取るピッチングっていうのは、本来そういうものだ」


「……はい」


「最後の三振。あれは、お前の“意志”で投げた球だな?」


「はい。ストレートで行きたいって、自分から言いました」


「いい顔してた」


 村井は、ふっと笑った。


「今日の内容で、“お前の評価が急に何段階も上がる”わけじゃない。練習試合だし、イニングも一回だけだ」


「はい」


「でも、“公式戦でも使ってみたい”と思わせる十分な材料にはなった」


 その言葉は、敦の想像以上に重く、そして嬉しかった。


「これから、だ」


「……はい」


「一回抑えたくらいで満足するな。

 でも、一回抑えたことの価値は、絶対に軽く見るな」


 敦は、深くうなずいた。


「わかりました」


     *


 着替えを終え、バスに乗り込む。

 行きとは違い、車内の空気は少しゆるんでいた。


「なあ」


 隣の席に座った中村が、肘で敦をつつく。


「投げたな」


「ああ」


「ちゃんと三人で終わらせてんじゃん。すげえよ」


「たまたま、だよ。野手に助けられて――」


「あのさ」


 中村は、わざとらしくため息をついた。


「さっき高木先輩にも同じこと言われてただろ。“自分の仕事もちゃんと受け取れ”って」


「……見てたのか」


「見てたに決まってんだろ。

 俺ら一年の誰よりも、“あのマウンド”見てたわ」


 そう言って、少し笑う。


「どうだった?」


「何が」


「マウンド」


 敦は、窓の外に流れていく景色をぼんやり見つめながら、言葉を探した。


(怖かった。

 正直、吐きそうなくらい緊張した瞬間もあった。

 でも――)


 それ以上に。


「……楽しかった」


 口に出してみて、初めてはっきり自覚した。


「怖いんだけど、楽しい。

 怖いからこそ、投げてみたくなる感じ」


「うわ、完全にピッチャーの沼に片足どころか両足突っ込んでるじゃん」


「自覚は、ある」


 二人で少し笑う。


 スクリーンが、視界の端でそっと開いた。


――本日のまとめ


 ◆投手ステータス

 ・登板:1回

 ・投球回:1回

 ・被安打:0

 ・奪三振:1

 ・与四球:0

 ・失点:0


 ◆評価

 ・制球:合格ライン

 ・メンタル:想定以上

 ・改善点:

  ― カウント不利からの組み立て

  ― 「助けられたアウト」の再現性


 ◆次回ミッション(提案)

 ・二イニング以上の登板を想定したスタミナ管理

 ・先頭打者へのフォアボール“ゼロ”維持


「……宿題、多すぎないか?」


 敦は、小さく笑った。


「お前、たまにニヤニヤしてて怖いぞ」


「自分自身と会話してただけだ」


「それはそれで怖いわ」


 中村のツッコミを聞きながら、敦は窓の外に視線を戻した。


(ここから、だ)


 今日の一イニングは、“終わり”ではなく、“始まり”だ。


 まだ公式戦のマウンドにも立っていない。

 打席にも立っていない。

 捕手として、試合をフルで任されたこともない。


(まだ、何も成し遂げてない)


 でも、たった一回だけとはいえ、あの場所でボールを投げた。


 それは、前の人生のどの瞬間とも違う、確かな実感として心に残っていた。


     *


 夕方、家に帰ると、玄関の前で父が待っていた。


「ただいま」


「おう」


 父は、それだけ言って敦の顔をじっと見る。


「……どうだった」


「勝った。2―1。最後の回、投げさせてもらった」


「そうか」


 父の口元が、ほんの少しだけ上がる。


「で?」


「三人で終わらせた。ノーヒット、ひとつ三振」


「そうか」


 さっきより、ほんの少しだけ笑みの幅が広がる。


「怖かったか」


「怖かった」


「楽しかったか」


「……楽しかった」


 そう答えると、父はゆっくりとうなずいた。


「それなら、上出来だ」


 それだけ言って、くるりと背を向ける。


「風呂、先に入ってこい」


「うん」


 敦は靴を脱ぎながら、心の中で小さく息を吐いた。


(まだ、始まったばかりだ)


 風呂場に向かう廊下の途中、ふとスクリーンが小さく明滅した。


――新規長期ミッション解放


 『公式戦のマウンドに立て』


 その一行に、敦は思わず笑ってしまった。


「……上等だろ」


 小さくそう呟いて、バスルームの扉を開ける。


 湯気の向こう側に、これから続いていく“二度目の高校生活”の景色が、ぼんやりと広がっているような気がした。


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