第13話 マウンドの手前で

 四回のピンチを切り抜けた矢部がベンチに戻り、ハイタッチの列ができる。


「ナイスピッチ!」


「さすがっす!」


 敦も、その列の端で手を出した。


「お疲れさまです」


「ああ」


 矢部は短く返し、ベンチの奥に腰を下ろす。

 その横で、高木がすでに肩を回し始めていた。


 一点リードのまま迎えた四回裏。

 うちの攻撃は、二死一・二塁とチャンスを作ったが、最後は鋭い当たりのサードライナーでチェンジになった。


(あれが抜けてれば、もう一点入ってたな)


 ベンチに戻りながら、敦は空を見上げる。

 雲は増えてきたが、まだ雨になりそうな気配はない。


――現在スコア

 ・四回終了 1-0(こちらリード)

 ・残りイニング:3(※本日7回制)


(あと三回か)


 スクリーンの表示に、敦はそっと息を吐いた。


 そのタイミングで、村井が投手陣の前に立つ。


「五回からは高木だ」


「はい」


「状況次第で、そのあと山下。さっきも言ったが、“点差が開いたから一年を投げさせる”つもりはない。勝負どころで使う」


「……はい」


 胸の奥で、心臓が少しだけ強く打った。


     *


 五回表。

 高木がマウンドに向かって歩いていくのを、敦はベンチから見送った。


 矢部ほどではないが、高木も、二年の中では実戦経験のある投手だ。

 コントロールが良く、変化球で打たせて取るタイプ。


(“あと三回”のうちの一つを任されるのは、普通に重い)


 そんなことを考えていると、スクリーンがさりげなく文字を浮かべる。


――登板ローテ想定

 ・5回:高木

 ・6回以降:状況により山下起用の可能性


(わかってる。わかってるから、いちいち出さなくていい)


 心の中でそう返しながら、敦はベンチ前に立ってグラウンドを見つめた。


 一番バッター。

 高木の初球は、外角に決まるストレート。

 そのあと、スライダー、カーブでタイミングをずらし、三球三振。


「ナイスボール!」


 ベンチの声に、敦も自然と声を重ねる。


 二番打者は、ファーストゴロ。

 あっさり二アウト。


(このまま三人で終われば――)


 そう思った矢先だった。


 三番打者。

 初球のスライダーを、外野と内野の間にポトリと落とされる。


 フライかと思った打球が、誰の手にも届かないところに落ちた。


「チッ……」


 高木の小さな舌打ちが、ベンチまで届く。


(こういう打たれ方が一番イヤなんだよな)


 敦は、スクリーンに浮かぶデータをぼんやり眺めながら思った。


――被安打評価

 ・コース:そこまで甘くない

 ・打球質:詰まり気味/結果ヒット

 ・運要素:やや不運


(そう、“打たれた”というより“落とされた”って感じ)


 だが、ランナーが出た事実は変わらない。


 続く四番。

 一球外して様子を見たあと、外角低めのストレートでストライク。


(さっき矢部さんがピンチで投げてたのも、アウトローだったな)


 敦の頭の中で、さっきの場面がフラッシュバックする。


(“決めに行く球”が、どういう形になるか)


 高木は、カウント2-1からスライダーを続けた。

 四番打者はそれをファウルにする。


 2-2。

 フルカウント一歩手前。


 佐伯が出したサインに、高木がわずかに首を振る。

 もう一度サインを出し直し、今度はうなずいた。


(何だ?)


 敦は、佐伯のミットの構えを食い入るように見た。


 高めに構えたミット。

 そこに向かって、高木のストレートが伸びる。


 四番のバットが、空を切った。


「ストライク! スリー!」


 審判の右手が上がる。


「ナイスボール!」


 ベンチが一気に沸いた。


(あえて高めか……)


 スクリーンが、さりげなく解説を出す。


――四番打者への決め球

 ・配球意図:

  前の打席までの傾向より、高めの見送りが多い

  → 意表を突く“見逃しゾーン”にストレートを通す選択

 ・結果:空振り三振


(ただの“遊び球”じゃなくて、ちゃんと狙ってたってことか)


 敦は、軽く鳥肌が立つのを感じていた。


     *


 五回裏。

 こちらの攻撃は、下位打線から始まった。


 先頭の七番が粘って四球を選び、バントでランナー二塁。

 しかし、そのあとのチャンスを生かせず無得点。


「追加点欲しいな」


 ベンチに戻ってきた上級生が、ベンチ前でつぶやく。


「一点差は、何が起きてもおかしくないからな」


(本当にそうだ)


 敦も、内心同じことを思っていた。


――スコア状況

 ・五回終了 1-0(こちらリード)

 ・残りイニング:2


(たった二イニング、されど二イニング)


 その間に、自分に順番が回ってくるかどうか。


     *


 六回表。

 高木が再びマウンドに向かう。


 敦は、ブルペンに呼ばれていた。


「山下、軽く動かしておけ」


「はい」


 さっきよりは少し本気に近い強さで、ストレートを投げる。

 田島のミットが、重い音を響かせる。


「ちょっと出力上げた?」


「さっきよりは」


「いい感じだわ。高さもそこまでバラついてない」


 スクリーンが、投球ごとに細かく数値を更新していく。


――簡易フォーム診断

 ・リリース位置のバラつき:小

 ・踏み出し位置:許容範囲内

 ・球速レンジ(七割):135〜138km/h推定


(七割でこれか。全力出したら、どこまでいくんだろうな)


 そんなことを考えかけて、敦は自分で自分を制した。


(今は、“出力を上げること”より“ゾーンに投げ込むこと”だ)


 そのとき、グラウンドから大きな歓声が上がる。


「おい、どうした!」


 田島が振り向き、ブルペンからグラウンドを見る。


 一番打者。

 高木の投げたボールを、きれいにセンター前へ弾き返していた。


(ノーアウト一塁、か)


「もう一人、打たれたら交代かもな」


 田島がぽつりと言う。


 敦は、喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。


 二番打者。

 送りバントの構えを見せる。


 高木は、一度牽制を挟んだあと、ストライクゾーンにきっちりとボールを入れた。

 バントは成功、一死二塁。


(“教科書通り”の展開だな)


 三番打者。

 ここをどう抑えるかで、この回が決まる。


 カウント1-1からの三球目。

 高木のカーブが、少し抜けた。


 甘く入ったボールを、打者が逃さない。

 強烈なライナーが、三遊間を破った。


「やばっ」


 敦の口から、思わず声が漏れる。


 レフトが前進して捕球したものの、二塁ランナーは三塁を蹴り、ホームへ突っ込んでくる。


 返球はわずかに間に合わず、同点。


「セーフ!」


 審判の両手が左右に大きく広がる。


「くそっ……」


 高木が帽子のつばをつかみ、悔しそうに下を向いた。


 なお、一死一塁。

 四番打者を迎える。


(ここで、さらに行かれたら……)


 ベンチから、村井の声が飛ぶ。


「タイム!」


 佐伯がマスクを外し、マウンドに向かう。

 そのあとを追うように、内野陣も集まった。


 ブルペンの入口に、村井が立つ。


「山下」


 呼ばれただけで、心臓が一段階跳ね上がる。


「はい」


「あと二人。高木に任せる」


「……はい」


「だが、この回で逆転されるようなら、次の回頭からお前を行かせる可能性が高い。そのつもりで準備しておけ」


「わかりました」


 “今すぐ”ではない。

 だが、“もうほとんど次”だ。


 スクリーンが、文字を切り替える。


――登板シミュレーション更新

 ・今回:六回裏からの登板可能性【高】

 ・状況想定:同点またはビハインド/流れを変える役割


(ビハインドから、かもしれないのか)


 敦は、喉の奥がさらに乾くのを感じた。


     *


 四番打者。

 高木は、慎重に外角低めから入った。


 ストレート、スライダー、カーブ。

 球種を散らし、カウント2-2まで持ち込む。


(ここを抑えられれば、まだ十分立て直せる)


 佐伯のサイン。

 高木がうなずき、投じたのはインコース寄りのストレート。


 打者のバットが回る。

 詰まった打球は、セカンド正面のゴロになった。


「よし!」


 セカンドが二塁に踏み込み、そこから一塁へ送球。

 ダブルプレー。


「スリーアウト!」


 審判の声がグラウンドに響く。


 ベンチが大きく沸いた。


「ナイスボール!」


「ナイスピッチ!」


 敦も、胸をなで下ろすような気持ちで声を張り上げる。


――六回表終了時点

 ・スコア:1-1(同点)

 ・残りイニング:2


(追いつかれたけど……まだ“振り出し”だ)


 高木がベンチに戻ってくると、村井が短く声をかける。


「よく粘った」


「でも、追いつかれました」


「一点リードを完全に守り切ることだけが仕事じゃない。最小失点で止めるのも立派な仕事だ」


 高木は、少しだけ表情を緩めてからベンチに腰を下ろした。


 そのやりとりを見ながら、敦は自分の胸の内を確かめる。


(次、俺が行く可能性が高い)


 怖さは、ある。

 でも、それだけじゃない。


 同じくらい、いや、それ以上に――

 どこかで「早く投げてみたい」という感情が、確かに膨らんでいた。


     *


 六回裏。

 こちらの攻撃は、上位打線から始まった。


 一番打者が、粘った末にセンター前ヒット。

 続く二番は送りバントを試みるが、ピッチャーの好フィールディングで二塁封殺。


「もったいねえ!」


 ベンチから悔しそうな声が上がる。


(三塁まで送れれば……というところだったな)


 三番打者の打球は、レフトライナー。

 ランナーは戻るだけで精一杯。


 四番。

 この試合、まだ目立った当たりがないが、いつ一発が出てもおかしくない打者だ。


 相手ピッチャーも、明らかに慎重に投げている。


 カウント2-2。

 インコース寄りのボール。

 四番のスイング。


 詰まりながらも、打球はレフト前へポトリと落ちた。


「よし!」


 一塁ランナーは全力で三塁へ向かう。

 レフトからの返球は少しそれて、三塁はセーフ。


 ツーアウト一・三塁。


「ここで一本!」


 ベンチの声が、大きくなる。


 五番打者。

 初球をファウルにしたあと、二球目を見送り、カウント1-1。


(三振でも、凡打でも、何でもいい。とにかく前に飛んでくれ)


 敦は、ベンチ前で無意識に手を握りしめていた。


 三球目。

 低めに落ちるスライダー。


 五番は食らいつくようにバットを出し、ボールは一塁線ぎりぎりに転がった。


「フェア!」


 塁審の右手が回る。


 一塁手が追いついたが、ベースカバーのピッチャーへの送球が少し遅れた。

 五番はヘッドスライディングで一塁に飛び込み、間一髪セーフ。


 その間に、三塁ランナーがホームイン。


「よっしゃああああ!」


 ベンチが一斉に立ち上がる。


――六回裏終了時点

 ・スコア:2-1(こちら再びリード)

 ・残りイニング:1


(あと一回……)


 今度は“守り切る側”になった。


     *


 七回表。

 この回を抑えれば、勝ち。


 ベンチ前に全員が集まる。


「最終回だ」


 村井の声は、いつもより少しだけ低かった。


「一点差。練習試合とはいえ、“一点を守って勝つ”経験は大事だ」


 そう言ってから、村井は投手陣の方へ視線を向ける。


「この回は――」


 一瞬の間。

 敦の心臓が、耳のすぐそばで鳴っているように感じた。


「一年、山下で行く」


 その言葉が落ちた瞬間、時間がほんの少しだけゆっくり流れたように感じた。


「はい」


 自分の声が、思ったよりもはっきり出たのに驚く。


「矢部と高木が作ってくれた試合だ。お前は、それを“壊さない”ことを第一に考えろ」


「……はい」


「だが、“守るだけ”だと思うな。“攻めて抑える守り方”もある」


 言われていることは、矛盾しているようでいて、妙にしっくりきた。


(壊さない。けど、逃げない)


「佐伯」


「はい」


「バッテリーはいつも通り、お前が引っ張れ。ただし――」


 村井は、佐伯と敦を交互に見た。


「サインの意図は、いつも以上に丁寧に共有しろ。山下には、“なぜ今この球なのか”を一球一球考えさせろ」


「了解です」


「山下」


「はい」


「怖いか?」


 同じ質問を、以前にもされた気がする。


「怖くないと言ったら嘘になります」


「けど?」


「それ以上に、“投げてみたい”って気持ちの方が、今は強いです」


 村井の口元が、わずかに緩む。


「なら、十分だ」


 短くそう言って、背中を押された。


「行け」


     *


 ベンチを出るとき、敦は一度だけ足を止めた。


 グローブをはめる前に、ボールを握る。


 手のひらに伝わる革の感触が、少しだけ汗ばんでいるのを感じた。


(これが、俺の“スイッチ”だろ)


 深呼吸を一つ。


 視界の端で、スクリーンが静かに明滅する。


――初登板ミッション

 ・七回表(最終回)を無失点で切り抜けろ

 ・条件:

  ① 四球で自滅しない

  ② 初球ストライク率50%以上


「ハードル、地味に高くないか」


 小さくぼやきながらも、敦はマウンドへと歩き出した。


 土の感触が、スパイク越しに伝わってくる。

 さっきまでブルペンで投げていたときよりも、明らかに足が重い。


 マウンドに上がり、プレートの前で一度立ち止まる。


(ここだ)


 十八メートル四十四。

 前の人生で何度テレビ越しに見てきた距離か。

 草野球で何度も“なんちゃって”で投げた距離か。


 今、その場所に“本当に”立っている。


 キャッチャーミットを構えた佐伯が、軽く顎を引いた。


「とりあえず、思い切って投げろ」


 声は、それだけだった。


 審判が、試合再開の合図を出す。


 スタンドからは、両校の声援が飛んでくる。

 そのざわめきが、少しだけ遠くに感じた。


 マウンド上で、敦はボールを握り直した。


(初球は――ストレートだ)


 頭の中では、もう何度も投げた球。

 だが、ここで投げる一球は、それとは別物だ。


 振りかぶる。

 足を上げる。

 踏み出す。

 腕を振る。


 ボールが手を離れ、ホームベースへ向かって飛んでいく。


 その軌道を、敦はスローモーションのように感じていた。


 ミットに収まる音。

 審判の声。


「ストライク!」


 右手が、高く上がった。


 佐伯が、ミット越しにわずかに口元を緩める。


 敦は、胸の奥に広がるものを、うまく言葉にできなかった。


(ああ――)


 ようやく、ここまで来た。


 七回。

 一点差。

 最終回。


 初めてのマウンドで放った、初めての一球。


 スクリーンが、静かに一行だけ表示を変える。


――初登板:正式開始


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